第8話
「超えるの!? 超えちゃうの!?」
興奮して目を輝かせながら言うのはイーナ。ロジーもそわそわしている。
「そう、超えちゃう」
まるで小学生の遠足だ。だが、国境を超えるという体験でここまで目を輝かせられる二人を見ていると、少し新鮮な気持ちにもなれる。
「よし、じゃあ、二人とも、僕に続いてあの列に並ぶよ~」
シリルも実のところ一人で国境を超えた経験はないのだが、為せば成る。列があるということは、多分、その列に並べばにいいに違いない。そんな気持ちで適当に列の最後尾に着く。
ひひんと鳴く馬の声、関所の役員の事務的な声が前方から聞こえる。そうしてしばらく、数十分くらい待っただろうか。それでも列はまだまだ先が長い。
「……先生」
大人しい声で呼ぶ後ろに並ぶロジーを見る。
「どうした?」
「……トイレ」
もじもじとするロジー。言い出しづらかったのだろう、その様子を見るに、もはや限界まで達しているように見えた。どうせ片田舎、碌な便所などないのだから、その辺で、と言いたいところだったが、何せこの子は良いところのお嬢様。そう言う訳にもいかない。
じゃあ関所の国境越えの手続きを待つかというと、まだまだ列は長く、しばらくの時間がかかるように思われた。
「仕方ないな、じゃあちょっと二人とも着いてきて」
シリルは自分の後ろに並ぶ馬車に、少し場所を空けるからよろしく頼むという旨を伝えて、二人を連れて関所へと向かう。トイレだけ貸してもらおうとした訳だ。列とは別のところに立っている兵士に話しかける。
「すみません──」
「ん? ああ、通っていいよ。検査は奥の人がやるから」
返ってきた返答は至極意外なものだった。
「え? 今、ほら、そこの隣の列に並んでいたんですけれども……」
思わず聞き返すシリルに、後ろから訝し気な目で見る姉妹ども。
「あれ? あれは積み荷が多い行商人たちの列さ。一般の観光客なら、簡単な手荷物の検査だけで通れるんだよ」
「あー……」
シリルは、後ろにいる姉妹の痛烈な視線を感じつつ、感じないふりをして、その兵士にトイレを借りたいという旨を述べ、了承をもらい、ほんの少しだけ名誉を挽回させてもらうことに成功する。
結局、その後、ほんの数分で検査は終わり、国境を超えることに成功する。
「ここはもう中部自治区だ! ミラル王国じゃないぞ~!」
なんとかテンションを上げようとするシリルだが、その必要はないようで、二人の姉妹は辺りを興味あり気にきょろきょろと見渡していた。だが、中部自治区に入ったといっても、結局はただ国同士が定めた境界線でしかない。境界線を跨いだからといって、自然は続いているし、畑も続いている。特別に景色ががらりと一変することはないのだ。
その事実に、早くも気づいた姉妹二人は、シリルにその旨を報告すると、次の行動の指示を待つ。
「さて、次は……もう少し歩いた先に、馬宿があるから、そこから馬車に乗って、中部自治区最北の街アジシへ向かいます!」
へぇ~という声をあげる二人。アジシがどんな街なのかということは無論分かっていない。
馬車の中での景色は、国境を超える前とさほど変わりなかったが、細かく言うのならば、土の色が少しずつ変わっていた。そして、アジシに近づく頃には、畑が姿を消し、牧草地帯に切り替わっているということに、馬車内の誰もが気づいていた。頃合いを見計らって、シリルがいざ説明せんと口を開く。
「アジシは畜産が盛んな街なんだ。ミルク、はあまり飲まないかな、そうだな、普段、二人が食べてるものなら、チーズとかバターとか、そういうのがたくさん作られている街さ。牛とか羊がたくさん飼われてる、はず」
「!!」
イーナが、ピンと来ていない一方で、ロジーは、何かに目覚めたように爛々と目を輝かせて反応する。
「羊!?」
