第7話
広がる景色は広大で、緑で、透き通っていて、美しかった。
「旅行!?」
「……旅行、ですか?」
シリルの計画を二人に告げたその時の反応は驚きの表情と不安そうな表情が入り混じった愉快な様子だった。それでも、次第に、喜びの感情が上回ってきたのか、胸躍る様子で二人は、シリルへ、旅行とはどこに行くのか、何故旅行に行くのか、楽しいのか、面白いのか、といったことをそれぞれに質問してきたりしていた。
その旅行計画が、まさに、今、実行されていた。
といっても、先に述べた広がる景色とは、家の外に立ち、いざ今から出発せんとするシリルの心境である。まだ、旅には出ていない。
今、彼は、二人のお嬢様方が、準備を完了し、出発できる状態になるのを馬車を呼んで待機していた。本来は、運転手などを用意するお金を節約するため、馬車はシリルが運転しようと思っていたのだが、
「運転はプロに任せなさい」
という主人の意向により、素の申し出は却下された。馬車の道中もまた旅の一つの醍醐味であり、シリルとしては、その時間をイーナとロジー二人と過ごせるということは、大きなプラスでもあったため、悪くない話だった。
お屋敷の前で、シリルは一つ深呼吸をする。
気持ちのいい空気が体内へと取りこまれる。もうここに住み始めて数日経つが、ここフィレニアは、良い街であった。緑と人が入り混じり、芸術性の高い建物も点在する。これが意味するのは、ミラル王国なりの、中部自治区へ対する見せつけのようなものでもあるのだが、そういった感情を脱きにすれば、フィレニアの芸術都市としての魅力はとても高い。
そのフィレニアの外れに位置するこの屋敷は、フィレニアを見下ろすのにはちょうど良い立地であり、もう少し気にしてもよかったのかもしれないと今更ながら思うシリル。
旅の気づきは既に始まっていた。
普段の生活では見えないところが見える、というのは、旅の魅力の一つであろう。イーナやロジーは、この旅行を実に楽しみにしていたが、楽しむだけで終わってしまうのも少し勿体ない。かといって、シリルから何か説教がましく講義もどきをするというのも、明らかに違う。つまり、ここばかりは良いように動いてくれるようにと祈るしかなかった。
「先生! 行くよ!」
そんなことを考えているシリルの背中をぼかんと叩くものがいる。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、イーナとロジー。
だが、いつもと様子が違う。
違和感の正体は、服装にあった。シリルは、二人が制服か部屋着を着ているところくらいしか見たことがなかったのだ。だが、今、目の前の二人は、よそ行きの服装をしていた。外出用の服装。過度に華美でなく、それでいて、上品で気品溢れる服。それは、貴族らしい華やかさを内面に孕みつつも、旅ということもあってか、華やかさは控えめに、行動のしやすさを重視した服。色こそ、茶色をベースにした明るい生地なのだが、細部に施されたちょっとしたフリルや装飾が華やかさを演出している。
シリルがあっけにとられるのには、一つの理由があった。それは、ずっと長い間、王都の貴族ばかりを目にしてきたからだ。もちろん、地方にも多く足を運んでいた。しかし、そこで相手にするのは市民ばかり。貴族との付き合いが発生しうるのは、実家がらみの要件でしかなく、となると、必然的にナッサウ家が権力を誇る中央付近の貴族とのパーティなどが主な場となる。だから、この清楚でいて、上品という控えめな貴族の服装を目にするのはほとんど初めてだったのだ。
「先生~、何、ぼーっとしちゃって」
きゃはは、と笑うのはイーナ。ロジーも不思議そうにシリルのことを見ている。
そこで、シリルははたと気づく。別に二人の服装が特別に珍しいということにだけ驚いたという訳ではなかったのだ。シリルは、二人の可愛さに目を奪われていたということに気づく。その二人の可愛らしさが見事に引き立たせられたのがこの服装だったというだけのこと。
普段、教えるだけの立場に立っていたから、また、子守役として二人を見ていたから気づかなかったのかもしれないが、二人は、確かに、可愛らしい女の子だった。この二人を連れて旅をするのが、まさに自分だという事実を再認識し、少し胸高まると同時に、若干のプレッシャーも感じる。
