第二話 -始まりの朝-
朝。
昨日と同じく、素晴らしい小春日和が京都の町に訪れた。
チュンチュン―――と高い声で鳴くスズメの鳴き声が、流亜の脳に朝を告げる。
自室のベッドで眠りについていた流亜は、その天然の目覚ましを耳にして、徐々に目の中に光を受け入れていった。
「……朝か」
布団の中から顔だけ出してカーテンからの木漏れ日を確認すると、流亜はそのまま大きく背伸びをすると、まだ少しぼやけている天井を呆けながら見つめた。
思いの他よく眠れたものだと内心驚きつつ、流亜は怠惰に体を預ける。朝のこの一時が、彼女にとっては密かな至福だった。
いつもなら、このまま十分ほどボーっとしているのだが……今日はそうも行かなかった。
突然目を見開き、ガバッ! という効果音が付きそうな勢いで飛び起きる。
次に、布団に掛けていた両手で自身の上半身を撫でた。
だがいくら撫でても、そこにあるべき感触を感じる事はなかった。
つまる所彼女は今、生まれたままの姿だったのである。
彼女は服を着ていると眠れない性質であるため、朝のこの光景自体は何ら不思議なものではない。普通ならば。
蘇るのは、昨日の昼に起きた出来事。
あの後、亡くなった母の遺言で彼女の前に現れた「使い魔」兼「家政夫」を名乗る狼少年は、流亜からの怒涛の質問(と言うより詰問)ラッシュを涼しい顔で受け流すと、いきなり昼食を作り始めた。
有り合わせの野菜やら豚肉やらを炒めただけの簡単なものだったが、それはそんじょそこらの店のちゃんとした料理よりよっぽど美味かった。
それまで怒鳴り散らしていた流亜も、一口で黙ってしまったほどだ。
その後は……思い出せない。
確か前日までの疲れなどもあり、そのまま寝てしまった気がする。
現在時刻は朝の七時三十分。こんなに寝たのは生まれて初めてだ。
だとしたら彼女は今、昨日直前まで着ていた「制服」を着ていなければいけない筈だ。
いくら記憶を辿っても、服を脱いだ記憶は一切無い。
つまり――――
「あんの狼男が……っ!」
ふつふつと沸いてくる怒りを何とか押さえ込みつつ、流亜は綺麗にアイロンがけされ壁に掛けられた制服を乱暴につかみ、急ぎ足で着替え始めた。
■ □ ■ □
ダンダンダン! と大音響を鳴らしながら階段を下りる音に、リビングの傍にあるキッチンにいた少年「ジン」は首を傾げた。
まだ早朝と呼んでいい時刻だ。彼の現在の主人である流亜が急ぐ様な時間ではない。
いつも通りに眠たげな青い瞳を丸くしていると、バン! と乱暴な音と共に、流亜がリビングに入って来た。
彼女が通っている魔術学校の制服を着ており、白く細い足は紺色のニーハイソックスで覆われている。
顔は赤く上気しており、かなり急いできたのか肩で息をしている。
表情を見ると、理由はともかく非常にご立腹の様だ。
「お早うございます、流亜様」
「お早うございます、流亜様……じゃない!」
ニコリと微笑み挨拶を交わすジンに、流亜は怒鳴り散らした。
そのまま強く床を踏み、ジンの隣まで歩み寄って来ると、キョトンとしているジンをにらみつける。
「お前……昨日何した?」
「昨日、ですか?」
ジンは視線を天井へ向けると、考え込む様に目を細めた。
やがてハッとした様に目を見開き、再び視線を流亜へ戻す。
「昼食の後に流亜様が眠ってしまわれたので、そのままお部屋へと連れて行きましたけど」
「そう、それで?」
まるで悪戯をした子供に説教するような口調で、流亜は話の続きを催促する。
「流亜様があまりに気持ちよさそうに眠られていたので、夕食時に起こす事もしませんでした。
その後は仕事を済ませ、私も此処のソファで眠らせて頂きましたよ」
「……それだけか?」
淡々と事実を述べるジンに、流亜は強い口調で言う。
対するジンは、訳が分からないと言った様子で首を傾げた。
「それだけ、とは?」
「だから、その……」
頬を赤く染めてしばし口篭った後、再びキッとジンを睨んだ。
「ふ、服を、だな」
「服……?」
そこで、ようやくジンは納得した様に「あぁ」と漏らす。
「はい。あのままでは制服が皺になってしまいますし、制服では寝辛いと思ったので。それが、何か?」
