第1話
「シリル・ナッサウ! 釈放の許可が出た! 出ろ!」
地下深く、光も注がない牢獄の一室の前に、一人の兵士が表れる。実に三回目となる投獄だが、今回も、結局、親や家の力を借りて、出所することになった。
積まれたのは金、そして、コネ。本来、投獄されたら一生出ることさえ叶わないとも言われる最下層に入れられながら、数日間の監禁の末に、また出所。周りには、複数回の殺人を犯した者や強姦行為を繰り返した者が収容されているような場所。
そんな場所に囚われていた男の名は、シリル・ナッサウ。囚われていた数日間、髭を剃ることさえできずにいたため、まだ若い男だが、髭がボサボサ、あまり長くもない髪の毛も乱れている。そんな彼が解放されたのは、彼の家のおかげだったりする。
名門ナッサウ家は、ここ、ミラル王国でも指折りの家系であり、国への力も強かった。そのナッサウ家の長男坊であるからこそ、絶対的な父親、祖父の力によって、三回もの釈放を許されたのである。
こうして、シリルは、今、その場所から釈放され、晴れて、地上の世界へと舞い戻った。とはいえ、彼は、殺人を犯した訳でもなければ、何かを盗んだ訳でもなく、当然、強姦をした訳でもない。そのような直接的な罪状であれば、いくらなんでも、三回も投獄されていれば、ナッサウ家そのものが問題視され、家の力だけではどうにもできないだろう。
シリルは、そのまま兵士に連れられて、馬車で、三回もお世話になった実家へと戻る。兵士に連れられなければ、逃げてしまうと予想されたからだ。兵士に連れられ、実家の屋敷へと赴く足取りは、決して軽くはない。
シリルは、頭の中で、色々と考え事をしていた。なんといって怒られるだろうか、そろそろ縁を切られるだろうか、縁を切られたら一体どうやって生きてゆけばいいだろうか、等々。
兵士は、シリルの身をミラル王国外れに位置していた牢獄から、ミラル王国王都ミラポリス内にある屋敷まで送り届けると、その身をナッサウ家使用人に引き渡して、その場を立ち去る。
「おかえりなさいませ、お坊ちゃま。ゴットフリート様が、話があると……」
シリルは、使用人を見る。逃げようと思えば、逃げられるが、ここで逃げ出せば、今度はこの使用人が父親に怒られることだろうと思い、大人しく従うことにした。
「父上は、いないな?」
確認を取る。
「はい。ゴットフリート様の取り計らいかと」
シリルは少し胸をなでおろす。使用人に案内され、一人で部屋に入る。中には、祖父、ゴットフリート・ナッサウが物悲しい顔をして、窓からミラポリスの街並み、行き交う人を見ていた。髪の毛はほとんど白髪になっており、その背中は哀愁さえ感じる。シリルの入室を、音で悟り、視線を送らぬまま、シリルの接近を待つ。
「ただいま、参りました、おじいさま。この度は、釈放を取り持ってくださって、感謝しております。それでは、自分はこれで」
踵を返して立ち去ろうとするシリルを、ヴェルンハルトは呼び止める。
「待ちなさい、シリル。もう三度目。そろそろ、分かるだろう。もうやめなさい」
もうやめろというその言葉は、シリルの胸に突き刺さり、感情を昂らせるのには十分だった。
「もうやめろとは! なんですか! 自分は、この国を、この世界を良くするために戦っているのに! それを──」
シリルの怒声は、けれども、途中でそれを上回るゴットフリートの声で止められる。
「聞きなさい、シリル!」
その年にしては、とても大きな声で、若干震えていた。
「もう三度目だ、お前さんが政治犯として捕まえられるのは。父ヴェルンハルトは、今回の件も相当に激怒してるぞ。今回の釈放が最後だと思いなさい。わしも、もうかばいきることは難しいだろう。四度目ともなれば、処刑もあり得る話だ。ただでさ、一度でさえ、ナッサウ家の力が及んでいなければ処刑されても文句は言えない罪状なんじゃ。それは、シリルも良く分かっているだろう?」
