第12話
「……何かしら」
その音は、洗い場からしていた。洗濯物を洗う音らしかった。
「……?」
ロジーは、その音を生じさせている主にばれないように、ひょこりとそろりと頭だけを出してその様子をじっと見る。そこにいたのは、先ほどのドワーフの少年。彼は、ぼんやりとした表情で、洗濯物を手洗いしていた。
大量のシーツ。恐らく、この宿屋で使われているシーツの洗濯だろう。でも、なんでこんな時間に、という疑問がロジーの頭に浮かぶ。
このまま、この場を去ることもできる。見つかってはいないだろうし、問題ないだろう。むしろ、それが自然な行動かもしれない。それが、普通な行動かもしれない。そこまで考えて、ロジーは引っかかる。
「普通……?」
ロジーの頭には、まず、自分の家のことが思い浮かんだ。辺境の地なりにも、貴族の家庭。裕福な暮らしをしているという自覚は、学校の通っている中で少なからずあった。でも、それは、ロジーにとっての普通。
次に、アジシの街での羊飼いのことが頭に浮かんだ。まだ若いのに、放牧の季節には、彼は家から離れて一人で羊に草を食わせる。羊と遊んだことは楽しかった。でも、羊飼いにとって、それは、普通。
ロジーは、この旅を楽しみながらも、無意識のたくさんの普通を見て着ていたということに気づく。そして、じゃあ、今、自分が普通の行動として取ろうとしている、立ち去るという行為は一体どこから来ているのだろうと考える。
けれど、答えなんてでなかった。ロジーは、思った。一回、逆のことをしてみよう、と。
「こんばんは」
次の瞬間、ロジーは、ドワーフの少年の前に出ていた。
ドワーフの少年は、びくっと身体を振るわせて、すぐにロジーへと視線を動かす。
「……? こんばんは、はは」
昼間の元気な様子とはまるで異なる、控えめな態度。
「昼間とは、なんだか、様子が違う、ね……」
ロジーは、小さい声で言う。もともと大人しいロジーの小さな声は、夜だというのにあまり辺りに響かない。自然とドワーフの少年は距離を詰める必要に迫られる。
「あれは、客寄せのための、顔さ、はは」
ドワーフの少年の控えめな物言いに、ロジーは、なんだか気持ちが大きくなる。普段、ほとんど自分から話しかけたり、話題を振ったり、世間話をしたりなどということをしない大人しいロジーだったが、彼の前ではそんな自分じゃなくなる気がした。別に恋なんかじゃない。だけど、親密感が持てた。
「その洗濯物、手伝うから、話を聞かせて欲しい」
自然と出た言葉だった。別に洗濯物を手伝いたいとかじゃない。話をしたいと思ったから出た言葉。でも、ただ一方的に話を聞かせてもらうというのも、なんだかわがままな気がして、今自分にできることを考えた結果だった。
「い、いや、お客様にそんなこと。いいです、大丈夫です、慣れてますし、別に話しながらでも出来ます」
「……あなた、名前は? 私はロジー。ロジー・クルツィンガー」
ロジーがまずは名乗りつつ名前を尋ねる。クルツィンガーという姓を言うのは少し迷ったが、遠方の土地だし、何より、この目の前の少年が、昼間と違う態度を見せてくれている──つまり、真実の彼を見せてくれているというのに、自分が何かを隠すというのは嫌だったから名乗ることにした。
「僕はオル、です。姓は、ないです。はは」
ロジーは不思議とオルという小年について知りたいと思った。純粋な好奇心。その好奇心が形の良いものであるとは言い切れないが、少なくとも、今、目の前の会話を続けるうえで役に立つことであるのは確かだった。
「オルは、どうしてここで働いているの?」
率直で、純粋な質問。それだけに、オルもその言葉がからかいや蔑みの意味などもっておらず、自分に興味をもってくれている言葉だということを理解した。今日出会ったばかり、そして、自分とはおよそ身分も違うであろうお嬢様のような子に、オル自身の身の上を話すというのは、少し気が引けることでもあったが、その引け目もロジーの愚直な質問の前には役割を果たすことはない。
「僕は、両親がこの鉱山で働いてて──でも、死んで。身の置き場所がなくて、ここに……」
オルは、ただ、事実を伝えただけだった。彼の中では、ごくごく当たり前の、なんともない事実。けれども、ロジーにとってその事実は胸を打つのに十分過ぎる。
