すーぱぁお母さんの音楽会(11)
(21)
翌日もレッスンは続けられた。
瑤子は脳内に歌を記憶しているためか、みるみる上手になって行った。伴奏の方も、驚異的な速度で瑤子に合わせてくれている。歌としては、もうほとんど完成している。だが残りのあと少しが無ければ、完成とは言えない。それに一歩でも近づためのレッスンだった。
「よし、少し休憩しようか」
私は二人にそう言って、指揮棒を置いた。
コンクールまであと三日。この短い期間で完成させることができるだろうか……。
私は焦っていた。レッスンは厳しい。その厳しさに、瑤子はよく着いてきている。だが、彼女の生命はそれまで保つのだろうか?
私は、命がけのレースをやっているような気がしていた。
彼女を生かさず殺さずのこの環境中でレッスンの真似事なんかをやっていて、果たしてコンクールの当日まで瑤子の体が耐えられるのだろうか?
だが、私がこんな中途半端なままでは、ますます曲は完成から遠退いてしまう。私も『覚悟』をすべきなのだ。
(ええ、大丈夫ですわ。わたしも覚悟は出来ています)
私の考えを読み取って、瑤子の意志がそう応えた。
傍らで見ているアカシアさんの瞳が、時折金色に見えるのは気のせいなのだろうか。もしかしたら、瑤子がこの厳しいレッスンで未だ生命を落としていないのは、彼女が側にいてくれているからかも知れない。私は、何となくそう感じた。
その日の夕方、また清次郎さんが、迎えに来てくれた。
「今日は仮縫いです。お二人とも、少しお時間をくださいね」
清次郎さんは大きな包みと、ガーメントバッグを持っていた。
「ではお嬢さんの方から先に着てみてください。私たちは後ろを向いていますので。おい、お前、手伝ってやってくれ」
清次郎さんの言葉に、女性二人は背中の向こうで何かゴソゴソとやっている音が聞こえた。
「オーケイ。ほうら、お嬢ちゃん。すてきなドレスでしょう」
(本当にステキだわ。もう出来たんですね)
「いや、それは仮縫いだよ。今日合わせてみて、不具合のあるところを直すのさ」
清次郎さんは、私と一緒に後ろを向いたまま、そう言った。
「さあて、こんなもんかな。あなた、ちょっと見てみて」
奥さんの声がかかると、清次郎さんは振り返った。
「分かった。灘さんはその間に、タキシードを試着しておいてください」
彼はそう言いながら、ガーメントバッグを私に渡してくれた。
私が着替えている間、清次郎さんとアカシアさんは、瑤子のドレスをチェックしていた。
「すその丈は、ちょっと直しね」
「ああ。襟ぐりはこんなもんでよかったかな?」
「う~ん、ちょっとだけ修正ね。3ミリくらいかな」
「わかった。気にしてるようだから、手袋は三種類用意してきた。どれがいいと思う?」
(どれって、どれもすてきです。ああ、迷ってしまうわ)
「フムン、やっぱり肘まであるやつよね。飾りのレース、もう少し細かくできない?」
「やってみよう」
「ちょっと鏡見てみようかぁ。どう?」
(わぁ、すごくきれい! こんなの私が着ちゃっても、いいんですかぁ)
「いいのよ。本番ではねぇ、髪をこんな感じにするのよ。どう、もっと素敵になるでしょう」
(本当、なんか大人っぽくなりますね)
私が着替えを終えて、彼女達のところへ行くと、瑤子が話しかけてきた。
(先生、先生! 私のドレス、どうですか? 変じゃないですか?)
「ああ、すごく似合っているよ。胸やお腹のところは苦しくないかい? 声楽では身体が楽器だからね。違和感があれば、ためらわずに言ってごらん」
(ええ、どこも苦しくないわ。ぴったりよ)
「念のため、お腹のところは、少し伸縮する素材に変えておきましょう。さて、次は灘さんの方ですが、いかがですか?」
私は、自分の燕尾服姿を鏡に映してみた。
「ほう、なかなか似合ってんジャン、先生」
私の正装を見て、アカシアさんが近寄ってきた。
「少し、肩を直した方がいいな。袖の長さ合っていますか?」
私は両の腕を見てみた。
「ぴったりのようです」
「シャツとズボンはどうです?」
「ちょっと、お腹のところがゆるいみたいです」
「わかりました。少し詰めますね」
(先生もすごく似合ってますわ)
瑤子に言われて、私は鏡をまじまじと見てみた。似合ってるのかな?
