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すーぱぁお母さんの音楽会(10)

        (19)

 遂にレッスンが始まった。


 防音設備は、アカシアさん──松戸夫人が言っていたように大丈夫らしかった。

 伴奏も、キーボードを使った割には、よく調整されている。驚いたのは、片手間に弾いているようにしか見えないのに、ちゃんと私の楽譜通りの伴奏になっていることだ。一小節毎にキーボードに登録してあるのかもしれないが、それすら、この短時間で行うのは驚異的である。

 私が驚いている間に、瑤子(ようこ)の歌が始まった。ソプラノ領域からアルトへ、水面を木の葉が滑るように音が流れていく。言葉は発声できないので、「アー」や「オー」とかの音声だけで歌を組み立てていく。


 序盤を少し過ぎたあたりで、滝が流れ落ちるように、超高音から低音までを小刻みなリズムを刻みながら瑤子の声が下ってゆく。それとは逆方向に伴奏が登ってゆく。

 私は指揮棒を振るのを止めると、

「そこは、もっと音を刻んで! 松戸(まつど)さん、そこの伴奏は、もっと早めでお願いします」


「うぃ~すっ」


 私が、少し眉間にしわをよせて睨んだためか、彼女はそっぽを向いて舌を出していた。

「じゃ、一小節前からもう一度」

 伴奏が始まり、瑤子の声が高音から低音へ音を刻んでゆく。フム、なかなかよろしい。伴奏も私の要求通り──いや、それ以上に的確なものになっている。もし、先程の瑤子の歌い方であれば、この伴奏には着いていけなかったに違いない。

 私は、改めて彼女達の──松戸夫人のテクニックと音楽センスに驚いていた。


「よし。それでは、ここで少し休憩をしましょう」

 私達がレッスンを始めて、二時間くらい経つ。病み上がりの瑤子には負担が大きいだろう。最初は、休み休み行わなければ。


「じゃぁ、あたしは、何か飲み物をもらって来るね」


 そう言って松戸夫人は部屋を出て行った。

 私は、部屋の隅に置いてあった椅子に座りこむと、大きく伸びをした。まだ二時間足らずだが、こんなにレッスンに没頭したのは久しぶりだった。


(素晴らしい曲ね、先生。でも、初めてなのに張り切りすぎちゃいました。少し疲れましたわ)


「そうだね。先生もだよ。あんまり久しぶりだったから、歳も考えず、つい、張り切ってしまった」


(あらあら、先生はまだ、そんなお年寄りでは無いはずだわ)


「そうかい? ありがとう」


(あら、本当にお世辞ではないのですよ。先生は、凄く若々しく見えますわ)


「そうなんだ? ……実をいうと、先週まではヨボヨボだったんだよ。松戸さんのところで養生させてもらったからかなぁ」


(そうなんですの? わたしも元気にしてもらったし……。不思議な方達ですわね)


「そうだね」

 私は改めて、松戸家の面々を思い浮かべてみた。あの人達との邂逅がなければ、瑤子に歌ってもらうなど不可能だっただろう。


 しばらくすると、松戸さんが帰ってきた。


「はい、喉にいいものをもらって来たわ。どうかしら?」


(ああ、おいしい。喉が潤っていくようです。ありがとうございます)


「本当だ。すごくおいしい」

 一見スポーツドリンクのような外見を裏切って、飲んだものは何とも言えない味わいと潤いを兼ね備え、なおかつ再び力が漲ってくるようなものだった。


「おそまつさま。……どうする? もう少し続ける?」


 アカシアさんの問に、私は思っていた事をそのまま話した。

「はい。もう少し続けましょう。できるだけのことはやっておきたいので」


(わたしも、もっと練習したい。だって、初めて大勢の人達に聴いてもらえるのですもの)


 瑤子も私も、レッスンを続けることを望んでいた。

「もう少し休んでから、レッスンを再開しようと思います」


「オーケイ。じゃぁ、あたしはキーボードの調整をやってるから、始めるときに教えてね」


「分かりました」

 こうして、私達は夕方近くまで、レッスンを続けたのだった。



        (20)

 夕方近くに、清次郎(せいじろう)さんが迎えに来てくれた。

「どうです。レッスンは進んでいますか?」

「ええ、とても順調です」

 瑤子は少し髪を整えると、清次郎さんにお辞儀をした。

「では、ちょっとだけ時間をください。採寸をしますので」

 私は少し訝しんだ。

「採寸って、何をですか?」


「決まってるじゃないの。晴れ舞台なんだから、ドレスを着なきゃね。女の子のあこがれよ」


(わぁ。私、ドレスを着られるんですか? すてき。すごい、すごいわ)


「でも採寸って……。あんたなら、見ただけでスリーサイズなんて分かっちゃうはずじゃないの? 何、姑息なことをやってんのよ」


(えっ? そうなんですか? わぁ、女の子の敵だわ)


