第2話
シリルは、クレツィンガー家の専属の家庭教師となった。貴族の子供は、勿論、学校で教育を受けるが、多くは専属の家庭教師を持つ。それゆえに、家庭教師という職業を務めることが出来るのは、貴族に貴族がなんたるかを教えられる人間でなければならず、同時に、高い学力も持っていなければならない。馬術や剣術、芸術分野における家庭教師ならば、それに限られないが、国語、法律、数学、歴史といったような一般教養に関する座学においてはそれ相応に教養があり、教養の高さを示すための学歴が必要となってくるのは避けられない事実なのだ。
シリルは、それらの条件に見事一致していた。付け加えるならば、家出をしたとはいえ、ナッサウ家の子供であるということも大きくプラスに働いた。首都ミラポリスから遠く離れたこの地の貴族に、ナッサウ家でいざこざが起こっているなどということは伝わっていないものの、ナッサウ家の家柄は知られていたのである。残念ながら、シリルが革命家として活動していたということは知られていなかったのだが、この点については、就業という面から見れば当然プラスだった。シリル個人の感情から言うと、いかんともしがたいマイナスだが。
そんなこんなで、シリルは二人の女の子を前にしていた。場所は、屋敷の一室。絢爛豪華という印象はなく、貴族の屋敷にしては、質素な一室だった。その分、部屋は広い。ちなみに、このクレツィンガー家の屋敷の作りは決して豪華ではないのだが、田舎故か、有り余る土地を贅沢に使った造りの屋敷は、ナッサウ家と同等くらいの大きさはあった。
二人の女の子はそれぞれ用意された机に座っており、シリルがその前に立っている。部屋の広さの割には、省スペースだが、少数の生徒に勉強を教えるという性質上致し方ない。
「それでは──えー、自己紹介から」
二人の生徒を前にして、かなり緊張気味のシリル。無理もない、人に勉学を教えるというのは初めの経験だ。革命家時代、数十名の前で声高らかに演説をしたり、街の中でゲリラ演説を展開したりといったことはあったが、それとこれとは訳が違う。身体は硬くなり、シリルのことをしっかり見ている両生徒と異なり、シリルの目線は生徒に行ったり、壁に行ったり、天井に行ったり。
「僕は、シリル・ナッサウです。今日から二人に、主に、数学と歴史の二教科につひぅひぃい!」
シリルはわき腹に不思議な感触を覚えて、素っ頓狂な奇声をあげる。奇妙な感触の正体は、生徒によるわき腹への攻撃。正確には、つねりだった。
「先生固ぁ~い! イーナでーす! よろしく~」
シリルのわき腹を攻撃した女の子、イーナ・クルツィンガー。にししと笑う天真爛漫な小悪魔な笑顔の裏には小奇麗で気品が隠されているようで、それでいてはつらつとした元気さが前面に押しだされるよう。髪の色は、この地方に多い非常に明るい茶髪であり、若干波打った巻き毛で、それがまた性格とマッチしているように思えた。
というのが、今の第一印象だが、シリルは、深読みする。ここで、砕けて振る舞ってしまってはいけないと思う。仮に、ここが、パーティの場であれば、それがベストな選択肢だろう。相手の好意に答えるという至極模範的な回答だ。だが、シリルの今の立場は教師である。
「はい、イーナ、よろしくお願いしますね」
年の差はあるといっても、まだまだシリルは若い。貫禄がある教師というには程遠い若さだ。だからこそ、最初になめられないことは最重要課題の一つだった。イーナのわき腹を摘まんだ手を軽くあしらって、冷静に返答する。むしろ、この一件のお陰で、緊張が取れたことについては、イーナに感謝しなければいけないだろう。
「じゃ、その横は、と」
シリルが目線を向けるのは、イーナと並ぶ一人の少女。
「……ロジー」
ぼそりと呟かれたその一言は、シリルが何とか聞き取り、名前だということを判別できる最低限の音量。ロジー・クルツィンガー、イーナの双子の妹が彼女だ。双子だけあって、その顔立ちは酷く似ているが、表情が薄い。見分けがつきやすいのは、その髪色だ。下地となっている色については、イーナと同じく茶であるが、ロジーの場合は、茶といっても、非常に黒に近い濃い茶色で、毛はサラサラとなだらかに滑り落ちるようで妖艶さが漂う一方、暗いという印象が強く残る。
