流れ星管理局、今夜も残業です
流れ星は、自然現象ではない。
少なくとも、地上の人々が「願い事をするための流れ星」と呼んでいるものについては、そうだった。
夜空のずっと上、雲より高く、人工衛星より少しだけ遠いところに、天象庁第三局流星運用管理課――通称、流星管理局という役所がある。
「二番軌道、東京湾上空で三・二秒遅延!」
「願掛け申請、第三窓口からあふれています!」
「誰ですか、流星二十九号の尾を七色にしたの! 規定は白色か淡青色です!」
十二月十四日、午後十一時三十八分。
地上では、ふたご座流星群の見頃を迎えていた。
そして流星管理局では、一年で三本の指に入る繁忙期を迎えていた。
「ミナ! 願掛け分類、あと何件!」
「聞かないでください!」
「聞かないと進捗が分からない!」
「じゃあ千八百四十二件です!」
「聞くんじゃなかった!」
新人職員のミナは、机の上に積み上がった申請書の山から顔を出した。
願掛け申請。
地上で誰かが流れ星を見て、心の中で願い事をすると、その願いの一部が管理局へ書類として届く。
とはいえ、管理局に願いを叶える権限はない。
流星管理局の仕事は、ただ夜空へ流れ星を流すことだけだ。
願いを叶えるのではない。
願うきっかけを届ける。
研修では、そう教えられた。
「宝くじ、恋愛、試験、健康……宝くじ、恋愛、恋愛、推し、推し、推し」
ミナは分類印を押していく。
『明日の数学のテストがなくなりますように』
「却下」
『先生が風邪をひきますように』
「却下」
『でも軽いやつで』
「配慮しても却下」
隣の席から、先輩職員のカイが笑った。
「独り言が増えてるぞ」
「願い事って読んでると性格が悪くなりません?」
「逆だ。人間らしくなる」
カイは三十五歳。
流星管理局に来て十一年になるベテランだった。
いつも眠そうな目をしていて、コーヒーを一日に六杯飲み、どれだけ忙しくてもネクタイだけはきっちり締めている。
新人のミナとは正反対に、どんな願いを読んでもほとんど表情を変えなかった。
「先輩は、印象に残った願いとかないんですか」
「あるよ」
「どんな?」
「言わない」
「ずるい」
「新人に教えると真似するから」
「何をですか」
「余計なこと」
そう言って、カイは次の書類を取った。
その言い方が少しだけ引っかかったけれど、ミナはすぐに忘れた。
忙しすぎたからだ。
午前零時を回った頃、ミナは一枚の申請書で手を止めた。
紙の端が、何度も折られたようにくたびれている。
『お母さんが、少しだけ休めますように』
それだけだった。
申請者は十一歳の女の子。
備考欄には、自動収集された情報が記されている。
『対象者:母親。飲食店勤務。直近二十六日間、休日なし。健康上の緊急性は低。生活介入規定第三条により対象外』
右上には赤い印が四つあった。
却下。
却下。
却下。
却下。
「これ、四回目なんですけど」
「もっとだよ」
カイが横から書類を覗き込んだ。
「同一願望は四回目以降、自動統合になる。最初の分も合わせれば八日連続だ」
「八日も?」
「毎晩、同じ時間帯」
「なんで知ってるんですか」
「分類班だから」
ミナは申請書へ目を戻した。
「少し休むくらい、叶えてあげられないんですか」
「無理」
カイは即答した。
「でも、このお母さん、二十六日も休んでないんですよ」
「流星管理局には労働基準監督権も、人事権も、雇用契約を書き換える権限もない」
「それは分かってますけど」
「じゃあ却下」
「冷たい」
「規則だ」
ミナはむっとした。
「願いを聞いてるのに、何もしないんですね」
カイの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「何もしないために、規則があることもある」
低い声だった。
ミナが顔を上げると、カイはもう次の書類を見ていた。
それ以上、何も言わなかった。
午前一時十分。
残業職員向けの局内放送が流れた。
『労務規定により、連続勤務時間が十二時間を超えた職員は速やかに休憩を――』
「こっちが休みたいんですが」
ミナが言うと、カイは笑った。
「流れ星を見て願え」
「職員には効かないって研修で習いました」
「よく覚えてるな」
休憩室へ行く途中、ミナは窓際で立ち止まった。
地上が見える。
夜の都市は、黒い海に散らした金色の粉みたいだった。
そのどこかに、あの十一歳の女の子がいる。
今も起きているのだろうか。
「気になる?」
いつの間にか、カイが隣に立っていた。
「……はい」
「新人はみんなそうなる」
「先輩も?」
「昔はな」
「今は?」
カイは答えなかった。
代わりに紙コップを二つ買い、一つをミナに渡した。
「甘いやつ」
「ありがとうございます」
「戻るぞ」
仕事は続いた。
午前一時四十二分。
小規模な軌道トラブルが起きた。
通常なら地上の大気圏で完全燃焼するはずの流星片が、予定より長く残光を引いたのだ。
「三十二号、燃焼時間六秒!」
「観測区域を修正!」
「願掛け回線、負荷上昇!」
一瞬で局内が騒然とした。
ミナの端末にも、申請が滝のように流れ込んでくる。
『受験に受かりますように』
『父の手術が成功しますように』
『猫が帰ってきますように』
『もう一度だけ話せますように』