「そうでしょ、そうでしょ。この人、見かけによらずムッツリスケベなんだから」


 夫人の攻撃に、松戸氏は、若干狼狽えているように見えた。

「なにも、こんなところでバラさなくってもいいだろう。お前のドレスも、ちゃんと作ってやるから」

 この言葉に、私は思わずこう言ってしまった。

「えっ? 清次郎さんが作るんですか? ドレスを? しかも、あと三日くらいしかないのに、二着も」

 たしか、彼は普通の会社員をしていると聞いている。こんな短期間で、しかもプロでも不可能に近いドレスを二着も同時作成なんてことが、可能なのだろうか。私はびっくりしてしまった。

「三着ですよ。あなたのタキシードも必要でしょう」

「それはそうですが……」

 そんな短期間に三着もの晴着を作れるとは、私にはちょっと信じられなかった。しかも、昼間はお仕事があるはずだ。有給でもとったのだろうか?

 そんな私の考えをよそに、瑤子は松戸夫婦と三人でスケッチブックを囲んでいた。

「こんな感じでどうだ?」


(わぁ、すてき)


「この裾のあたり、もう少しフリル入れられない?」


「フリルか。じゃあ、こんな感じかな?」

 清次郎さんが、スケッチを書き直しているようだった。

「色は何色にしようか?」


「そうねぇ……白、いや、赤かなぁ。……やっぱピンクか」


(どうしましょう。迷ってしまうわ。……でも、腕や肩を出すのは恥ずかしいわ。注射の痕もあるし。それに病み上がりで肌の色もよくないから、ピンクはどうかしら?)


 瑤子には初めてのことなので嬉しい半分、自分がずっと寝たきりだったのを気にしているようだ。


「そんなことを気にすることはないのよ。あたしが、肌つるっつるにしてあげるから。それから、髪型はねぇ、こんな感じで……」


 そう言って、アカシアさんは、スケッチに髪型を描き加えた。しかも、ものすごい速さで。見る見るうちに、写真のような細密画が出来てゆく。

 思えば、清次郎さんのドレスのスケッチも、写真のような出来だった。どちらも瑤子に似合いそうだった。

「じゃあ、試しにピンクでデザインしてみるか。……ええと、こんな感じかな。気にしているようだから、手袋は肘までの長さで。肩は出すのでいいんだな」


「背中もよ」


「分かった。で、髪型がこうで……。この部分はレースの髪飾りかな」


「そうそう。いけてるジャン」


(わぁ、キレイ。すごくステキだわ。……本当にこんなドレスを着ても、いいのかしら)


「いいに決まってんじゃん。結婚式の次に大事なことよ」

 五分もしない間に出来上がったスケッチは、あまりにも細密で、実際に瑤子が着て前撮りをしたようだった。すごくきれいで、よく似合っていた。


(凄いすごい。先生も見て見て! わたし、こんなドレスを着せてもらえるのよ)


「ああ、見えてるよ。すごく似合っている」


「そうでしょ。あんた、お嬢ちゃんのにばかり手をかけて、あたしの分を忘れないでよ!」


「ああ、分かった。分かったから」

 どうもこの二人の力関係は、夫人の方が上のようだった。清次郎さんは婿養子(・・・)だど聞いてはいたが、その所為かも知れない。


 結局、そのあとはドレスの話で終わってしまった。だが、初めてのレッスンにしては、上手くいった方だろう。

「さぁ、今日はこれくらいにしておこう。まだ病み上がりなんだから、無理はしないようにね」

 清次郎さんがそう言った。時計を見ると、もう七時を過ぎている。思ったよりも長くかかったらしい。

「あ、これを忘れるところだった。はい、どうぞ」

 清次郎さんはこう言うと、瑤子に紙袋を渡した。


(わぁ何ですか? あ、お洋服だ。ありがとうございます)


「レッスンをするのに、ずっと着た切りの寝巻じゃ、困るだろうと思ってね」

 そうだった。瑤子は、今日ずっと寝巻にカーディガンを羽織った姿でレッスンをしていた。改めて見ると、布が汗でくっついて、身体の線が見えかけている。


(やだ、先生。そんなに見ないでください。……はずかしいわ)


「ああ、ごめん。先生も気が付かなくて悪かった」


「じゃぁ、今日はここまでね。あたしのお薬ちゃんと飲んどくのよ」


(わかりました。今日は、ありがとうございました)


 瑤子はそう言うと、私と並んで、レッスンに使っていた小部屋を後にした。

 そして、病室に戻ると、(また明日)と言って、別れた。


 帰り際に、自分がタキシードを着ている姿を想像した。

 歳がらにもなく、『格好良く見えるといいな』、と思った。




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