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プロローグ






 いつもと変わらぬ、と言えることはなんと素晴らしい事か。

 今こうしている間にも孤独な部屋で老婆が一人死に、貧民街で赤子が生を受ける。決して変わらぬものなどありはしない。

 しかし愚かで醜悪な多くの人間は世界の痛みを感じることなどない。

 感じるのはただひと時。


 チェックメイトのコールが、鳴り響いた時。







 沈黙に満ちた廊下から僅かな気配が漂う。上質な革の靴音と金属の軋む音。それらは近付き、そして止んだ。

 三回扉を叩く音がする。

「お目覚めの時間でございます。」

 扉が開くと同時に聞き慣れない声がする。

「本日はべノアのダージリン・アールグレイをお持ち致しました。」

 その声を最後まで言い終える前に執事の顔に動揺が走る。

 執事が朝主人が起きるタイミングを見計らい、部屋へアーリーモーニングティーを届けるのは執事の古くから伝わる大切な仕事。その為執事は常に主の部屋に気を配り、起床時間を正確に読み取らなければならない。

「おはよう。」

 そう答えた主人は眠気などとうに振り切り、正常な意識と輪郭のある声音を纏っていた。

「お目覚めでございましたか。申し訳ございません。」

「別にいい。いつもこうだからな。」

「良くありません。以後気をつけます。」

 そうして執事はベッドまで近付く。サイドテーブルの横でティーワゴンを止め、ティーカップにベルガモットの薫りを注ぎ、主人の手へ手渡す。

 べノア特有のアロマの香りが鼻から抜けていく。アーリーモーニングティーにはぴったりの逸品だ。

「本日の予定をお伝え致します。午前はシャルロット教授による現代フランス史、グレー教授による経済学の授業でございます。午後はフランシス夫人によるピアノレッスンの後、五時にランドルワース卿がいらっしゃいます。」

「わかった。」

 主人は乾いた紙を捲るのを止め、サイドテーブルに置いた。

 細くしなやかで白く長い指が表紙を摩る。そしてベットから降り、執事の用意したスリッパを履く。癖の無い漆黒の髪が微かに揺れ、僅かに上を向き、大きく澄んだ瞳で執事を見つめる。

「宜しく頼むぞ、執事。」

 執事は片脚を跪き、最敬礼のお辞儀をする。

「畏まりました。」





 プーランクの即興曲第八番がホールで鳴り響く。近現代派らしい不安定なリズムと得体の知れぬ不協和音が、見事な旋律を奏でている。アレグレットコモドを終始貫きつつ、ピアノ且つドルチェから始まりメゾフォルテ、ピアノと細かに調べの空気を変え、一瞬にも満たぬ空白の後、フォルテッシモが舞い降りる。

「一週間でここまで弾けるなんて。久々の近現代だから戸惑うと思ったのに、当てが外れたわ。流石私の一番弟子ね」

「光栄です、フランシス先生。」

「次は何にしようかしら。近現代は作曲家の個性が特に光る作品ばかりだから是非触って頂きたいのよね。何か希望はある?」

「そうですね。もう時期冬も終わりますし華やかな曲はいかがでしょうか。」

 レーゲンは頬を撫でる髪を耳に掛け、穏やかに告げる。

「華やかね。そうだ、グラナドスの演奏会用アレグロなんてどう?速いし分散和音が多いけれど、レーゲンの手なら足りると思うの。家に譜面あるかしら?」

「後で書斎で探してみます。もし無ければ注文しておきますね。」

 そう言ってレーゲンは立ち上がり、夫人に向かって礼をする。そして顔を上げ、優しく微笑む。白く華奢な顔立ちは触れたら壊れてしまいそうな儚さを纏い、母性本能を擽る天使の笑顔は少年らしさを物語る。

 夫人は思わず自分より頭一つ分は高い肩に腕を巻き付け、左頬にキスをした。

「いつかもう一度家にいらっしゃい。今度は主人がいない時にね。」

 レーゲンは笑顔で答えると、腕を静かに解き、執事を呼んだ。次のレッスンの日程決まったら連絡してね、と言い置いて夫人は執事に連れられ退出する。

 扉が閉まり、夫人と執事の姿を隠す。

 その瞬間、顔から笑みは消えた。眉間に皺を寄せ、強く頬を拭う。手の甲を見ると林檎のような赤い口紅の色が広がっていた。

「落ちやすいルージュつけてキスとか気軽にしないでくれ。それに四十路にもなって十六歳を誘うとか欲求不満の人妻の鏡だな。」

 溜息をついたレーゲンはもう一度椅子に座り譜面台を一瞥する。指を伸ばしページを捲っていく。見開き二ページしかない第八番を過ぎ去り十三番まで行って手を止める。

「今夜何か弾くか。」

 今日は珍しく来客のある日。我が家の名に相応しい素晴らしいもてなしが求められるだろう。

 考えをまとめようとした頃に執事は帰ってきた。

「レーゲン様、何か御用はありますでしょうか。」

 虚ろな目でピアノの楽譜を見ていたことから何か感じたか。

 しかし、今この男には用はない。

「何もない。もてなしの準備は順調か。」

「滞りなく進んでおります。何か気になる事でもございましたか。」

「いや、ならいい。ただ夕食にこのホールを使いたい。」

「承知致しました。他になにか無ければ、これで失礼させていただきます。」

 頷くと執事は去っていく。

 レーゲンも暫くここには用はない。頭に描いた段取りを全うすべく、執事に続いて部屋を出ていった。





「これはこれは。お久し振りですな、レーゲン君。いや、スカーレット伯爵。」

「お久し振りです、ランドルワース卿。」

 再開の握手を交わす。がっちりした褐色の手はレーゲンの手を更に細く見せる。

「長旅でお疲れでしょう。どうぞ大広間へ。」

「有難う。」

 レーゲンの先導で広く長い廊下を歩む。

 そう、レーゲン・スカーレットは古くからある名家、スカーレット伯爵家の当主なのである。

 十六歳の若さで成し得た偉業は両手両足を以ても足りず、若さを理由にレーゲンを蔑んだ人々の口を黙らせてきた。今や世界の富裕層で「スカーレット」の名を知らぬ者などいるはず無い。