もしこの話を自分の屋敷や学校で聞いただけだったならば、胸に突き刺さることはなかっただろうと思えた。しかし、ここで、実際に、こうして夜遅くまで仕事をしているオルから直接聞くというのは、ただならぬ体験であった。
数秒間、オルが洗濯物を洗うちゃぷちゃぷという音だけがあたりに響く。オルは、何かまずいことでも言っただろうかと心配になり、視線をロジーに向ける。ロジーはその視線でようやく自分が押し黙ってしまっているということに気づき、言葉を発する。
「そう……。それは、その、大変。なんといったらいいか、分からないけれど」
オルは、目の前の少女は本当にそう思っているのだろうと思った。だけれど、一方で、邪な考えがどうしても頭をよぎる。何も知らないくせに、同情か、いい身分だ、という思いが頭に浮かんでしまうのだ。けれど、それらを表に出すまいと努力する。
「僕みたいな連中はこの辺りには珍しくないよ。中には、子供だけで街に逃げたやつらも、いる、けど……」
「街に逃げた……?」
逃げるという表現を聞くと、ロジーの胸は尚更痛む。あまり心地よい言葉ではなかった。
「もう少し南に行くと、サン・マジーネの街がある、でしょ。そこは、大きな街、だから、子供でも、何か仕事がある、って」
「そうなの。オルは、行かないの?」
一つの疑問。オルが行きたがっているという様子は発言からしてないだろうと思ったけれど、聞いておきたいと思ったのだ。
すると、オルは、一瞬手を止めて、またすぐに手を動かす。一瞬の完全な沈黙がその場をつつみ込む瞬間があり、そして、答える。
「うん、行かないんだ」
それは、否定だった。不可能を意味する、行けない、ではなく、自らの意志が行かないことであるということを言った否定。
けれど、その言葉は重たくて、どうしても発言したくないような言い方に聞こえた。ロジーは気づく。オルは、自らの今の境遇は、自ら選択しているということを自分に言い聞かせたいのではないかということに。きっと無意識の発言だろう。だから、確認のしようなんてない。
「そう」
だから、ロジーに返すことが出来たのは、たったその一言だけだった。
「さ、洗濯は終わったよ。お嬢様はもう寝た方がいいんじゃないかな」
オルはそう言うと、立ち上がる。顔が月明かりに照らされて、毛の多いドワーフの顔がロジーの目にはっきりとうつる。よく見ると、少しだけ、眉間にしわが寄っているような気がした。月明かりに照らされた狼のように一瞬だけ見えたその顔は、けれど、ただのドワーフで、もっと言うのなら、一人の若い若い労働者に過ぎなかった。
「分かったわ。色々ありがとう、おやすみ」
ロジーはなんとかそれだけの言葉をひねり出すと、振り返ることなく、その場からゆっくりと立ち去る。
ベッドの中に戻ったロジーだったが、気分はあまり良くなかった。
悲しいという訳ではない。涙は出ていなかった。同情するということもない。それは、オルが同情して欲しくないと思っているからではない。オル自身が選択したとい誇りを尊重した結果だった。
それらの感情は、それ以上に踏みこむことなんて出来なくて、だからといって、これで考えることをやめてもいいとは思わなかった。
ベッドの中で必死に考えようとしていたけれど、前進もなく、後退もなく、どうしてよいのかなんて分からなかった。
ロジーは夢を見た。
夢が何かを自分に教えてくれることなんてない。結局取りとめもない事実が霧散しているのが夢に過ぎないのだから。夢の中で、ロジーは大人に成長して、絢爛豪華な暮らしをしていた。絢爛豪華、というより、貴族の暮らしだ。
ただの貴族の暮らし。毎日何もしなくても食事が出てきて、本が読みたいなと思ったら、召使に命令して本を持ってこさせる。
「ちょっと、本を持ってきて」
そう言うロジーの言葉に答えたのは、オルだった。
「はい、ただいま」
びくっとしてオルを見る。けれど、オルは客寄せの時の笑顔でこちらを見返すだけ。次にロジーは別のことをしたくなった。
「寒い。暖炉に火を付けて」
そのロジーの言葉を聞いて、暖炉に火を付けたのは、やはりオルだった。あれ、と思って先ほど本を持ってきていたオルを確認すると、やはり、自分のすぐ近くにオルはいる。その顔は相変わらずにこにことした調子の良い笑顔だ。