(ええ、すごく。先生すごくステキです)
私は柄にもなく、少し赤くなってしまった。
「大人をからかうもんじゃないよ、瑤子」
(からかってなんかいませんわ。本当に本当に、似合ってますもの)
そういったやり取りをしながら、仮縫いが終わった。
「じゃぁ、タキシードとドレスは、前日までに私の方で仕上げておきますね」
(ありがとうございます)
「さぁさ、今日はもう遅いから、この辺で。無理をしすぎて、当日、歌えなくなったら困るからね」
アカシアさんがそう言ってくれたので、今日のレッスンはこれで終えることにした。
(22)
レッスンは、コンクール前日の昼過ぎまで行われた。
私としては、出来るだけの事はやったつもりだ。歌はもうほとんど完璧に近い。あとは本番を待つばかりだ。
そして、レッスンが終わったころ、清次郎さんがこう提案してくれた。
「今日は、瑤子さんも家に泊って行きませんか。食事とかお風呂とか、病院ではまかないきれないところがありますから」
「そうねぇ……。それはいい考えだわね。お嬢ちゃん、今日は一緒にお風呂入ろ。ピッカピカに磨いてあげるからね」
(え? いいんですか。お医者様の許可が下りるでしょうか?)
瑤子が心配そうにしていると、
「もう許可はとってあるよ。今晩は、家でゆっくりしていきなさい」
と、清次郎さんが、瑤子の身の回りの物を片付けながら言った。
(本当にいいんですか? わたすなんかのために)
「いいのよ。もう、いっぱいお世話しちゃうんだから」
(ありがとうございます)
「ああ、本当にありがとうございます。私達のためにそこまでしてくれるなんて……」
私は感激して、言葉に詰まってしまった。
こうして私たちの最後の夜は、松戸家で迎えることになった。
私達が松戸家に着いたのは、午後五時ごろだった。
「さぁ、すぐ夕食にするからな」
清次郎さんはそう言うと、キッチンに向かった。
ここに来てからずっとお世話になっているが、松戸家の食事は清次郎さんが作るものらしい。奥さんのアカシアさんは作らないようだ。それとも作れないのかな?
私が不思議そうに二人を見比べていると、庄之介君がこう言ってくれた。
「お母さんは食事を作っちゃいけないんだよ。ちょっと事情があってね。まぁ、その事情ってのも秘密なんだけれど」
よく分からなかったが、この家では、これが常識らしい。清次郎さんの作る料理は、プロ並みに美味しいので、別に文句があるわけではないが。
今夜の夕食は、何風と言うか、……栄養士が考えた献立を究極に美味しくしたようなものだった。薬膳ともちょっと違うが、すごく美味しかったし、身体にもよさそうだった。
「どうだい、瑤子さん。家の夕食は?」
輝久君が瑤子に感想を求めた。
(とっても美味しいです。こんなに美味しい夕食を食べたのって、初めて!)
「そうかい。よかったね」
私は瑤子が喜ぶのを、わが子の如く嬉しく思った。思えば、この歳まで結婚もせず、声楽一筋だった私には、瑤子は本当の娘のようなものだったかも知れない。
食事が済んで、しばし団らんの時間を過ごしていると、
「みんな、お風呂出来てるからな。順番に入ってくれ」
と、清次郎さんの声がした。
「じゃぁ、最初はあたしとお嬢ちゃんで入ろう。おいで、ぴっかぴかに磨いてあげるからね。その辺の男ども、覗くんじゃないよ」
「そんなことしませんよぉ」
「大丈夫、輝兄ちゃんは僕が見張ってるから」
「うんうん。庄之介はいい子だね」
母親の褒め言葉に、庄之介くんは、満更でもないという顔をしている。
「はははは」
そんな何気ないやり取りが、団欒を生んでいた。
これが家族というものなのだろうか。私は、はるか昔に味わっていたかもしれない雰囲気に、少し感傷的になった。
(こんな人生もいいものかも知れない)
「次、灘さん入ってください」
「あ、はい、分かりました」
そう言われて、私もお風呂を頂戴することにした。
鏡を見ると、少し無精ヒゲが伸びているのが見えた。折角だから剃っておくか。
風呂から出ると、おじいさんに出くわした。
「お、ヒゲは剃ったのかい?」
「あ、ええ。ちょっとは男前になるかと思って。……なんて、歳がらもないですね」
「いんや。結構結構。明日は最後の決戦じゃ。心してな」
「はい、ありがとうございます」
そうだ。明日で私と瑤子の価値が決まる。
コンクールの前夜、私から迷いは消えていた。