はじまりのうた 終
外道スイッチ、ONです。
【天才】
そう呼ばれる少年が居た。天使の歌声だと、奇跡の御手とすら呼ばれた少年。私たちでは到底及ばない天性の才能を持った化物。
それが、私の弟。七原春香の弟。
でも、私は知っている。その声にタイムリミットがあることを、時間制限のある歌声だという事を。ボーイソプラノは、少年でしか出すことが出来ない。両親とも長身の家庭で、男である弟には抗う事の出来ない“声変わり”という変化が訪れる。
だから私は待った。小手先の技術だと笑われようと、ヴァイオリンを必死に練習した。他の二人だってそうだ。妹は指が痛くなってもピアノを弾き続けた。兄は朦朧とした意識でさえもトランペットを吹くことを止めなかった。
私たちは知っていたんだ、天才に終わりが来ることを。両親の愛を独り占めする、憎い弟が堕落する様を思い描いて、必死で練習した。
かくして時は来た。
弟に“声変わり”が訪れた。
笑った、嗤った、嘲笑った。
これでアイツは両親を開放する。天才の息子という檻から解放してくれる。ようやく、私たちに愛を注いでくれる。もう高校生になってしまったけれど、まだ間に合うんだ。お父さん、お母さん。
きっと兄と妹も喜んでいる。弟が潰れてくれた事に、消えてくれたことに感謝している。出来れば跡形もなく消えてほしいけれど、私はそこまで求めない。
予定調和の結果だ。当然の結果だ。弟、七原光輝は予想通り、歌う事を止めた。
それどころか、元“天使の歌声”と言われても分からない位に耳障りな声になっている。
ざまあみろ。
それがお前の贖罪だ。私たちから両親を奪った償いだ。
やっと、やっと私の心は安らいだ。
だと言うのに、今朝は声が聞こえる。
私が必死で消えるのを待ったあの声が、我が家に響く。泣いているのか、歌っているのか、悔しいけれど聞いていて耳が幸せだ。ああ、憎い。おぞましいほど憎い。
私は耳を押さえ、弟の部屋へ行く。兄妹も不思議に思ったのだろう、廊下で顔を合わせることになった。両親は海外公演に出かけている。母が昨日までいたのだが、夜にはカナダに出かけていった。三ヶ月は帰ってこないらしい。好都合だ。
もし本当に声が戻っていたら殺す。自殺に見せかけて殺す。喉を引き裂いて殺す。
そう決意して、私は弟の部屋の扉を開く。生唾を呑む音が聞こえる。私も、兄も妹も、奴の復活は望んでいない。そして、それが有り得ない事も知っている。それでも、と。思わずにいられなかった。
扉は開かれた。そこに、背が伸びて汚い声になった弟はいない。細く小さな、長い黒髪の女の子が居た。
泣いている。弟の声で鳴いている。こいつは弟だ。直感的に理解した。
だから私は、こいつを殺す事にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ぁ………ぐ………」
喉を絞められている。
さっきまで泣いていた涙は引き、今は恐怖が心を占めている。
姉が般若の如き様相で俺を睨んでいる。憎しみが目で見て分かるほどに。
兄も妹も止めない。固唾を飲んで現状を見守る。
何故……とは思わなかった。そうだろう、僕が羨んでいたことと同じように、彼女らも羨んでいたのかもしれない。この声に。あれ程の美しい音色を出すヴァイオリンの奏者であっても、この声が羨ましかったのだろう。兄も、妹も、きっと同じ。
一度失って、底に落ちたから分かる事。俺は、三人の事をあまり考えていなかった。なぜ女になって、あの声が返ってきたのか。
