第19話
階段を抜けたと思ったら、また少し平らなところを歩いてまた階段、という複雑な造りの建物内部をどんどんと上へと進んでいく。
だが、次にそびえたつは、どこまで続いているのか分からないほどの螺旋階段だった。思えば、いつの間にか、ステンドグラスはその姿を消していることに気がつく。想像するに、もはやこの辺りは、観光者などがたくさん入れるような空間ではないのだろう。だからこそ、魅せるための窓であるステンドグラスの姿がないのだろう。
「これ、登るの……?」
もはや自身の体力の心配のみしていたイーナが力なくどこへともなくつぶやく。そんな情けない声に、
「登るぞ」
と、淡々と返すヒュウ。
一歩一歩の足取りが重く、けれども、先は見えない。どこまで続くのか分からない、無限に続くかのような螺旋階段は、マジーネ大聖堂の頂上へと続く道。どれだけ登っただろうか。実際、時間にしてみればそう大した時間ではない。
けれども、イーナにとっては、それはそれはもう大した時間だった。
「もう、だめへぇ~」
最後の一段を上がり切り、へたっと床にへたり込むイーナ。膝が痛い。平らなところを歩いているのとは訳が違った。それも、ペースが早いのだ。そう考えると、シリルは結構ペースを遅く歩いてくれていたりしたのだろうか、などと思い出すが、もはやシリルとロジーが心配しているだろうという思いはどこかへ吹っ切れていた。
そんな疲れ切った様子のイーナは、目を閉じて、はぁはぁと息を吸って吐いてしている。
「おい、そんなとこで座ってないで、こっち来てみろよ」
声をかけるのはミンハ。ちら、と瞳だけでそちらを見ると、かなりの光量が目に注ぎこみ、ミンハの顔がいまいち見えなかった。イーナは、よいしょ、と立ち上がり、ふら、ふらとミンハの方へと寄っていく。
イーナの身体がミンハのいる場所に近づくにつれ、光量の多さに目が慣れる。次に──
イーナの視界が、景色──輝いていて、広くて、大きくて、透き通っていて──見たことがない、景色を捉える。
「……!」
すごい、と口にしたつもりだった。きれい、と口にしたつもりだった。いや、もっと違う何か別の言葉を口にしようと思ったのかもしれなかった。だが、いずれにしても、言葉にはならなかった。
眼下に広がるのは、広大な景色。それは、サン・マジーネの街に留まらない。太陽がちょうど沈み行く頃合いの暖かい街と、その外に広がる城壁跡、さらに遠くには山、森、空──全てがぶわっとイーナへとなだれこんで来る。
あまりにも多くの視覚情報に、イーナは瞬時にそれらを理解することができない。ゆっくりと、味わうように、衝撃を咀嚼していく。そうして、しばらくして、ミンハは話しかけてくる。
「どうだ? いい眺めだろう。世界を征服してやったような気分になるよな!」
「征服……?」
イーナが首を傾げながら、その意味を理解して、ぷふっと吹き出す。
「な、何がおもしろいんだよ」
「なんか、ミンハはこのグループのリーダーで、大人な人だと思ってたから、子供みたいだなぁって思って、面白くて」
「はっ、俺たちは皆子供さ」
ミンハが少し不貞腐れたような気がしたので、イーナは、景色へと視線を戻して、景色を褒める。
「でも、本当に、綺麗。すごい。これは、この旅一番の思い出かも」
今は、この景色を褒めることが、ミンハへ対しての敬意だと思ったからだった。改めて見ると、やはり、ただただ綺麗で素晴らしい眺めだった。こんなに高い建築物をイーナは見たことがなかったし、もちろん、登ったこともなかった。下を見れば、人が見える。ちらちらと動いている。遠くを見れば、遥か先には他の街らしきものも見える。素晴らしい景色。
けれど、ミンハの意見には、やはり賛同しかねた。ここから見下ろすだけでも、こんなに沢山の家々が見えるのだ。ここら一帯を征服した気になれるとしても、とてもとても、世界を征服というのはあまりに大げさだ。本気で言っている訳ではないことは知っている。けれど、ここから、辺り一帯を見下ろすことによって、逆に、世界はとんでもなく大きいものだということを認識出来る。