暖炉の方を見ると、そこにもまたオルがいる。暖炉に火を付け終え、こちらを見て、にこにことしていた。
「オル」
ロジーはその名を呼んでみた。けれども、その言葉に答える者はいない。
「オル、こっちに来なさい」
その言葉に答えたのは、またどこからか表れた新しいオルだった。
「オル、という方をお呼びすればよろしいのでしょうか……? どのような間柄でしょう?」
ロジーは気づいた。周りにいるのは、オルの姿をしているけれどオルではない。それなら、オルは、一体どこにいるのだろうか。
「ええ、オルを呼んできて。オルは……私の、友人」
「……はて、しかし、オルなどという方はクレツィンガー家の付き合いにはないはずですが」
「いいからつれてきて! オルをつれてきなさい!」
ロジーは怒りつつ、目の前にいるオルにそう怒鳴る。この目の前にいるのは、オルではないのだから。
目の前のオルは、首を傾げつつ、その場を去った。ほんの少しして、またオルが表れた。
「すみません、ロジー様。オルという名前の少年は国中に何人もいます。姓は……?」
ロジーは嘆いた。何故こんなに悲しいのかよく分からなかったが、けれども、ただただに悲しかった。ひたすら悲しかった。涙があふれてきた。
翌日の朝、シリルはロジーの寝顔を覗き込んでいた。何か嫌な夢でも見ているのだろうか、顔を歪ませていて、涙を流した跡がある。
「ロジー、朝だよー」
シリルは声をかける。
「……ん、ん~」
小さなうめき声の後、ゆっくりとロジーの目が開かれる。寝起きのとろんとした眼差しは、優美で、これ以上強く起床を促すのをはばかられる。
「イーナも、朝だよ」
イーナの寝起きの顔も、流石双子というだけあり、似たようなものだ。
「じゃあ、僕は先に荷物まとめて下行ってるから、二人も早めにね。ちょっと、宿屋の主人にサン・マジーネの祭りについて聞いておくよ」
シリルが出ていった後も、ロジーは、ぼーっとしていた。夢を思い出していた。あんまり、覚えてはいないが、オルが出てきた悲しい夢だった気がする。もう涙が出ることはない。
「ロジー、何ぼーっとしてるの? 早く着換えて準備しなよ」
珍しくイーナが催促する。ロジーは、どこかへ旅立たせていた意識をなんとかもってきて、気持ちを切り替えようと努力したが、そうすんなりと切り替えられるものでもない。とりあえず、身体を動かし、出発のためにすべきことを済ませていく。
イーナとロジーが出発の準備を終え、下の階へと降りると、シリルが待ち構えていた。
「よし、もうそろそろ馬車が来るはずだから、もう出発しよう。今日の昼頃には、サン・マジーネに着いた方がいいらしい。どうにも、祭り──祈願祭は明後日からのようでね。今日の昼頃について、少し早めに宿を確保しておかないと、宿がなくなっちまうぞ、とさっき主人に教えてもらったんだ。もう出ないといけない」
そんなシリルの話を聞きながら、ロジーは一つだけ心残りがあった。
「あの、えっと、オル……」
「……? オル?」
シリルが首を傾げるのも無理はない。オルとは一体なんだろうか、という疑問が頭に浮かぶ。
「いえ、なんでも……」
ロジーは、周囲を見渡している。一体何を探しているのだろうかと疑問に思うが、ロジーが喋らないのではどうしようもない。
シリルは表に馬車が到着したことを確認すると、二人に声をかける。
「さ、表に馬車が来たよ。行こうか」
ロジーの足取りがどこか重たいような気がする。後で話を聞いた方がいいのだろうか。
考えつつも、馬車に荷物を詰め込み、乗り込んだ。
「サン・マジーネまで行きたいんです」
馬車が、ゆっくりと動きはじめようとしたその時だった。
「こら! お前は! 何やってんだ! さっさと仕事しろ!」
大声があがったそちらに目線をやると、そこには、一人の昨日の客寄せをしていたドワーフの少年がいた。こちらを、馬車をじっと見ている。どうやら、自分を見ている訳ではなさそうで、はたしてその視線がどこに向かっているのかと注視すると、横に座っていたロジーに向かっているということが分かる。
だが、すぐに、主人が出てきて、首ねっこを掴み、ドワーフの少年は連れ去られていった。
何故ロジーを見ていたのかは、シリルに分かったところではなかった。