前髪によっておでこが隠されていないイーナと違い、ロジーは、ぱっつんと切られ整えられた前髪が目のすぐ上にまで伸びている。加えて、表情が薄いためか、余計にどよんと暗い印象を受ける。
シリルが抱いた第一印象はこうだ。だが、一方で、教師という立場に立つのならば、教えやすい可能性も秘めている。意見を引きだすのは難しいかもしれないが、そこさえ乗り越えれば、素直に吸収してくれるタイプだろうと考えられた。
「二人とも、よろしくね。あー、それで、僕の自己紹介だけど……何か聞きたいことはあるかな」
一応、コミュニケーションを取ることを心がける。初日の場で、いきなり講義をはじめることはしない。それが正解だとシリルは確信していた。シリルの質疑に、イーナがすぐに手を上げる。
「はい、イーナ」
「先生って~なんで家庭教師をしてるんですか? ナッサウ家って言ったら私でも知ってるくらい有名なお家ですよね~?」
いきなり核心をつくような質問に、シリルは、うぐっと胸が痛くなる。クレツィンガー家の当主らも、このことについては聞いていた。その際には、自身の勉強のためだといって言葉を濁したが、生徒たちを前にして、自身の勉強という言葉を使うのはあまり好ましくないだろうと考えられた。
かといって、真実である、家がないからということを口にすれば、なめられるのは間違いないだろう。仮にも貴族の子が家もない人間を高く評価するとは考えにくい。イーナの好奇心溢れる視線が、ひたすらシリルに突き刺さるし、それ以上に怖いのは、じーっとシリルの顔を見続けているロジーの視線だ。
シリルは、勘弁することにした。嘘をついて、取り繕ったところで、この先、どうにかなるとは思わなかったからだ。
「えー、家を出なければならなくなってね。それで、ここでお世話になることになったんです」
二人の目線が、疑わしいものを見るかのようなものになっていることに気づき、シリルは、慌てて付け加える。
「で、でも、安心して! 僕はこれでも王立大学を出ているし、貴族としての教育はきちんと受けている。二人が学校で学んでいることを必ずサポートしてみせるから」
結果として、心強いのか、どうか、とてもあやしい自己紹介となってしまった。やむを得ない。これは、講義で取り戻すことにしようと息巻く。二人の目線は、心なしか冷たいものになっている気がしたが、気を取り直す。この二人の嫌わられてしまっては、ここを追い出されてしまうことになりかねないため、真剣にいかなくてはならない。二人の学力を上げること以上に、二人が自分の事を接しやすい人、親しみを持てる人と考えてくれることが大事なのだ。
もっとも、それにさえ失敗しそうなのだが……。
「ところで、二人は、勉強は好き?」
だが、ともあれ、コミュニケーションだ。かつてシリルが大学で学んでいた時、人気のある教師というのはコミュニケーションが取れる教師だった。そこに倣う。
「ぜんぜ~ん!」
にこにこ笑顔で全力の拒否を返答してくるイーナ。ロジーは、興味なさそうに、ぼんやりと視線を下に向けている。
どうやら、二人と打ち解ける道のりは長そうだ。
「じゃあ、最初に、二人が数学や歴史についてどのくらいの段階まで教育を受けているのか確認しようかな……学校で使っている教育書は、と」
シリルは、事前に渡されていた学校教育で使用しているという書物を手に、ページをめくる。
「まず歴史か。半島暦前の内容は? ミラル王国の成り立ち辺りは勉強したのかな」
だが、シリルの心境は実はあまり穏やかではない。所詮、貴族のための教育機関であったとしても、歴史については捻じ曲げられた歴史を教えられている。王国にとって都合の良い歴史を教えられている。心中、穏やかではないのだが、ここは我慢だ。
「分かりませ~ん! 飽きたから外に遊びに行ってもいい?」
イーナの言動に頭を抱えつつも、最後の希望であるロジーに情けなさそうに視線を向ける。
「……まだ、半島暦が始まる前」
控えめな声ながら、シリルの要請に答えてくれる。ありがたい限りだ。そして、一つの事実が浮かび上がる。
「ありがとう、ロジー。つまり、イーナは、勉強が苦手で、ロジーは得意、ということであってるかな?」
二人とも無反応だが、多分、あってるんだろう。イーナが不満そうな顔を見せたのが気になるが、次の確認へと移る。
