第9話
「羊を見たい……?」
シリルがとりあえずということで宿のお姉さんに聞いてみる。首をひねるお姉さんだったが、
「この季節は、羊は少し遠方にいるからね。うーん、うちの知りあいの店が羊毛を仕入れてるだろうから、その店の人に直接話を聞いてみたら?」
ということで、紹介してもらうことに成功する。こういう商店が多い地域において、横の繋がりというのは非常に強く頼りになる。
馬車を使おうとも考えたが、細い道、整備されていない道も多く、また、歩いても十分に行って帰ってこれる距離だというので、三人で歩くことになる。
「アジシの街は──」
どうのこうの、という話をしている間に、ちょっとした傾斜がついてきて、点在する山小屋以外に見えるものはなくなってくる。ここらは、穀倉地帯でもなければ、畑、果樹園でもなく、短い草が控えめに地面から顔を出している、荒れ地のような土地。辺りを小高い丘、標高の低めの山に囲まれている盆地部であるアジシから少し山よりに進んだ一帯。
作物を育てるには、土の質が悪い、もしくは、水はけが良すぎるなどの問題で、限定的な作物しか育てられず、また、傾斜、岩石の点在によって、十分にまとめて作物を管理することが難しい土地。そんな土地にも、利用法はある。
カラン、カラン、という控えめな鐘の音が聞こえる。
「鐘の音……?」
歩くのに少し飽きてきていたイーナがすぐに反応する。
同時に、道行く先に、よろよろと、ちょろちょろと、鐘の音を放つ人につられて動く何者かが見え始める。白いそれが何かということは、シリルには即座に分かった。紛れもなく、羊の群れだろう。一目で分かる特徴的なシルエット。
その姿を見て、ようやく目的の場所に来ることが出来たという思いを胸に、シリルは近づいていくが、後ろの気配が消えていることに気がつく。
気になって振り向くと、何か信じられないものを見ているというような顔で、羊を見つめつつ、呆然と立ち尽くす二人の姿がそこにはあった。背景に、これまできた道のり、少し遠くに見えるアジシの街を携え、道に立ちつくす二人。シリルは手を振りながら、呼ぶ。
「おーい、こっちだよ、あれ、羊だから! おいでってば!」
その声に気づいたのか、羊飼いがこちらへと近づいてくる。手にしている杖のような棒をこちらに向けて振り、挨拶してくるので、シリルは一礼をして返す。特に警戒することなく、笑顔で近づいてくるのは、こちらが少女二人を連れた男ということもあるだろうが、ここら一帯の治安の良さを感じさせてくれる小気味よい光景でもあった。
少し経ち、この羊飼いの笑顔が警戒心を解いたのか、イーナもロジーもこちらへと向かってくる。
「先生、この、もこもこした、白いのは……なに?」
そっとシリルの後ろに隠れるようにして、問う。その様子を見た羊飼いが怪訝そうな顔で二人を見る。
「あれが羊。羊毛が取れて、それが服とか絨毯になるんだ」
シリルは雑に説明すると、羊飼いに事情を説明する。紹介してもらっているということと、簡単な自己紹介だ。シリル自身は名を明かすが、イーナとロジーについては姓を話さないでおいた。
「ナッサウ……なんか、聞いたことあるなぁ」
羊飼いは、それでも、さほど政治は得意ではないらしく、なんとなくくらいの認識らしい。よもや、こんなところに貴族が来るだなんて思ってもいないだろうし、変に意識されるよりはいいかもしれない。
羊飼いにつられて、こちらにも数頭の羊がのんびりのんびりと草を食べながら寄ってくる。その様子に、イーナもロジーも警戒を解いたのか近づいていく。そんな二人を見て、羊飼いは不思議そうにこっそりとシリルに聞く。
「あの二人は、羊を知らないの?」
シリルは何と説明したらよいものか少し悩んだが、
「世間知らずでね」
とだけ返しておいた。
二人は、羊に対する警戒心をほとんどすべてなくしたらしく、おー、すごい、等々言いながら、羊毛の柔らかさを体験している。当然加工しなくては綺麗な真っ白という訳にもいかず、少し薄汚れている白ではあるが、そんなこと二人にはあまり関係ないらしく、生き物がふかふかとした綿を背負っているということがさぞ面白いようで、飽きもせず観察したり、触ったりしている。