何故羊にそこまで過剰な興味を示しているのか少し疑問だが、単純に考えるのなら、この二人、恐らく羊を近くで見たことがないのだろう。二人が住むフィレニアにも牛はいることはいるが、フィレニアはどちらかというと商業の街。食材、素材は幅広く揃うことがあっても動物そのものはあまり多くない。牛や馬ならば、動力源として用いられている場合も多く、目にする機会は多いだろうし、ヤギならばミルクを取るという理由から飼っている人がいてもおかしくないが、羊となると、多くの単位での飼育が前提となり、フィレニア付近では飼育されていないのだろう。
かかしに続き、羊というワードに興奮するロジー。イーナが、いまいち理解出来ていないようなので、畜産について説明をしてやる。すると、イーナも引き続き、
「羊といえば、あの、毛玉が動くという、伝説の……?」
目を輝かせながら言うものだから、
「いや、伝説ではないけどね」
と一応訂正しておく。たぶん、身近な動物ランキングにすれば、羊は三位かそこらにランクインするのではなかろうか。めぇめぇ。
そんなことを言っているうちに、アジシにへと到着する。馬車の運転手に、
「それじゃあ、私はここで」
と言われ降ろされる。馬車の料金を支払うシリルをおいて、双子たちはアジシの街へと歩いていってしまう。
「まて、まてまて」
慌てて追いかける。到着したのはアジシ。
中部自治区最北端の街であり、畜産により栄える街。とはいえ、畜産が行われているのはあくまで郊外の話であり、街中心部は、市場や加工場としての色が強く、それに伴い集まる行商人たち向けに宿屋も多く建てらている。都会というには程遠いが、それでも、なかなかに人通りは多く、賑わっている街の一つだ。観光地としての色はあまり強くないのだが、シリルはここに一泊することを予定していた。フィレニアへは日帰り出来る距離でもあったが、国境を跨いだ後の初の街ということもあり、二人にはしっかりと味わって欲しかったためだ。
三人が街に入ると真っ先に目に入ったのは、大規模な市場。時は既に昼を過ぎていたが、それでも飲み食いする人も多く、さながら一つの観光スポットといっても過言ではないほどの喧噪と賑わいがある。
店はそれぞれが客を呼び込むために客寄せの声をあげ、道は商人がいきかう。ちなみに、街の主要部は、大型の馬車による移動は制限されており、馬ではなく、ロバなど小さめの動物が動力として使われていた。それが可愛いのか、ロジーの視線はそっちへ注がれている時間が多い。
「とりあえず、昼飯にしようか!」
このシリルの提案に、二人はこぞって大賛成の声をあげるが、実は、これは、シリルが一つの難関と考えているところだった。果たして、いわゆる、庶民の味は、このお嬢様方の舌にマッチするだろうかということだ。
食事は、一つの旅の醍醐味である。シリルもその点は熟知していた。彼は、全国各地を転々として、色々な料理を口にしてきたからだ。辺境の地ともなると、それなりに特殊な料理が出されたりするが、ここアジジは半島の中央部にも近く、色々な地域の文化が混ざっているような場所であり、それほど特殊で奇妙奇天烈な珍材が出てくるということはないだろうと思えた。しかし、そうであったとしても、庶民の味の感覚と貴族の味の感覚の差は大きい。果たして、二人は庶民の味をしっかりと楽しむことが出来るだろうか。
どの店に入ろうかと決めあぐねていると、
「そこのカップル~! アジシに初めて来たならうちの店だよ! チーズ、チーズたくさんあるよ!」
と、客寄せをしていたお姉さんに声をかけられる。特にアテもなく、その店も大通りに面した明るい雰囲気の店であったため、三人はその店に入ることに決めた。
「チーズ、ワイン……お酒? お酒って飲んでいいの?」
真ん丸な瞳でメニューを覗き込む二人。
「酒はだめ。お姉さん、適当におすすめのランチメニュー三人分」
「はいよ~」
シリルが二人の意見を特に聞かずに注文する。二人としても、大衆料理屋などという店は初めての経験であり、シリルがリードしてくれることは心強い様子。
店はそれなりに賑わっていた。昼過ぎで、昼食の時間としては少し遅めではあるのだが、それでもこれだけの人がいるということは、それなりに味には期待できそうだ。
「楽しみ!」
「……おなかすいた」