イーナの頭にわずかに、本当にわずかにだが、世界に羽ばたいてみたいという願望、もっと沢山色々なものを見てみたいという願望が灯った。本当に小さな小さな思いで、イーナがその思いをはっきりと認識出来ているかどうかには怪しいところがあるが、だが、確かに、そんな思いがイーナに芽生えた瞬間であった。
そんなことを僅かに頭の隅に宿らせつつ、景色を眺めて、どれだけ時間が流れただろうか。外の景色は夕暮れからほとんど日没へと変化していた。
「──ーナ、おい、イーナ」
イーナは、ヒュウに肩を叩かれて、ようやく意識を世界から自分の元へと戻す。
「な、なに!?」
驚いて振り向くと、その驚きに驚いたヒュウがいた。
「何って、もうそろそろ出るぞ。もう日も沈んだし」
それはつまり、イーナの旅の終わりを意味しているとも言えた。
「それで──俺たちに何が出来るか、分かったのかよ」
ヒュウの問い。そういえば、そういう話だったことを思い出す、イーナは、なんとなく、気づいていた。
「うん」
そう答えようと思って、しかし、やめた。何か深い理屈を言おうとしてやめたのではない。心のどこかで、この旅が終わって、もう明後日には、再び、かつての貴族としての平凡ンな生活に戻ることを拒否したいという思いが働いた。
「いいえ、分からない。分からないから、まだ、あなたたちについていくわ」
それが、この旅──いや、冒険を終わらせないために、イーナが取ることのできる最善の行動だと思った。盲目的に、直感的に、こんなことをすれば、色々な人が自分を心配するだろうということが分かっていながら、けれども、イーナはそう口にすることを止められなかった。
「……本気か? 攫っておいて言うのも変な話だけど、もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
ヒュウがそんなことを言うものだから、イーナは笑ってしまった。
「いいの! 大体、それなら攫わなければ良かったでしょ? 無責任なこと言わないでよね!」
イーナはヒュウにそう言うと、既に建物を降りかけていたミンハや他メンバーの後に続いて、彼らについていく。ヒュウはため息をつきながら、その後ろを追った。
その後、イーナらはミンハの住む街外れのスラム街へと足を伸ばすことになる。夜の街並みにまみれながら、街の外れへと進んでいく。
しばらく歩き、彼らの根城だという建物へと着いた。
「ここが俺たちの普段のアジトだ。今日街の中の裏路地にあったのはただの空き家な」
「へぇ~……」
決して良い作りとは言えなかった。ぼろぼろの崩れかけた家。街の中央が賑やかになるにつれ、街の端が住居としての機能を失った結果なのか、それとも、ここら一帯がスラム化した故に、人がいなくなったのかは分からないが、どちらにしてもミンハらが建てた訳ではもちろんなく、元々は誰か別の住人がいたのには違いないだろうと考えられる。
「飯はこんなのしかないぜ、やるよ、特別にな」
ミンハがイーナに渡したのは硬く硬く焼かれた石のようなパンだった。一瞬、渡されたものが食料かどうかさえ疑ったが、ミンハが同じものを小さくちぎって口に入れている姿を見て、ようやく渡されたものがパンであるということを認識する。
他のメンバーたちも、同じようなものを食べていた。座るところさえままならない家だが、イーナも適当に腰掛け、渡されたパンを食べてみる。
「うへぇ」
率直に言って、まずい。おいしくない。いや、まずいというより、味がないと表現するのが正しかろう。なんとか栄養素を摂取することができるというだけのかたまり。
「お口にあいませんか?」
冗談めかしてミンハが問うてくるので、イーナは、そんなことないわ、と多少大きめにちぎってその塊を口へと放り込む。
「本当ならお嬢さんを売り払ってもっと豪勢な食事だったんだけどな」
ヒュウがにやにやして言う。イーナは、悪かったわね、というと、その後に小さくつぶやいた。
「私に何が出来るんだろう……」
「なんだって?」
ヒュウが聞き返すが、イーナは、なんにも、と呟くと口を閉じた。
前日の行動が盛んだったためか、ミンハらは朝遅い時間、昼近くまで眠りこけていた。イーナは、床も硬く、しばらく夜遅くまで寝ることができずにいたのだが、それでも、深夜深まる頃にはいつの間にか夢の中に落ちていた。