そんなことはどうでも良くなってしまった。きっと最後に、神様が声を聴かせてくれたのだろう。ありがとう、神様。これで、俺はもう死んでもいい。
だというのに、俺の喉を絞める手が緩む。姉が困惑している。さっきまでの憎悪に満ちた顔が消えている。泣いている。
「ぅえほっ! げほっ!」
「何でよ、何でそんな……顔で……殺されようとするのよ!?」
どんな顔だ。俺が知るわけないだろう。
「コウ兄……だよね? 何で殺されそうなのに笑ってるの?」
妹が静かに怒っている。手は握り拳をぎゅっと固めて、ぷるぷると震えている。自分も同罪だという意識はあるようだ。
「最後に、この声が聴けた。それだけで十分幸せだから」
本心だった。俺はもう満足したのだ。ほんの少しでも蘇ってくれた声を聴けたことに、心の底から満足したのだ。
妹が後ずさる。よっぽど奇妙な顔をしているのか、俯いたまま顔を見せようとしない。
「馬鹿だろ、光輝」
兄貴が無表情で俺を罵倒する。いや、憐れんでいるのか? どっちでもいい。殺すなら殺せ。俺にはもう心残りは無い。
「その姿、どうした?」
意外にも、兄貴は殺そうとしなかった。しかし、その視線には気持ち悪さを感じた。一見イケメンは兄貴も、きっと俺が歪めてしまったのだろう。酷く醜悪な顔で俺を見つめている。
「分からねえ、今朝起きたらこうなってた」
「声もか?」
「ああ」
兄貴は姉貴と少し話をすると、姉貴と妹が部屋から出ていった。分かっている。この兄が今までしてきた事を鑑みれば、俺がこれからどうなるのかは簡単に予想が付く。
まず頬に拳が、腹に蹴りが、髪を引っ張られベッドに放られる。痛みに悶える声も、理不尽に耐える声も、嗚呼、帰ってきた。それだけしか考えられない。嬉しくて嬉しくて、ずっと聞いていたくなる。
あの声を失って、あの声のCDを聴いた時よりも感動した。
それが兄に犯された喘ぎ声や悲鳴だったとしても、俺は声だけにしか意識を向けなかった。
へらへらと笑う俺に苛立ちを覚えたのか、行為中に何度も殴られた。何度も、何度も。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ふと目が覚める。ああ、俺は気を失っていたのか。何度か殴られた時に、気を失ったのだろう、途中から記憶が無い。
じゃらり。
どこからか鎖が垂れ下がっている。首から垂れ下がっている。太い鉄の輪が連なった鎖が、じゃらりと音を立てている。
首輪だ。それもベルト式じゃなく、ロック式の首輪だ。手で外そうとしても不可能なタイプだ。何度かエロ漫画で見たことがある。
服は着ていない。ベトベトとした液体が体にまとわりついている。一部は乾いて、ひっかくとボロボロと崩れ落ちていく。
「ここは……?」
周囲を見渡すと、特に目立つものはない狭い部屋。でも、見覚えがある。ここは地下だ。地下室にあるレコーディングルーム、その休憩用に作られた仮眠室。あの部屋から移動させられたのだろう、ここならいくら声を出してもバレないと。
壁にはめ込まれた姿見が目に入る。そこには体中に痣があり、綺麗だった顔もいくらか腫れて変形している、見るも無残な姿があった。
それでも、俺は死んでいないのか。
もういいよ、俺は死んでもいいよ。殺してくれていいよ。
もう良いんだ、満足したんだ。歌わなくても良い、声が返ってきただけで良い。
くしゃりと、赤くはれて変形した顔が歪む。泣いているのか。俺が?
何故? この人生にもう満足しているんだろう? 何故泣く?