シリルが、羊飼いと適当に雑談をしている時、遠方から、別に羊の群れが合流しようとしていた。そして、
「きゃー!」
少し距離の離れたところにいたイーナから悲鳴が聞こえる。慌ててそちらへと走っていったシリルが見た光景は──
「なにやってんの……?」
イーナが戯れているところだった。だが、羊とではない、白い、羊よりも少し小さめの生き物。羊よりも若干控えめな毛量でありつつ、美しく流れる毛並み。犬だ。
「もー、何~?」
イーナは嫌がりつつも、その犬にじゃれつかれてきゃっきゃと喜んでいるようだった。羊がすぐそばで何も気にしないように草をもしゃもしゃしているのがまたシュールである。
「ああ、おっと、すみません、ほら、シュアン、やめなさい! すみませんね、この季節、僕以外の人間がいないので」
羊飼いの言うことを聞き、犬はイーナから離れる。まるで言葉が分かっているかのようで、シリルは少し感心を覚える。イーナはシュアンなる犬から解放され、一息ついて立ち上がる。ぱっぱっと軽い動作で草を払う。
「面白かった! かわいい、シュアンって名前なんですか?」
イーナが羊飼いに問う。自然と会話が出来ることにシリルが少し驚きを覚えたりしていたが、羊飼いは、何故だか少し照れくさそうに、
「え、っと。ああ、はい、そう。この子はシュアンっていって……羊の群れを一緒に面倒みてたり、するの。んです」
語尾もたじたじだ。この違和感は何だろうとシリルは少し考えるが、多分、恐らく、ロジーがそれなりに美少女だからだろうという結論に至る。若いのに、この季節はずっと遠方で羊の世話を見続ける羊飼い。およそ、同じような年代の女の子と話す機会はほとんどないのだろう。それゆえに、照れくさいのだろうかとなんだか甘酸っぱい青春の匂いを感じつつも、暖かく見守っておく。
イーナの外面の良さもこういうところでは十二分に役に立っているのだろう。確かに、彼女の強引な一面を知らない人から見れば、可愛らしい一人の茶髪美少女であろうとも思える。かといって、イーナは別に同年代の男子に慣れていないという訳では全くないので、ぐいぐいと自分が興味を持っていることを聞いていく。
「へぇ~! シュアンはすごいのね。この子からも毛を取るの?」
「えっ。いや、えー、犬からは取らないよ」
若干質問が的からずれているような気がしないでもないが、多分、羊飼いの子は質問の内容について深く考える余裕はないだろうからいいとしよう。
一方のロジーだが、相変わらず、羊を触ったり、羊とにらめっこをしてみたり、何故か草を掴んで食べようとしてみたり。全部真顔で行っているが、多分、楽しんいるのだろう。なんとなく、僅かに、口元が釣り上がっていて微笑みんでいる、ような気もする。
なんとなく二人が羊が一体何者なのかを理解してきた頃合いを見計らって、シリルは、そろそろ宿に戻ろうと提案する。二人はそれに少し反発気味だったが、羊飼いが、
「もうそろそろ自分も羊を柵に入れないと」
と言ったので、しぶしぶシリルの提案に納得する。羊飼いが鐘を鳴らして、シュアンが羊を追いたてる様子を見つつ、三人は帰路につく。その帰路で、
「シュアンがねぇ~」
「羊がね!」
などと、自身が経験したことを熱心に語りあうイーナとロジー。
「羊より犬の方が!」
「うーん、でも、私は羊が……」
何故か羊派と犬派に別れての対決の様相を呈していた。
二人を連れて、夕暮れの街へと戻る。日はほとんど沈みかけている。商店は店を閉め始めており、行商人たちは、それぞれが宿などへと歩みを進めている。昼間の喧噪は嘘のようになくなっている──とまではいかず、この時間でもまだ街には活気があふれているようだった。
昼の景色とは異なる、少し落ち着いた、けれども、賑やかな街並みを進み、宿へと到着する。
「おかえりなさい、旅人さんたち」
昼間、相手をしてくれたお姉さんに出迎えられる。
「食事はもう出来ているから、一息ついたら食堂へ──って、もう待ちきれないようね」