「シリル様、いったいなにを……」
そんなシリルの様子を二人の後ろから見ていた人がいた。アリーチェだ。最初のその存在に気づいていなかったシリルだが、それは、あまりにじろじろとイーナとロジーを見ていてしまったからということが予想できた。
つまり、そんなシリルはアリーチェの目から見たら、明らかに不審なことを考える輩。引き気味の視線を送ってくるアリーチェを見て、シリルは我を取り戻して言う。
「よ、よし! 二人とも、準備はできたね! 行こう、世界へ羽ばたくのだ!」
つい、演説調になってしまったが、なんとか言葉を発することはできた。不審な目が全く拭われ無いアリーチェから逃れるようにして、シリルは二人を馬車へと押し込み、クルツィンガー家の屋敷へとさよならしようとする。
「あの、シリル様……くれぐれも……」
その先を聞くより前に、シリルは全力で言い放つ。
「ええ! 任せてください! このシリル、全身全霊をもってお二人をお守りしますから!」
アリーチェの訝し気な顔を見つつ、シリルは、馬車の運転手に馬車を出してくれるように頼む。こうして、三人の旅が始まりを告げた。
揺れる景色。フィレニアの街を迂回しつつ、通商路として作られた道を馬車で進んでいく。この大通りは、まばらながら馬車の往来があり、所々に馬宿や旅宿が設置されている有名な道路だ。
近頃はもう、治安も大分良くなり、こうして護衛をつけずに旅に出ることも容易なくらいの世の中ではあるが、一昔前は、この中部地区付近といえば半島でもっとも大きな戦場となった場所でもあり、野盗も多かったと聞く。そういう中でも、物資を運ぶのに役立ったのが、こういった大きな通商路であった。
「え、二人とも、旅は初めてなの?」
シリルは馬車に揺られつつ、二人と話をしていた。ロジーは、大人しくシリルの話を聞いているが、イーナは馬車に揺られることがすでに楽しいらしく、落ち着きなく外を見たり、きょろきょろしている。
「はい、私も、イーナも初めて……。フィレニアの街から出たこともないです」
「ていうか、そもそも、フィレニアの街にもあんまり行かないよね~。外出といったら学校くらい」
シリルは、予想よりも遥かに世間を知らなさそうな二人の事実を知り、驚いた。同時に、それだけ、この旅は彼女ら二人に刺激を与えられるだろうと思ったし、ついでに言うなら、苦労しそうだなとも思った。
「あー、そうかぁ、二人とも、僕から絶対に離れちゃだめだよ」
小学生の子供に言うかのように、二人に注意をするシリル。
「何言ってるの! 私もう十六よ! 先生こそ、ぶらぶらして変なトラブルに巻き込まれないでよね?」
ぷんすかして返してくるのはイーナ。ロジーは、うん、うんとしっかり聞いてくれている。
「先生~! あれは、何?」
人の話を聞いているのか聞いていないのか、ロジーが外を指さし、シリルに聞いてくる。シリルとイーナはその指の先へと視線をやり、イーナはロジー同様に首を傾げてそれを見る。
馬車から見えるのは、広がる畑の風景。ぽつんぽつんと見える民家は、それぞれ畑を耕す農民らの家だろう。そして、シリルには、彼女たち二人が一体何に疑問を覚えているのか分からなかった。
まさか、畑を知らないということはないだろう。ここら一帯は、丘陵地帯であり、育てられている作物は、小麦などの主食となる穀物ではなく、ぶどう、オリーブといった樹木の作物ではあるが、馬車から見る限り、それらが畑であるという事実はだれでもわかるように思える。まさかこれを背の低い整った林と思っているということはない、はず。
ないはずだよな、と思いつつ、外に本当に出たことがあまりないというのなら、知らなくても無理はないんじゃないかという思いにも駆られる。もしかしたら、本当に、この目の前に広がる果樹園及び畑というものが理解できていない可能性がある。小麦畑でないから理解できないのだろうか。いや、だが、場所によっては、ちらほらと大麦、小麦の飼育だってみられる。
