IX
《Edward》
すん、と鼻をすする音がした。
シナモンティーを二つのカップに注ぎ、一つをエリザベスに渡す。
彼女は喉につかえたような声で「ありがとう」と言ってカップを受け取り、目頭を押さえる。
三時間ほど前、「シェイクスピアの生誕祭だし、何か彼の作品を観に行きましょう」と提案した彼女に半ば強引に劇場へと連れられた。
演目は『ロミオとジュリエット』だ。
幕がおりた後、涙をぽろぽろと零す彼女を連れて劇場から帰宅し、今に至る。
「結末を知っててもやっぱり泣いてしまったわ」
カップに口をつけ、彼女がもう一度鼻をすする。
「僕は悲劇だと思わないな。互いを愛し合って死ねたなら幸せじゃないか」
彼の意見に、彼女は可笑しそうに笑った。
「ふふ、エディって変わってるのね」
「変わってるのはお互い様だろ」
そう言って、彼女につられるように笑う。
何の意味も無いこんなひと時が、いつしかとても大切に思うようになった。
そんな温かな心を自覚するほどに、二つの矛盾する欲に苛まれるのだった。
《Elizabeth》
深夜、水の落ちる音で目が覚めた彼女は眠たい目を擦りながら、エドワードがいつも寝ているソファに目をやる。
だがそこに彼の姿はなかった。
音の発生源であろうバスルームへ向かうと、服を着たまま水をかぶり壁に両手をついて何かぶつぶつと呟く彼がいた。
「エディ?」と声をかけるが、聞こえていないようだ。
普通じゃない様子に心配になり、びしょ濡れの背にそっと触れると、突然手首を掴まれ乱暴に壁に押し付けられる。
ネグリジェ越しの背にタイルの冷たさを感じながら、浅い呼吸を繰り返す彼の名をもう一度呼んだ。
《Edward》
はっと我に返ると、心配そうに見つめるエリザベスがいた。
咄嗟に腕を離し壁際まで下がる。
「こんなつもりは、ごめん、僕は、」
彼女の方を見れず、両の手のひらで顔を覆う。
食べたい。一つになりたい。食べたくない。僕だけのものに。食べないと。このまま何気ない日々を。約束したじゃないか。
頭の中でぶつかり合う思いに混乱し、声にならない声をあげる。
以前のように人を食べればこの欲は落ち着くかもしれない。
そう思っても、彼女以外は口にしたくなかった。
人間を獲物としか見ていなかったが、彼女は特別だと知った。
特別であるが故に反発し合う心に苦しんだ。
もう誤魔化せない。彼女を愛している。愛してしまった。
《Elizabeth》
「・・・エディ、私を見て?」
項垂れる彼に近寄り、優しく頭を撫でる。
恐る恐る手をおろし此方を見る彼の目は涙の膜で煌めいていて、月明かりの様で綺麗だと思った。
食べられる努力をしていれば、憎まれる努力をしていれば、あの夜出会わなければ、愛さなければ、
愛しい彼をこんなに苦しめることはなかったかもしれない。
「ごめんなさい、私のせいで」
締め付けられるような思いで謝罪すると、彼が首を大きく横に振った。
「違う!君のせいじゃない!僕が、僕なんかが君を、愛してしまったから・・・」
消え入りそうな声で言葉を紡ぐ彼を引き寄せ、その震える唇に自身のそれを重ねる。
涙と、ほんのり鉄の味がした。
《Edward》
突然の行為に一瞬戸惑ったが、応えるように彼女の身体を抱きしめる。
力一杯抱けば折れてしまいそうな身体を、強く、優しく。
触れる事がこんなにも心地良いなんて知らなかった。
温かな彼女の体温が、冷え切った身体と心を温めてくれる。
満ちていく幸福感と反対に、涙は止めどなく溢れた。
唇を離すと、彼女がふわりと微笑んだ。
「まるで雨の日に捨てられた子犬みたいね。早く着替えなくちゃ、風邪を引くわ」
そう言ってまた頭を撫でてくれる彼女の肩に顔を埋める。
「リズ、お願いだ・・・。もう少し、もう少しだけこのまま・・・」
「・・・えぇ、いつまででも」
バスルームに彼の咽び泣く声だけが小さく響いた。