始終落ち着いて語るゴットフリート。シリルには、反発したい気持ちが十二分にあった。これが、父ならば、無理やりにでも飛び出したかもしれない。しかし、過去三回もの投獄から救い出して、今回以外、何も語らなかった祖父の語る言葉は重たい。一度目、いや、自分が政治活動を行い出してから常に口うるさく攻撃してきた父ヴェルンハルトとは違う、酷く寛容な態度。その祖父が、今回はこうして本気で口を開いている。シリルとしても、無下にすることは難しかった。
祖父への思いと共に、次は処刑という言葉も頭をよぎる。自分の立場があるからこそ、三回もの投獄にあいながら、何も痛い目を見なくて済んでいるのだという事実が強く意識されると同時に、今後、活動を続ければ、その庇護もなくなるということが、ある種の恐怖となる。
「しかし──」
シリルは、なんとか反論をしようとするが、言葉が続かない。
「そもそも、お前さんの政治活動のためのお金はナッサウ家から出ているんだろう。生活費の範囲内、といえども、もう二十四にもなって、大学を出たというのに貴族としての職務も果たさず、のらりくらりと遊んでいるのも──おっと、これは、お前さんの好きにすればいいんじゃがな……」
ゴットフリートはいつの間にか、シリルの方へと身体を向けていた。つい、小言を言ってしまったことを情けなく思っているのか、立派な髭を触って照れ隠しをしている。
「……考えさせてください」
シリルはうだれる様に言うと、その場を後にした。
結局、シリルが出した答えは、
「今までお世話になりました」
家を出るということだった。無論、父ヴェルンハルトは激しく反対していたが、父がいない隙に、ありったけの貯金となんとか生活の足しになりそうなものを手にして、大荷物で家を出た。使用人も、口では止めるものの、雇い主の息子であるシリルに暴力を振るうなどのことは出来ない。
祖父ゴットフリートのことを思い、後で、祖父にだけは、自分の居場所を教える気でいた。
シリルが家を出た理由は二つ。一つは、家にいては満足な活動を続けることが出来ると思えなかったから。もう一つは、自らが家に頼って自立さえ出来ていないという事実を祖父につきつけられたから。勿論、ゴットフリートは、シリルを家から追い出したくて、そのようなことを言った訳ではない。むしろ、逆。ゴットフリートは、シリルに、貴族として、ナッサウ家の人間としてのふるまいをして欲しかったから、小言のように言ってしまっただけだった。しかしながら、事実は事実。事実を認識したシリルはいてもてたってもいられなくなった。
この家を出るという結論は、シリルにとって、実に大きな判断ではあったが、同時に、越えなければならない一つの壁だと思っていた。だからこそ、家で祖父の話を聞いたその翌日に、こうして、家を出ていた。
牢獄から出て久々に歩く街の中。王都ミラポリスは、王都だけあって、相当に栄えている。絶対王政の下にある国ではあるが、課せられる税の重さに負けることなく、この街は活気づいていた。足取りは自然と、活気ある方へ向かっていく。
「いらっしゃい! お兄さん! どうだい!」
「はい、らっしゃいらっしゃい!」
ついたのは商店が多い地区。どの人も忙しそうに声をあげ、動きまわり、物を売っている。買う人も、笑顔で買っている。シリルは、それを見て、お金のことを思い出した。まだしばらくは宿を借りるなどして暮らせるだろうが、それも数日だろう。そう考えると、急激な不安に襲われる。
ぶらぶらとあてもなく街を歩き、疲れ、まだ夕方にも満たないというのに宿を取る。王都ミラポリスは交通の要所にもなっており、ゆえに、宿の数は多く、街のそこらかしこに宿はあり、宿には困らない。
