「なろう」の主成分は何だろう?
小説だと思って書いたのなら、それはその人にとっては「小説」なんだろう。例え他人がどう思おうとも。
それが幸せなことなのかは知らないけれど。
考え方なんて人それぞれで当たり前。価値観だって皆が同じなら、ずいぶん画一的で融通の効かない、味気ない世の中になってしまう。
だから、意見を戦わせるのは大いに結構。だけど単なる誹謗・中傷やこ汚いヤジはやめよう。国会中継見てれば、どれだけ人の目に醜悪に映るのかわかるでしょ。
いきなりだが、これは僕の意見でしかない。
他人に全面的に受け入れられるとは思っていないし、仮にそうだったら、逆に気味悪く感じるだろう。そもそも、他人にこう考えろと強制する権利は、僕にはないのであるが。
この「なろう」でも、異なる価値観や意見を戦わせる姿を時折見かける。
これだけ人が集まれば当たり前のこと。匿名性に任せて、感情的に汚い言葉を連ねる輩もいるが、これは自分を客観視しないか、またはできない残念な人達だから仕方ない。そんな輩とは違うところを見せてくれ。
このように、野次馬根性丸出しで見守っていると、気付くことがある。
それは「発表することは自由だ」という価値観は、共有されているということだ。
どんなに口汚く人の意見を罵る人でも、「お前の意見なんか発表すんな」とまではいかない。何故ならそのまま自分に返ってきてしまうからね、という道理は最低限理解しているようだ。
このように普通良識と見なされるものは、皆に共有されていることが多い。当たり前だろと言われたらそれまでのことだけど。
ましてやこれが「暴力はダメ」「人の物は盗るな」みたいな、人が安全に暮らしていく上で必要なことなら尚更だ。これは集団の本能みたいなものだろう。
また、その価値観が「良識」かどうかなんてものは、それを都合が良いと受け止める人の多寡によって決まるものだ。
分かり易く言えば、皆理由もなく殴られたくないから「暴力はダメ」だと見なされているということだ。至極健全で、これからもこうであって欲しいとつくづく思う。
では「なろう」で「発表することは自由」という意見が圧倒的なのは何故だろう?
これもまた至極単純なこと。
「自分の作品を誰にも文句を言われずに、自由に発表したい」と思っている人が多いだけだろう。
だから人目なんか気にしなくてよい。
難解な語句を操って小難しいことを書いている人もいる。逆に拙い言葉でたどたどしい文章を綴る人もいる。そこに他者による優劣の評価は確かにあるだろう。
それでも、基本的には誰もが書きたいものを書いているだけだ。だからあなたも書きたいものを書けばよい。ただそれだけのことだ。
周囲が自分を傷付けようとばかりすると、感じている人もいるだろう。そんなものは、ただの自意識過剰だ。あなたが思っているほど、他人はあなたに関心など抱いてはいない。酷い物言いかもしれないが。
この「なろう」には、「表現も発表もその人の自由だ」という良識が共有されている。
また、それほど他者を傷付けようとする悪意に満ちている訳でもない。
これは僕の私見で「そうではない」と思う人もいるだろう。でもこれに関しては、自分の考えや感じ方を信じたいのだ。
誰でも気軽に創作も発表もできる。この環境がどれだけ素晴らしいのかは、皆が理解しているはず。
その上「自由な創作を志す」人が圧倒的に多いのだ。臆することなく、作品を書き上げて「どうだ!見さらせ」くらいのノリで発表すればよいと思う。
だって、たかが「小説」じゃない。そんなに小難しく考えなくてもよい。その人にとって楽しければよいのだ。
こんな風に書くと目くじらを立てる人もいるかもしれないけど、この考え方はもう死ぬまで変わらない気がしている。
書きたいことを書くのは楽しい。
それが、こんなしょぼいエッセイでもだ。
読んでもらうだけで嬉しい。仕事ならこうはいかないよなぁ……