「ぁ……」
不意に声が出る。声は変わっていない。あの頃のままの、美しい声。
歌う。
誰の為でもなく、何を求めるでもなく、ただ無垢な歌。
技術も錬度も関係ない、ただ好きに歌う。
俺が初めて歌ったうた。
誰かが作った、誰かのオリジナルのうた。
“はじまりのうた”
仮眠室の扉が開いている。歌に夢中で気付かなかった様だ。そこには見知らぬ男たちが沢山いた。この部屋では溢れるんじゃないかという程の人数。俺の歌を聴いて、耳を澄ましている。その中に、兄を見つけた。前に見た歪んだ笑みでは無く、姉の様な憎悪に満ちた顔だった。
まただ。俺は兄貴を傷つけた。無意識に、酷い程に。兄貴のプライドを抉った。
歌を止める。好きにしろ、と。目で兄貴に伝える。見知らぬ男性も、俺の裸体に興奮しているのか近寄って来る。
そこからの記憶は、また曖昧だ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
痣が増えている。体が上手く動かない。呼吸がし辛い。
それでも、俺の歌声は損なわれていないようだ。嬉しい。それだけで嬉しい。
きっとあの時俺が歌っていたから、痣が増えてるんだ。べとべとの体をシーツでぬぐう。
俺はもう歌わない方がいいだろう。それでも歌いたいと言う欲求が渦巻く。ほんの少しだけ、オリジナルのうたを歌う。天使の歌声としてデビューした時の歌。俺八歳の頃の歌。
泣き声が混ざる。おかしい、俺は泣いていない。誰かの泣き声が混ざる。それこそ綺麗な声、俺が天使の歌声なら、それは女神の声だろうか。
妹が、七原奏が入口に座り込んで泣いている。
「どうした?」
問いかけても涙を緩めてくれない。声は大きくなる。逆効果だったようだ。
じゃらり、と。体を動かすと同時に鳴る鎖。それを見て、奏は余計に泣いてしまう。
「大丈夫だ、これでいい」
「なに……がっ、ひぐっ……何が、いいの……よ」
「声さえあれば、何でもいい。何をされても耐えられる」
「そんな……そんなの……ぅぐ、ぇぅ」
「何で泣く? お前も望んでいた筈だ。声の戻った俺を、見殺しにした筈だ」
俺があの茶髪女を見殺しにしたように、お前は俺を見殺しただけだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……なさい」
泣きながら謝り続ける奏は、まるで子供みたいに丸まって。兄貴や姉貴みたいに歪み切っていないのだろう、だからこそ、こんなにも綺麗な声なんだ。でも、だからこそピアノを選んだ。俺と被る事を拒否した。賢い判断だ、俺が声変わりしたら、そのお鉢は奏に向かっただろうから。それでいい。
脳ある鷹は爪を隠す。
俺は馬鹿だったのだ、歌う意外に脳が無いのだ。
とっくに凡人道から、かけ離れてしまった。凡人王など望むべくもない。声が戻ったのだから、望む理由も無い。
泣き止んだ妹が、俺の鎖を外す。首輪は付いたままだ。
「首輪の鍵は、お兄ちゃんが持ってるから……ごめんなさい。シャワーの許可は貰ってるから、入ってきて」
奏からバスタオルだけを貰う。服は着るなと、暗に言っているのだ。
「お兄ちゃんからの伝言。『大学の連中はまた連れてくる、次はお前の同級生だ』だって」
「そうか」
好きにすると良い。この声がある限り、俺は壊れない自信がある。あるいは兄貴も分かってて喉を潰さないのだろう。いや、もう壊れているのかもしれない。声に依存している俺の精神は、とっくに壊れているのかもしれない。
シャワーから上がると、脱衣所には奏がいた。服を着替えてきたようだ。それはそうだろう、あんな男の精液にまみれた部屋の匂いが付くのは嫌だろう。タートルネックの薄手の黒地セーターに、白のレースが映えるキュロットスカート。大き目なキャスケットを被っている。どこかに出かけるのだろうか。いや、きっと逃げるのだ。このままでは奏まで襲われる可能性は捨てきれない。
いいさ、見殺してくれ。
けれど、奏は突如として脱ぎ始める。
「は? ちょ、何してるんだお前!?」
