三日月の夜まで祈りましょう
一
僕らはまだ子供だ。少なくとも外見上は。それでも彼女は、一生懸命に背伸びして大人のような振る舞いをしようとする。煙草を吸って見せるのも、その一つなのだろうと思う。大人になりたかった欲求が、彼女に毒の煙を勧めるのだろう。
煙草は身体に悪いよと僕が言う度に、彼女は決まって皮肉交じりに反論する。どうせ煙草にやられるよりも先に、この命は尽きてしまうものだからと。そして彼女は精一杯に笑顔を浮かべながら、哀しいその顔を僕に向けるのだ。
彼女が僕に涙を見せたことは無かったが、心の内ではいつも悔し涙を湛えていることを僕は知っている。僕も彼女と立場は同じだから、その悔しさを理解できているつもりだ。それでも彼女は、いつでも笑顔を見せ、時に毒を含んだ冗談を言って僕を励まそうとする。そんな彼女を僕は、どこまでも愛おしく思う。
二
僕らの住む村は、僕らの他には誰も居ない。緩やかな丘の上に幾つかの民家がある他は、小さな川と麦畑、あとは薄野が広がっている。
記憶の彼方にある幼い頃の僕らは、たくさんの人間に囲まれて暮らしていた。畑を耕し麦を育て、川魚を獲って懸命に生きた。彼女には兄が居た。年の離れた僕らの面倒を良く見てくれた。良く働き、頭の切れる兄だった。
ある朝目が覚めると、村の大人たちは誰ひとり居なくなっていた。両親も祖父母も忽然と姿を消した。村には僕と彼女、兄の三人だけになった。皆天国へ行ってしまったと、兄に聞かされた。そのときの僕は何の疑問も抱かなかった。人の死というものを良く理解できていなかったから。
三
それから数年が過ぎた冬の夜、兄は僕らに話してくれた。酒に酔った勢いだったのかも知れない。
僕らは三人とも病気だった。生まれつき髪が白いのがその特徴だ。僕らは大人になれない。子供を生めない身体なのだ。大人たちはそれを知りながらも僕らを育てた。病気の僕らを憐れんだからでは無い。労働力を期待され生かされていたのだ。
大人たちが居なくなる前夜、村の女が子供を生んだ。黒い髪の双子だった。男の子と女の子。病気でない子。その日、まだ幼かった僕と彼女は不要になった。口減らしの運命にあった。食べ盛りで病気の子供よりも健康な赤子に価値があるのは明らかだ。
それを知った兄は僕らを生かすよう大人たちに懇願したが、誰にも聞き入れられなかった。僕や彼女の両親にさえも。だから全て兄が始末したのだと聞かされた。
僕は黙ってその話を聞いた。彼女はただ、ありがとうと言って哀しい顔で笑った。
暖炉の火がぱちぱちと音を立ててゆらめき、雪が降り始めた窓の外まで照らしていたことを覚えている。
四
そんな兄が死んで僕らはついに二人きりになり、それから一年が過ぎた。兄が死んでから、彼女は煙草を吸うようになった。村の食糧庫の奥に隠されていたものだ。
まだ夏の残り香が漂いながらも彼岸花が咲き誇る頃。
僕は彼女と共に、兄の墓に花を手向けた。盛り土に白木の杭を打ちつけた簡素な墓。この真下で、兄の身は朽ち果て骨となり、そして土に帰った。
兄は幸せだ。弔う人が居てくれるのだから。僕が呟くと、彼女は煙草を吹かしながら、僕が先に死んだら弔ってあげるよと言った。僕より先に死ぬことは無い、だから安心してと。
女の子を残して先に死ぬことは出来ない。僕が彼女を弔うと言うと、彼女は冗談交じりに言うのだ。じゃあ一緒に死んでみようかと。ベッドの上で抱き合い、そのまま骨になる。いつか誰かが二人の亡骸を見つけたときを思うと、浪漫に溢れていると思わないかと。
悪ふざけも大概にしろ、僕らの他にはもう誰も居ない。浪漫に浸る人間はもうどこにも居ないのだと言うと、彼女はまたその哀しい笑顔を僕に向けた。
薄い唇の間から吐き出された白煙が風に舞い、透明になって消えた。
五
夜、僕らは同じベッドで寝ることにした。抱き合ったまま骨になるつもりは無いが、彼女が少しでも笑顔でいられるのなら、彼女の冗談に少しでも付き合ってみることにした。
風呂から上がったばかりの彼女の髪は濡れて艶やかで、烏の濡羽の色だったら良かったのに。
このまま死ぬつもりなのかと問うと、それが出来たら幸せだねと言って彼女は笑った。
兄のような死に方はしたくない。僕は彼女に言った。
兄の身体は手足の先から水のように溶け始め、それでも意識は正常に保っていた。兄は死ぬ直前まで、痛い痛いと叫んでいた。激痛が兄を狂わせた。殺してくれと泣き叫んだ兄の願いを、僕らは叶えてやれなかった。痛みから解放するためとは言え、この手で兄を殺してやることが出来なかった。そんな僕らに兄は、最期には罵声を浴びせ、呪ってやると言いながら死んで行った。
彼女は、大丈夫だよと僕に言って抱きしめた。その時には麦刈りの鎌で首を刎ねるからと。
ありがとうと言った僕は、彼女の小さな胸の温もりに顔を埋めた。
六
僕が死んだら彼女はその先、どう生きるのだろう。或いは彼女が先に死んだら、誰が僕を弔ってくれるのだろう。そんなことを考えていると、海を目指してみないかと彼女が言う。二日、三日、いやもっと掛かるかも知れないけれど、まだ他に誰か生きているのかも知れない。もしかすると、そこには大きな街が有って、たくさんの人が楽しく暮らしているのかも知れない。
意外と夢想家なところが有るよねと僕が茶化すと、彼女は軽く僕の首を絞めた。
案外そういうものかも知れないじゃない。弔い人なんて嫌と言うほど居たりしてね、と彼女は続けた。
気休めだけれど、僕はこういった何処まで本気か分からない彼女の冗談に安心するのだ。その冗談に付き合ってみることにした。
じゃあ決まりねと言って、三日掛けて川を下って行ってみようと彼女ははしゃいでいた。
今夜は丁度新月。三日月の夜までに海へたどり着けなかったら戻って来る。それまでに誰かに会えるといいねと僕が言うと、きっと大丈夫だよと彼女は言って楽しげに笑ってくれるのだ。
完