 今日の来客も単なる交友ではない。大人の事情の渦巻く「商談」なのである。

「もし疲れが酷ければ、お話はディナーの後に致しましょうか?」

「いや、大丈夫だ。それほど遠くはなかったからね。距離というより歳のせいだよ。」

「ランドルワース卿はお若いほうでしょう。まだまだ現役で頑張って頂かなくては。」

「ははは、レーゲン君に言われてしまったら形無しだな。」

 ランドルワース卿とレーゲンは今日が初対面ではない。それ程広くないこの国の社交界では、幼い頃に社交デビューしなかった者でもすぐに自然と顔見知りになる。しかし、ランドルワース卿はその程度の関係だけでは留まらず、スカーレット伯爵家と古い付き合いのある大事な方だ。代々両家は繋がりを持っていたが、先々代からは特に互いに強い協力関係を築いてきた。

 ランドルワース卿が当主を務めるランドルワース男爵家は起業家や未来ある者に手を差し伸べ、融資などの支援を行っている。その為社交界でなくとも顔が広く、人脈には事欠かない。それがランドルワース男爵家の唯一かつ最大の強みだ。

 融資には当然リスクが伴う。芽が出ず霞んでしまった者も数知れない。しかしそれでもランドルワース男爵家が傾く様子は無い。つまりそれだけ「人脈」という武器が強力だということ。

 目の前に座るランドルワース卿からは穏やかな空気が漂う。決して軽くはなく重苦しくもない、相手を包み込む程鬱陶しくもない心地よい口調と態度。代々の当主に通ずるこの雰囲気は相手に対して初めに打つ一手なのだろう。不快さを微塵にも起こさせない。

 商談中もランドルワース卿は常に微笑んでいた。それは受け入れてもらえると胡座をかいている余裕のある笑みでなく、ひとつひとつ丁寧に、相手を安心させるように説明する口調にふさわしいもの。

 約一時間半ほどして全ての商談を終えた。お互いの更なる親交と協力を約束した有意義なものとなっただろう。

 安心したのか、ランドルワース卿は空腹を感じ始めたらしい。

 レーゲンはそれを見越し執事を呼んだ。

「お待たせ致しました。夕食の準備は整っております。ホールへご案内致します。」

 先導する主人に客人の後ろに続く執事。時を経ても根本的な作法は変わらない。

 階段を降り、中庭に面するホールに着く。

 執事が静かに扉を開き二人を晩餐へ誘う。

 程よく暖かい部屋と美しく並べられた食器達。

 ここからは使用人達の腕の見せ所である。

 口に運ぶ時に最も美味しくなるよう計算された料理。料理の邪魔をせずかつ隠れもしないワインの味。完璧に磨かれた銀食器。さり気なくテーブルを彩るアマリリス。

 未成年のレーゲンも五十歳近くになるランドルワース卿も十分満足出来るよう、あらゆる配慮がなされている。

ランドルワース卿は一つ一つを褒め称え、満足そうに味わって食を楽しんだ。

 そして食後のティータイムも終わり、そろそろお開きかという時間になる。

 しかし突如としてランドルワース卿は最後のもてなしを提案される。

 レーゲンのピアノ演奏。

 曲はフランツ・リストの「ラ・カンパネラ」。

 ランドルワース卿がリスト好きというのを知る彼の最大のもてなし。それはランドルワース卿を極上の世界へ連れていく音の調べであった。

 冗談と建前と本音が行き交う談笑よりも、ランドルワース卿にとって残るものとなろう。

 今更述べるまでもないほどの有名曲。だが、知名度と難易度に因果関係はない。

 指が大きく広げられ、白と黒の間を行き来する。技術偏重の作曲家の作った曲を軽々と完璧に音にしていく。

 ピアノの音は、弾き手の内面を告げる。ピアノ講師が頻繁に使う言葉。

 その言葉を借りるとするなら、レーゲンが奏でる音はまさに天使のようであった。






 演奏が終わると、眠気の生じたランドルワース卿は帰り支度を始める。

 同行した運転手の方のもてなしも無事終了したようで、二人は感謝の意を述べて早々と立ち去った。

 もう既に夜の帳が下りている。冬の夜は寒く暗い。二人共今日は早々に眠りにつくだろう。

 二人にとって今夜は素晴らしいものとなっただろう。ランドルワース卿の微笑みが一瞬消えた理由も今は彼の頭にはない事をレーゲンは確信している。

 勿論レーゲンにとっても今夜が素晴らしいものとなった事は変わりない。

 しかし、ランドルワース卿の抱く思いとは大きく異なるだろう。商談が無事終えた安心感などレーゲンは抱いていない。

これはまだ、レーゲンにとっては始まりでしかなかったのだから。



















 一ヶ月後、新聞やニュースに大きく取り上げられた事件がある。





「ランドルワース卿 バイロイトにて死す」



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