気掛かりな二人も、この大衆食堂にはそれほど驚きを覚えていない様子。うるさくていやだ、とか、汚い、だとか口走りだしたらどうしようかとも思っていたが、その心配はないようだった。ただ、純粋に、いろんな人がご飯を食べる所という認識は欠如していないようだった。学校では、それなりにまとまって食事を取っているだろうから、この点は、教育制度の勝利といったところだろうか。
店内には、料理の匂いが立ち込める。何の香りかと問われたら、間違いなく、チーズと即答するのが正解だろう。待つ三人は、その匂いにより鼻が刺激され、食欲がかきたてられる。辺りから聞こえる食事の音、それに伴った話し声も、雰囲気を盛り立てるには十二分の効果があった。
「お待ちどうさま~」
という声が聞こえたかと思うと、三人の前に皿が並べられていく。
「これからまだ街を歩くだろうから、少し軽めにしといたよ。肉は使わずに、チーズ、牛乳、ジャガイモを使った焼き物。それと、パン。この街のよくある昼食……っていっても、ここら一帯は全部似たようなもんだけどね」
あはは、と笑いながら、お姉さんは再び仕事へと戻っていく。
出された料理は、シリルも良く知る一般的なここらの食材を適当に、と言っては悪いが、まさに適切にまとめて調理した簡素な品。香辛料はほとんど使用せず、手抜き良く言えば、素材そのものの味が味わえる品だ。
「さて、食べようか」
シリルが料理に手を付ける。一口味わい、褒めたたえるほどではないにしても、おいしさを感じる。特にチーズがいい。と思っていると、まだ二人が料理に手をつけていないことに気がつく。
「……えっと、これは……」
食器もあるし、ナイフもフォークも用意されている。ただ、二人は圧倒的に慣れていないのだ。大皿から取って食べるという行為に。普段ならば、一人ごとに料理は配膳されて出てくる。これは、学校の食堂であってもそうだろう。
仕方なく、シリルは、それぞれに料理を分け与えてやる。こうしていると、まるで飼っている犬にご飯をあげるようで楽しいのやら、可愛いのやらわからなくなってくる。まさに子守役。料理を見つめる二人の頭の髪の色がそう思わせているのかもしれない。
「お味はどう? イーナ、ロジー」
一口口に含み、もぐもぐと素材を咀嚼する二人に問うてみる。数秒反応がなかったが、それは、まずいという意味ではなく、料理を口に含んだままだったからだ。食事中に話してはいけませんという英才教育がしっかりといき届いていることが感じ取れる。
「おいしい~」
「チーズ!」
二人の感想は、どうやら、満足の二文字で言い表せるようだった。
「少し、香辛料が足りないかも」
ロジーが述べるが、
「私はこっちの方が好きかも。チーズがおいしい」
イーナがそれにちょっとした反論をする。食材がしっかりと揃えられているこの一帯においては、ある程度味の追及もしているらしく、多少の個人差はあれど、二人が満足できる料理が出されているということだ。王都の貴族だったら、どうだったかは分からないが……。
そうして料理を食べ終えた三人。シリルが、会計を済ませて、一つ尋ね事をする。
「ところで、この辺りで、オススメの宿屋はありますかね?」
それに答えるのは、先ほどのお姉さん。
「うちだよ、うち!」
ここは、夜は宿屋として商いをしているらしく、今日はまだ部屋に余裕があるということで、ここに泊めてもらうことになった。とんとん拍子で話が決まり、荷物も預け、果たしてどこに向かおうかと思っていた時、意外なことに、ロジーが一つ提案をする。
「私、羊を見たい」
提案をしたという行動自体は意外だったが、内容は、しばらく前の馬車での会話から考えると、特に意外ではない。というより、そんなに羊が好きなのか、と若干の戸惑いを覚えるシリル。この子たちは、一体羊をなんだと思っているのだろうかという点は少し気にかかるところだったが、シリルとしても、この二人が何かに興味を持ってくれるのはありがたいことであり、それこそ旅の目的の一環であるため、わざわざ否定することはしない。
こうして、一行は、伝説の珍獣羊──もとい、めぇめぇ羊を見に行くことになったのだった。