そして、終わりは突然に、本当に突然に訪れた。
「なんだ! おい! やめろよ、入るなって、おい!」
昨日の疲れたためか、ずっと眠っていたイーナを起こしたのは、慌ただしい暴れ声。それは、ミンハらの怒声、叫び声だけでなく、それらとは違う野太い大人の男の声が複数混じりあっていた。
「おい! お前らが人さらいをしてるっていうのは分かっているんだ!」
そんな声がけたたましく家中に響きわたる。どたばたと騒ぎ散らしている玄関先をかぶっていた毛布からひょこりと顔だけ出して見るイーナ。
「おい、顔出すな」
そう言って顔を引っ込めさせようとするのは、すぐそばにいたヒュウだった。すでにヒュウ以外のメンバーは、玄関付近に総出で集まっていってしまっているようだった。ヒュウだけがイーナの世話を見るように言い渡されたのだろう。
「な、なによ、何が起きて──」
「警察が乗り込んできてるんだよ」
イーナはようやく状況を理解する。玄関近くでどたばたやっているのは、警察とミンハらのメンバーということだろう。声を潜めて聞いていると、その騒ぎはどんどん大きくなっていくことが分かる。
「いいか! お前ら! お前らな、いい機会だ、全員逮捕してやる!」
どたばたという足音と、騒ぎ声、悲鳴、怒声、色々な声が恐ろしく混ざりイーナの耳に届いた。
「だめ、出ていくわ!」
イーナはこれらの騒ぎが自分のせいで起きていることだと確信した。そして、自分のせいでミンハらがひどい目にあうということに耐えられなかった。だから、イーナは、自分が出ていって騒ぎを収めるべきだということを悩みながらも判断した。毛布を跳ね除け、
「おい、待てって!」
というヒュウの声を無視し、玄関へと走り出す。すぐに、警官とミンハらが揉めている光景が目に入る。乱闘直前に見えた。間に割ってはいることは、危険が伴うということは見てすぐに分かる。しかし、イーナは迷うことなく一直線に、それらの間に割って入る。
「な、なんだね、君は!」
「おい、なんで出てきて……!」
イーナは無言で両手を広げて、ミンハらをかばうようにして警官らの前に立った。
「──ごめんね、ミンハ。今はこれしかできない。ヒュウにもそう伝えといて」
「君、もしかして、クレツィンガーか! イーナ・クレツィンガーだな!?」
イーナの両肩を警官の一人が掴み、揺すりながら問う。イーナは頷くと、
「そう、だから、もうこの子たちに手を出す必要はない。もうやめて」
イーナがきりとした目をして言うが、警官の一人はその言葉を聞いているのか聞いていないのか良くわからない昂った調子で、
「よし、被害者確保! イーナ・クレツィンガー確保だ!」
と大きく叫び他の人達に伝えると、そのままイーナの肩をがっしりと掴み、家から攫うようにして離れさせてくる。イーナの声など気にしていないようで、イーナは激しく抵抗しようとした。
「ちょ、ちょっと!」
しかしながら、力で敵わぬイーナは、どうすることもできず、無力に引きずられるようにして、家から追い出されていく。イーナは、ただ、無力を痛感した。
必死になんとかミンハらをどうにか救おうと、警官らに向かって叫ぶのだが、それらの叫びはまるで無視される。そうして、ミンハらが暴れている中、イーナはそのまま、引きずられるようにして動かされる。
イーナの意志とは全く異なることが、さもイーナの意志であるかのように動いている様は、イーナから見ると、なんとも不気味であった。イーナは、何もできぬまま、警官らが乗ってきたであろう馬車へと押し込められるようにして乗せられてしまった。
「もう安心してください。怖かったでしょう。もう大丈夫です、後のことは、我々に任せて」
警官はそう言いながら、肩を痛いくらいにがっしりと捕む。知らぬうちに馬車は出発しており、イーナが出来ることは、首を回して後ろのミンハらをなんとか見ようと試みることだけ。
しかし、その目に再びミンハらの姿が映ることはなく、ミンハらと警官らがもみくちゃになる怒声、叫び声がわずかに聞こえるだけだった。