宿の狭い一室で、休息しているシリルは、一体どうしたらいいのだろう、この先、どうやって生活していったらよいのだろう、といった俗世的な考えて頭が支配されていくのを強く感じた。これまでに思い描いていた、立派な国づくり、革命、議会権力の強化といったような政治的なことへと考えを寄せることなどできなくなり、ただ、明日の心配をするしかなかった。
「働かないといけないよな」
まず、思い浮かんだのは、そのこと。今まで、政治の勉強をじっくりとするために図書館で書物を読みあさったり、街中で市民相手に演説を繰り返したりしていた日々とは全くことなる労働者となる道。無論、労働しながら、革命的活動を行うということも考えられるのだが、そのたびに、処刑という言葉が頭を過ぎる。
労働という経験は、シリルにはなかった。それに、この街ですぐに見つけられるような仕事というのは、きっと、肉体労働が主だろう。王立大学を卒業したというシリルの学歴が評価されることは決してなく、むしろ、その肩書は邪魔になるとさえ考えられた。
思いを巡らせているうちに、日は沈み、腹は空き、けれども食べる物もなく、シリルは、その日の活動を終えた。
「おはようございます、シリル様。いつまで豚のように眠っているんですか、朝ですよ。身体を起こして、早々に朝食を取り、早くお嬢様たちのお勉強のための準備をしてくださいまし。本日からでございましょう」
妙に毒舌の混じった言葉を放つのは、この屋敷の使用人の一人であり、シリルの面倒を見てくれる女性メイド、名をアリーチェ。髪は黒く長いが、職務についているためか、短くきれいに結われている。屋敷での地位的には、シリルと同じ立ち位置なのだが、シリルの立場上、シリルは屋敷の雑務をすることはないため、このような形で起こされる。
屋敷といっても、ここは、ナッサウ家の屋敷ではない。ミラル王国最南部に位置する街、フィレニアだ。中部自治区というミラル王国の隣国の国境沿いに位置する街で、王都ミラポリスから三百キロ程離れた位置にある。人口はさほど多くないが、国境の街、外国への窓口、貿易都市としてそれなりに栄えていた。
そんなフィレニアの街の外れに、この辺りの一部を収める貴族、クレツィンガー家の屋敷はあり、シリルは、昨日から、この屋敷に住みこみ生活をすることになっていた。
「さぁ、さぁ、急いで」
指示を出すアリーチェだが、シリルは、寝間着から普段着へと着換えをしなければならない。
「いやぁ、あの、一旦部屋を出ていってくれるとうれしいんですけど……」
昨日、出迎えられた時から、少しおかしなメイドだとは思っていたが、自分の存在を無視して、それどころか押しのけてシーツを整えているところを見ると、手際こそよいものの、戸惑いを感じた。自分の屋敷での使用人の態度と違うのは、立場の関係からやむを得ないことなのだろうが、どうにも慣れない。
「もう、あなたの裸なんて興味ありませんよ、早く!」
シリルの願いを無視して、アリーチェは、面倒くさそうに言い捨てる。
「えぇ……」
今の自分の立場からしたら、反論することもできない。かといって、やっぱりどうしても気になる。ぼやぼやもじもじとしていると、しびれを切らしたアリーチェの顔がこちらへキリリと向けられる。そして、次の瞬間、
がっ、と上着に手をかけられ、そのまますっぽんと脱がされる。
「さ! 早く!」
一瞬の出来事であったが、そのままアリーチェはシリルの身体から追いはぎのようにはぎ取った上着を手に、部屋から出ていってしまう。出る時に、
「残りの洗濯物は、自分で洗濯場へと持って行ってくださいね!」
と言い放って行ったが、もはや、シリルの頭はその言葉を捉えていなかった。シリルは年甲斐もなく、ぽかんとした落胆した声で呟く。
「か、か、革命だ……」