シリルは、どうしたらよいものか思い悩みつつも、二人の外出をほとんどしていないという発言に賭けて問う。
「二人は、畑を知らないの? ぶどうを知らない?」
「先生、馬鹿にしているんですか……」
ツッコミを入れてきたのは、ロジーだった。それも、少しぷんぷんしている。イーナは、呆れた目でこちらを見てきている。どうやら、違ったらしい。二人は、シリルが見ているものとは別のものを見ているのだろうと思い、二人が指さしていたものを見る。
「……?」
それでも、理解できなかった。一体、二人は何のことを疑問に思っているのかということを再度聞こうとした時、イーナが教えてくれる。
「オリーブとかぶどうくらい知ってるってのー! あれだよ、ほら、人じゃないけど、なんか、おっきい人形みたいな……」
二人が指さしていたもの、それは
「かかしだよ!」
かかしだった。紛れもなくかかし。
「かかしを知らないのは畑を知らないと同じくらいなもんだよ!」
と思わず言ってしまいそうになるが、ひとまずここは我慢しておく。畑を知っていただけでもよしくらいにしておかないとこの先大変そうだったからだ。
「かかし……?」
しかし、かかしという言葉でもピンと来ないようで、二人はさらなる説明をシリルへと目線で要求してくる。心なしか近づく二人の顔に、シリルはわずかながらに心拍数を高めながらも、その高まりは馬車の揺れのせいだということにして、二人にかかしについて話をする。
別に、シリルが農家について詳しいという訳でもなければ、かかしの専門家という訳でもなく、かかしについての詳細など知ったところではないのだが、シリルは持ち得る全てのかかし知識を導入しながら、かかしについて語る。
「かかしというのは、農作物が鳥とかに食べられないように人が見張っているぞということを鳥に誤認させることによって農作物への被害を減らすことのできる置物なんだ。お分かり?」
ふんふん、といつもの講義とは比較にならない熱心さで聞いている二人。かかしの話でこれだけ熱心にものが聞ける子たちはきっと市民には一人もいないといっても過言ではないだろう。
その後も、
「なんで、かかしはもっと人に似せないのか」
「人がいたらだめなのか」
等々、かかしに対する熱烈な疑問を投げかけられ、それに答えていると、いつの間にか時間は過ぎていく。
「お客様、着きましたよ」
そうしているうちに、第一の目的地──というよりは、大きな通過ポイントへと到着する。馬車に揺られ一時間程。ミラル王国最南端の街フィレニアの中心部からしばらく。
「どこに? ここが旅行の目的地?」
というイーナに対して、シリルは、ノンノンと返す。
「ここは二人に見せておきたい最初のポイント! というのは言い過ぎで、一度、馬車から降りないといけないんだ」
シリルに言われるがままに、馬車から降りる。まだたった一時間、日も昇り切らず、旅というよりはお出かけ程度の道のり。だが、出発地点がミラル王国最南端であったが故に、すぐにたどり着いたここは、
「ここは、国境だ。この先を超えると、ミラル王国の領土から、中部自治区の領土へと入ることになるのさ」
馬車からそれぞれがその身体にとっては少し大きめの鞄を手に降り立つ。ミスマッチな旅行鞄の大きさは、二人の体の華奢さを際立たせる。
シリルが指さす先には、国境があった。国境といっても、厳重に守りが固められていたり、武装した兵士が何百人といる訳でもない。無論、兵士がいない訳ではないのだが、綺麗な軍服はまるで制服の様で、兵士というよりは、事務員と言ったほうが良いだろう。建てられている建物も、砦や基地といったものものしいものではなく、事務所という方が比喩に相応しい質素なもの。
そこに、列をなしているのは、人や馬車だ。そのほとんどは、行商人のもので、各国間の輸出入のやりとりをしているのだろうと考えられた。
「お、おぉ……」
それらに驚きを覚えるのは、イーナとロジー。ロジーは心無しか不安そうにしているが、イーナは、きゃっきゃと騒いでいる。
「今から、これを超えます!」
シリルは、ここまで送ってくれた馬車の運転手にお礼を言ってから、二人に告げる。
国境を超える、二人にとって、これまた初めての体験だった。