「じゃあ、次は、数学か。どのあたりまでやっているんだろうか。ロジー、ページは分かる?」
数学の教育書をロジーに手渡し、ロジー自身にどこまで進んでいるのかということを確認してもらう。至極、自然な流れだった。先ほど、歴史の進行具合を教育書なしで言ってくれたロジーならば、数学に関しても、どこまで進んでいるのか教えてくれるだろうと思った。
ロジーは、そのシリルの期待通りに、今、学校で習っているところのページを開き、指し示す。
「そうか、関数ね」
教育書を見るシリルと、退屈そうなロジーに、冷たい視線を送っているのは、イーナだが、その視線にシリルは全く気づいていない。シリルのごく自然な動作が、実はイーナの不機嫌を招いていた。
「じゃ、そうだな~。ちょっと、歴史に関係する、今のミラル王国の現状でもお話しておこうかな? 貴族として、知っておかなければならないことだからね」
シリルは、懐から自身の手で作ったノートを取り出す。大学時代に、国について勉強した時のノートだ。何かの役に立てばと思って持ってきておいてよかった。
「この国の政治は、王が一番上にいて──ああ、メモは簡単でいいよ。理解してくれればいいから」
ロジーが熱心に言葉を聞き取って書いているので、シリルは一応と口を出す。ちなみに、イーナは、へー、と無関心そうに聞いている。
「王が一番上、その下に議会──僕たち貴族の人間の一部が招集され開かれる機関があって、その下に平民がいる、といった形だね。軍の最高指揮官は王であり、議会はこれに直接命令を下すことはできない。これは、ミラル王国建国当初からずっとそうだ。中には、私設軍を抱えている貴族もいるけれど、結局小規模だし、多くは王国軍の配下に編入されてる……これは、かつて貴族がそれぞれ力を持った時代から大きく変わったことだね」
ロジーが真剣に聞いている一方で、イーナはあくびをしている。最初の講義からこれでは、先が思いやられるなと思いつつも、シリルは自分の得意分野であるこの現在の王国の政治を語ることで、自身に力があるということを誇示しようという狙いがあった。
この現在の王国の政治を語れるということは、非常に知的階級であることを意味しており、教師としての知識というよりは、貴族としての教養を見せることができる。何故ならば、平民は、王様が偉い、貴族様も偉い、という程度の知識と、税をどこに収めるかといった知識、つまり、生きるための知識しか持っておらず、国の政治を話すことができる人間というのは限られてくるからだ。
そんなシリルの若干の威圧めいた行為にも、ロジーは特に気を悪くしていないようだった。
「ところで、二人は、貴族が何故貴族たるかを知ってるかな」
答えなどない、ただの質問。二人が、貴族という存在をどのように捉えているのかということをただ知りたかっただけの何気ない質問である。
「じゃあ、イーナ」
「さぁ~? イーナ、わかんない~。教えて?」
きょとんとした顔で、興味なさそうに返答する。考えているのか、考えてないのか良く分からない。勉強以外の面で接していたら、きっといい友人になれたのかもしれないが、教師として接している以上は、あまり好印象は持てないというのが正直な感想だ。
「えっと、じゃあ、ロジーは……?」
「貴族として生まれたから」
哲学的な答えを返答してくるロジー。なんと返答してよいか分からず、はは、と苦笑いをしておく。見かけや態度通り、ちょっと変わった子なのかもしれないと改めて思う。大人しい点はありがたいが、果たしてこの子に何かを教えることはできるのだろうかと少し不安にもなる。
「実のところ、これは、貴族一人一人が考えるべきなんだよ。君たちは二人は、女子であって、クレツィンガー家の当主になる訳ではないかもしれないが、だからといって、何も考えずに生きていい訳ではない!」
「先生うるさい~!」
イーナの鋭い突っ込みに、いつの間にか、演説調になってしまっていることに気づき、こほんと軽く咳払いをする。
「と、とにかく、だ。これに限らず、考えて欲しいんだ、二人には」
シリルの切実な思いが二人に伝わったかどうかは分からないが、こうして、シリルの教育者としての人生が始まりを告げた。