「それが、何か? じゃない!」
呆然、とは正にこの事だ。
ジンは怒鳴られた理由が分からず、目を丸くしている。
対する流亜は割と大きめの胸を隠すように両腕を組み、赤い頬を更に紅潮させながら間髪いれずに追撃する。
「よくもまぁ「家政夫の仕事」に託けて妙な事をしてくれたな! この変態肉食狼!!」
「ご心配なさらなくても、決して性的行為は行っておりませんが?」
「服を脱がせる事自体立派な性的行為だ!」
「でも俺、家政夫ですから」
「どんな言い逃れだ! それで済むなんて全国の奥様方に知れたら誰も家政夫雇わなくなるわ!」
こんなに怒鳴ったのは久しぶりだった。
軽い息切れを起こしながらも、流亜は睨む事を止めない。
しかし「蛇に睨まれた蛙」ならぬ「蛇に睨まれた狼」は、尚も涼しく微笑んで見せた。
「しかし、御法様から頂いた流亜様の情報の中に『流亜は裸じゃないと寝られない痴女だからよろしくね(はぁと』と言うものもありましたので」
「誰が痴女だ誰が! って……母さんが?」
「えぇ、確かに」
その時流亜は、生まれて初めて母親にかすかな殺意を抱いたと言う。
と言うか、御法の中で『(はぁと』は密かにブームだった様だ。
「それより、もうすぐ朝食が仕上がります。
早く召し上がられたの方が良いのでは?」
「……まぁ、そうだな」
もう怒鳴る気力も失った様に流亜は溜息交じりに呟き、椅子に座る。
今日から彼女は実に四日ぶりに「学校」へ行く日だった。
担任に昨日その旨を伝えた時、もう少し休んでも良いぞ、と勧められたのだが、周囲の人間に心配をかけるわけには行かないと、半ば強引に登校を決めたのだ。
(四日ぶりか……皆、どんな顔するかな)
そんな事を考えていると、焼き魚の良い匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。
気が付けば彼女の前には、鮭の焼き魚やサラダ、米と言った朝食セットが並べられている。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
春の日差しの様にやわらかく微笑むジンに言われ、流亜は手を合わせ、鮭を一口ほうばった。
鮭本来の味に、決してそれを邪魔せずに旨味を更に引き出す絶妙な醤油加減。
昨日の昼食に引き続き、それも絶品だった。
自分の「使い魔」となっていなかったら、定食屋を開いていても十分儲かっただろう。
驚くほど箸は進み、ものの数分足らずてそれを完食する流亜。
その様子を見て、ジンはただただ微笑んでいた。
この笑顔を見ていると、「本当にこの少年は狼なのだろうか?」と流亜は思ってしまう。
そしてそれは、どこか亡き母のそれに似ている気がする。
「……流亜様?」
「え? ……な、何だ?」
声を掛けられ、流亜は少しどもった後曖昧に微笑んだ。
「どうでしたか? 味の方は」
「あ、あぁ。うん、美味かったぞ」
それを聞くと、ジンは子供の様な満面の笑みを浮かべる。
「良かったです。お口に合わなかったらと、少し心配していたので」
その笑顔に、何故か流亜は頬を赤く染めた。
この少年といると、どうもペースが狂ってしまう。
決して嫌悪を覚える様な相手ではない。むしろその柔らかな物腰や料理の腕もあり、好感を持てる相手だ。
とにかく、今はこの少年から離れたい。
この少年といたら、自分はもっと狂ってしまう。
不安にも似た感情にかられ、流亜はおもむろに立ち上がると、リビングに置いてあるカバンを手に取った。
「わ、私はもう学校へ行く。留守は任せたぞ」
「はい。行ってらっしゃいませ、流亜様」
自分の心境を知ってか知らずか、尚も微笑みを絶やさないジンから逃げる様に、流亜はその場を後にした。
そのまま駆け足気味に玄関へ行き、スニーカーを履く。
(何を焦っているのだ、私は……)
「……馬鹿馬鹿しい」
誰に言うでもなく呟き、スニーカーを履き終えた流亜はそのまま右手でカバン引っ掴み、そのまま一気に外の世界へと飛び出す。
もやもやした自分の心とは裏腹に、憎たらしいほど晴れ渡っている空をしばし睨むと、流亜はそのまま「京都魔術学校」へと駆けていった。