シリルが何を言っているのかと思い、後ろを見ると、お腹を空かせた顔をした双子が、一生懸命に食堂の方へと目線をやっていることに気がつく。
「じゃあ、用意するから、座って待ってて」
シリルは、イーナとロジーの評価から、気品高い、上品であるという項目を取り除くかどうか迷いつつ、席につく。少しして、テーブルを食欲をそそる香りが包みこむ。
「これは、チーズ……?」
シリルがなんとなく述べる。漂ってくる香りは、チーズの匂い。イーナとロジーの二人も、ごくりとつばを飲みこみつつ、ただただ犬が待てをするように料理の到着を待つ。
「お待たせ~」
運ばれてきた料理が、次々とテーブルの上に並べられていく。かと思いきや、並べられるのはたった三枚、つまり、一人一枚の大きな皿。夕食は昼食と比べて豪華というのが一般的であり、シリルは、さぞ多くの品目が出されるのだろうと思っていた。
一瞬ガクリとするのが、イーナとロジーにも見て取れた。しかし、その失望は全くもって誤った失望だったということが瞬時に分かる。でかい、とにかくこの皿はでかいのだ。量はたっぷり。
「これは、一体……?」
シリルは、目にしたことがない料理だった。まず、目に入るのは、その形。丸い。そして、これは、パンだろうか。円状のパンの生地。それがパンだと分からない理由はその上に乗せられている食材のあまりの豊かさにあった。
「これ、全部チーズ……?」
そう疑問を浮かべるのはロジー。紛れもなく、だが、これは、チーズだろう。丸いパンの上に、ありえないほどの量のチーズがとろけている。さらに──
「そう、小麦粉の生地の上にたくさんのチーズ──それも、この辺りで作られる何種類ものチーズを贅沢に載せて、味付けをした料理よ。ピザっていうの」
「ピザ」
イーナは、その不思議な言葉に感動する一方で、目の前に広げられている円形の食べ物が、果たしてどういう味がするものなのかということに興味をそそられていた。
「そうね~、チーズがおいしくないと、あんまりこれはおいしくできないから、チーズがたくさん用意できるここら一帯の家庭料理みたいなものかしら。遠慮はいらないわ、手で掴んでそのまま食べちゃって!」
お姉さんは、そう説明してくれると、どうぞごゆっくりとだけ言い残して立ち去っていってしまった。
後に残されたのは、シリルと、ごくりごくりとつばを飲むイーナ、ロジー。
「よし、食べよう!」
シリルは、さっそくピザの生地を持つ。きちんと切り分けられていることが親切さを感じる。てっきり食器を使うものだと思ったが、郷に入れば郷に従え、である。だが、生地は簡単には持たせてくれない。上に乗せられた大量の具がその重さで柔らかい生地を垂れさせる。
これにより、シリルの頭の中にあった、チーズとほんの少しの具材だけで味は大丈夫なのか、退屈じゃないだろうかという疑問はなきものとなった。シリルに続いて、イーナとロジーもピザを一切れ掴み取る。
三人は、なんとか具材を零れさせないように掴み取ると、一斉にピザを口に入れた。一噛み、二噛み、三噛み。味を脳が捉える。
「……!」
その衝撃は三人全員が発したもの。そして、三人はまだピザが口の中にあるというのに、こう言う。
「おいしい!」
チーズの味が全面に押したてられている。濃厚に口いっぱいに広がるチーズは、ふんだんに、贅沢に使用されたからこそ、そして、新鮮で柔らかいこの地域だからこそ生産できるものを使っているからこそのおいしさだろう。それに加えて、オリーブかなにかの油が味を濃厚に、強くしている。
普段、口にしている料理では、味のほとんどの主役は、香辛料であり、ゆえに、田舎料理、庶民料理とは全く味の特性が異なる。それが吉と出て、シリルはもちろんのこと、イーナとロジーは、この料理の虜となっていた。
あっという間に、ピザを食べ終える。ボリュームにして十分過ぎるくらいで、もうお腹はだれもいっぱいであるのだが、三人がそれぞれ思うのは、一様に、まだ食べたいという思いでもあった。
「これ、うちでも食べたい……」
思わずロジーが呟く。
「ははは。それはよかった」
シリルは、食事という第一の関門をどんどんと突破してくれるアジシの料理に感謝していた。




