すーぱぁお母さんの音楽会(9)
(17)
次の日、私は松戸家の奥さん──アカシアさんと一緒に病院に出掛けた。清次郎さん達は、月曜日で仕事や学校があるからだった。
病室を訪れると、瑤子はすでに起きていた。ベッドで半身を起こし、自分でプリンか何かを食べているところだった。
「すごいな。もう起きられるようになったのかい」
私は昨日までの現状を知るだけに、感嘆の声を上げた。
アカシアさんは、担当医と思しき男性と話をしていた。
「昨日最後に投与した、ナノマシンとアミノ酸添加剤の効果が大きかったようです。今朝は自力で起きたので、言われた通り栄養のある柔らかいものを食べさせています」
担当医はこう報告していたが、私にはさっぱり分からなかった。
「フムン。経過は良好の様ね。明日には立って歩けるようになるでしょう。今日は、点滴は四時間毎に。処方はこれの通りに」
白衣の男は、アカシアさんからメモのようなものを受け取っていた。
しかし、こんな大きな病院の専門医を顎で使うとは、彼女は一体何者なのだろう?
「分かりました。リハビリはどうします?」
「特に要らないでしょう。ナノマシンのプログラムに、それ的なモノを入れておいたから。ありがと」
「光栄です」
大の男が、これだけで敬服してしまうとは……。少なくともこの医師は、アカシアさんをそうとう敬っているようだった。
「灘さん、こっちに来てもいいわよ。彼女とお話したいんでしょ」
私は、驚きで入口に立ったままだったことに、ようやく気が付いた。言われるままにベッドの横に近寄ると、瑤子を見つめた。
私に気が付いた瑤子は、例の瞬きの挨拶をしてくれた。
「これ、忘れてるわよ」
そう言って、アカシアさんは例のサポーターのような機械を、私に手渡してくれた。
これは、思うに瑤子の脳波を受信して、私が解るように変換してくれている翻訳機械のようなものなのだろう。私は、受信機を受け取ると、昨日のように左手に巻いた。
(先生。また来てくれて嬉しいわ)
「瑤子、調子はどうだい? しんどくはないかい」
(ええ、大丈夫よ。こうやって自分で食べたりもできるようになったのよ。以前は出来なかったお話も、こうやってできるようになったし。嬉しいことばかりで、何だか天にも登りそうよ)
「おやおや。まだ天国に帰ってもらっては困るよ。君にはステージが待っているんだから」
(そうね。おっしゃる通りだわ)
瑤子はそういって、微笑を浮かべた。彼女の笑った顔を見るのは何年振りだろう。実際には一年ちょっとしか経っていないはずなのに、そんな思いがした。
私が瑤子とこんなやり取りをしている間、アカシアさんは、医師にメモや何かの薬剤のような物を手渡し、色々と支持を与えているようだった。……私には何のことかさっぱり分からなかったが。
瑤子は時折、歌の一部分を囁くように口ずさんだりしていた。脳細胞に直接書き込んだというのは、本当のようだった。
「さて、あまり話していても、彼女を疲れさせちゃうから、これくらいにしておいて」
そう言われて時計を見ると、もう三時を過ぎていた。彼女との『会話』は、本当に時を忘れてしまうようなものだった。
(明日も来てくださる?)
「もちろんだとも。今日はゆっくり休んで、明日からレッスンだよ」
(はい)
「じゃあ、また明日」
(また明日)
そう言うと彼女は、例の瞬きでお別れのサインをしてくれた。
「じゃあ、一旦家へ帰るわよ」
「分かりました」
私はそう応えると、腕の受信機を外した。部屋を出るときに振り返ると、彼女はベッドの上で手を振ってくれていた。私も手を振ると、その日はアカシアさんと一緒に松戸家に戻った。
(18)
翌日からレッスンを始めようと、私は考えていた。脳内に記憶していると云っても、実際に『その通りに歌えば良い』というものではない。
楽譜に自分なりの解釈をつけて、芸術へと昇華させることが必須となる。
できればピアノ伴奏でやりたかったが、ここは病院である。贅沢は言えない。
「ピアノかぁ~。ん、何とかしてあげる」
その事を相談すると、一緒に来ていたアカシアさんがそう言った。何かあてがあるらしい。
病室に着いて扉を開くと、瑤子は駆け寄ってきて私に抱きついてきた。
「瑤子、もう歩けるようになったのかい」
驚いた私は、思わずそう言った。
改めて例のリストバンドを装着すると、瑤子はすぐに話しかけてきた。
(先生また来てくれてありがとう。見てみて、わたし歩けるようになったのよ! 何だか世界が急に広がったみたい。素敵、凄く素敵だわ。先生ともこうやってお話できるようになったり。わたし、今、凄く幸せな感じがしているの)
「おいおい、そんなにいっぺんに話しかけられると、混乱してしまうよ。少し落ち着いて」
腕から脳へ大量の情報が流れ込んできた所為で、私の頭は一瞬混乱してクラクラしてしまった。
(ごめんなさい。だって、凄く嬉しかったんだもの。そうだわ! 歌、わたし歌いたいの。ああ、でもどうしたらいいのかしら。ああ、先生、どうしましょう)
口がきけなくてサインと身振りだけの時しか知らなかったが、瑤子も本当は同年代の少女と同じように、多感でお喋りであることを、私は初めて知った。
「大丈夫だよ、松戸さんが何とかしてくれるそうだから」
(本当に? ここは病院だから、あまり大きな音はたてられないわ。どうするんでしょう? そうだ、屋上なんかはどうかしら。風が気持ちいいでしょうね)
「おいおい、屋上はだめだよ。風にあたったら、身体を冷やしてしまうよ」
(そうね……。じゃぁどうするのがいいのかしら)
こうして瑤子と時間を忘れて話していると、松戸さんが帰ってきた。
「即席だけどスタジオを用意したわよ。ピアノまでは用意できなかったから、キーボードを用意したわ。当面はそれで我慢してね」
こんな病院の中にスタジオを用意するなんて、いったいどうやったんだろう? 色々疑問は残るが、ここは松戸夫人のご厚意にすがることにしよう。
(ええ、あの人が言うんだから間違いないわ)
私の考えを読み取ったのか、耀子がそう応えた。
彼女は私の手を取って、松戸さんの方へ私を導いた。
「じゃ、行こっか」
松戸さんはそう言うと、廊下を通って私達を病室からそれほど離れていない区画に連れて行ってくれた。
──そこには、見覚えのないドアがあった。
この廊下は、私も何度か通ったことがあるが、こんなところにドアなんてあっただろうか? なんとはなく、私は違和感を覚えたが、招かれるままにそこへ近づいた。
ドアを開けると、何かの薬品の臭いが微かに異臭を放っていた。
「あまり大きくない部屋だけど、内部に防音コーティングをしたから、どんなに騒音をたてても大丈夫よ」
「瑤子の歌は騒音じゃない!」
通常とは違う何かを感じ取っていたからだろうか。私はいつになく感情的になって、そう言ってしまった。
「ああ。そうだったわね」
松戸さんは、クスリと口の端で笑うと、そう言った。
「伴奏はあたしがやらせてもらうわね。さぁて、指揮者と歌い手さん、よろしくね」
私の言葉など全く意に介していないように、彼女はそう言った。
瑤子も微笑を浮かべると、松戸さんにコクンとお辞儀をした。
「では、始めるよ。まずは最初からだ。松戸さん、伴奏をお願いしますね。瑤子は、準備はできてるかい?」
(大丈夫です)
「では、始めようか」
こうして、私たちのコンクールへ向けてのレッスンが始まった。