「これ着て」
奏の手には、さっきまで着られていた服が帽子も込みで一セットあった。靴すら脱いでいる。何を考えているのか。
「逃げて、今なら二人とも家に居ないから、逃げて」
「なんで……」
「お姉ちゃんもお兄ちゃんも、変なんだ。コウ兄が殴られて、犯されているのに、嗤ってるんだ。あんなの、私の知ってる二人じゃない」
そうだろう、あれは俺に向けられる増悪だ。お前は二人に警戒されていない。拙くとも将来有望なピアノの腕前は買っているだろうが、それだけだろう。両親の関心を占有する程じゃない。
「俺を、逃がしてくれるのか?」
「じゃないと、本当に死んじゃうよ!」
「そうか、なら……殺してくれ」
「え……っ」
奏の声が驚愕に染まる。逃がそうとした囚人が死を望んでいるのだ、当然かもしれない。ああ、俺は人を困らせてばかりだな。
「なんでっ」
「お前に殺してもらえるなら、それがいい」
「なんで……」
「あの二人は、俺を殺すために殺す。でも奏は、きっと助けるために殺してくれる」
あ、その場合殺人罪ってどうなるんだろう。奏が背負う事になるのかな? それは嫌だなぁ。
「やだよ、そんなの……逃げてよコウ兄!」
「はじまりのうた」
「……?」
「あの歌詞が、俺の遺書だ。それでいい」
あんなに優しいうたが、俺の遺書だ。俺の声でカバーしたCDもある。きっとそれで十分だ。
「……嫌だ」
「俺はもう良いんだ、満足したんだよ」
「嫌だよっ! コウ兄が死ぬなら私も死ぬ!!」
「俺を見殺した奏らしくないな」
「私は、怖かったんだ。卑怯なだけなんだ。お兄ちゃんとお姉ちゃんが、コウ兄のことを疎ましく思ってるのは知ってた。でも、これ程だなんて、思ってなかった……」
そうか。やっぱり、奏はそこまで壊れてなかったのか。それでも、きっとそのうち壊れる。このままだと、俺を殺したいと思い始める。きっとこれは、そのための時間稼ぎ。憎しみを育む為の時間稼ぎ。
「奏、俺を殺すなら……お前が殺してくれ。それまでは、生きるから」
奏の手から服を受け取る。タートルネックは、首輪を隠すための物だろう。気を利かしてくれたものだ。
初めての女装。でも、何故か違和感がない。きっと今さっきまで、数日間は裸だったせいだろう。身に纏う布地が懐かしく感じる。暖かい。
「いやだよ、コウ兄は生き抜いてもらうんだ」
「奏はどうする? このままだと、お前が二人の餌食だぞ」
「大丈夫! もうオーストラリアの友達の家まで高跳びの予定なんだ! 二人とも知らないネットで知り合った音楽仲間だよ!」
「用意良いな……」
「あれから、もう一週間経ってるんだ。それくらいは当然だよ」
「そうか、そんなに経っていたか」
「コウ兄、生きてね」
「お前が殺してくれるまで、生きるしかない」
「そっか、じゃあ私が死ぬまでずっと生きてるね」
二人で笑い合う。天使と女神の笑い声が、精液の生臭い匂いが立ち込める地下室に響く。
俺は、家を逃げ出した。路銀は十分にある、親が貯めていた俺の金は十分に残っている。
俺も海外の友人を頼ろうかと思ったが、パスポートと違いすぎるせいで出国はできそうにない。ならば、せめて両親が帰って来る三ヶ月間は逃げ延びなくては。
まずは県外に出る。家のある東京都新宿区から出て、名古屋にでも行こうか。新幹線の切符を買って、少し待った後に来る新幹線に乗り込む。さようなら東京、さようなら姉貴、兄貴。俺は生きるよ、奏に殺してもらうまで。意地でも生きてやる。
新幹線が動き出す。人生で初めての旅だ。公演以外での、目的地の無い旅。
不意に思い出される歌。
はじまりのうた。
新幹線の座席に座って、小さめの声で、歌う。
「はじまりのうた」編はこれにて終りです。
「はじまりのうた」自体気になっている人がいるかもしれませんが、ぶっちゃけ作者も考えていません。ただ、漠然と、優しさや感謝を盛り込んだ曲だと考えています。
ちなみに作者は、アニメ琴浦さんのED「希望の花」を聴きながら書いています。
あんな感じの曲だと思っていただければ、いいかなって。