『ごめんなさいって言えますように』
『明日が来ますように』
手が止まりそうになる。
その一枚一枚の向こうに、誰かの夜がある。
「ミナ!」
カイの声で我に返った。
「分類だけしろ。読むな」
「でも」
「今は読むな。潰れるぞ」
ミナは唇を噛んで、印を押した。
願いを処理する。
叶えられない願いにも。
間に合わない願いにも。
仕分け印を押していく。
三十分後、トラブルは収束した。
局内に、疲れ切ったため息が広がった。
ミナは椅子に座ったまま動けなかった。
「先輩」
「ん」
「『明日が来ますように』って、何なんでしょうね」
「考えない方がいい」
「どうして」
「俺たちは、その人の人生を知らないから」
「でも」
「知らないから、勝手に救った気になるなってことだ」
カイは静かに言った。
ミナは初めて、その言葉の奥に何かあると感じた。
「先輩、昔、何かしました?」
しばらく沈黙があった。
カイは、空になった紙コップを見つめた。
「入局二年目の頃、一つだけ、勝手に軌道を変えた」
ミナは何も言わなかった。
「十五歳の子の願いだった。『父さんが家に帰ってきますように』」
「……それで?」
「父親は長距離トラックの運転手だった。俺は、帰路で見えるように流星を一本ずらした」
「いい話じゃないですか」
「その子は、その流れ星を見た父親から電話をもらった。『今夜は帰る』って」
「じゃあ」
「無理に予定を変えた父親は、途中で事故を起こした」
ミナの顔から血の気が引いた。
「命は助かった。相手も無事だった。でも、その家族がその後どうなったかは知らない」
カイは窓の外を見た。
「俺のせいだったとは言えない。流れ星がなくても帰ったかもしれない。でも、だからこそ分からないんだ。誰かの人生に触るっていうのは、そういうことだ」
「……だから、規則を」
「規則は、冷たいからあるんじゃない。知らない人生に勝手に手を突っ込まないためにある」
ミナは、あの申請書を思い出した。
『お母さんが、少しだけ休めますように』
それでも。
何もしないままでいいのだろうか。
翌日。
ミナは勤務前に、過去一か月分の申請履歴を検索した。
規則違反ではない。
分類担当者に認められた範囲だ。
十一歳の女の子から届いた願いを並べる。
最初の三週間は、違う内容だった。
『お母さんとケーキを食べられますように』
『学校の合唱をお母さんが見に来られますように』
『お母さんが日曜日に家にいますように』
そして八日前から、
『お母さんが、少しだけ休めますように』
に変わっている。
ミナは胸が詰まった。
「朝から何やってる」
カイが出勤してきた。
「調査です」
「嫌な予感しかしない」
「生活介入はしません」
「本当か?」
「はい。ただ、願掛け申請には『本人の意思を促す範囲の演出』なら許可される場合がありますよね」
カイの眉が動いた。
「研修資料のどこで見つけた」
「別冊七の四十二ページ」
「誰も読まないところを」
「読みました」
ミナは予定表を見せた。
その日の午前四時十二分。
小型流星が一基、関東南部を通る。
「母親の勤務先の裏手から見える軌道です。流星を流すだけ。何も起こしません。仕事を休ませることもしない」
「ただ見せるだけ?」
「はい」
「目的は」
「本人が、自分のために願うきっかけをつくる」
カイは黙って資料を読んだ。
「お母さん本人は、何を願うと思う」
「分かりません」
「そこが大事だ」
「だから、そこから先は私たちが決めません」
長い沈黙のあと、カイは赤ペンを取った。
軌道案の端に、二か所修正を書き込む。
「東へ〇・五度。燃焼時間は二・一秒。これなら航空路との干渉なし」
ミナが顔を上げる。
「いいんですか」
「規則の範囲内だ」
「先輩」
「勘違いするな。これは願いを叶えるんじゃない」
「分かってます」
「流れ星を流すだけだ」
「はい」
午前四時十二分。
地上。
小さなファミリーレストランの裏口が開いた。
一人の女性が、ゴミ袋を二つ持って出てきた。
肩を回しながら、集積所へ向かう。
二十七日目の勤務。
昨日は、娘から「もう寝るね」とだけメッセージが届いていた。
返事を打つ暇もなかった。
女性はゴミ袋を置き、空になった手を腰に当てた。
そのとき。
夜明け前の空を、一本の光が横切った。
ほんの二秒。
白い光。
女性は足を止めた。
「……流れ星」
願い事を三回唱える暇はなかった。
そもそも、何を願えばいいのか分からなかった。
お金。
休み。
健康。
娘の成績。
いろいろ浮かんだ。
でも最後に思ったのは、ひどく小さなことだった。
日曜日。
娘と朝ごはんを食べたい。
それだけだった。
翌朝。
流星管理局に、新しい申請が届いた。
申請者は、あの母親。
『今度の日曜日、休みをくださいと言えますように』
ミナは思わず立ち上がった。
「先輩!」
「大声出すな」
「見てください!」
カイは申請書を読んだ。
そして、少しだけ笑った。
「これは本人の願いだな」
「はい」
「じゃあ、俺たちの仕事は終わり」
「叶うと思います?」
「知らない」
「気にならないんですか」
「気になる。でも、知らない」
カイは書類を分類箱へ入れた。
「そこから先は、あの人の人生だ」
*
三日後。
同じ母親から、もう一枚届いた。
『店長に、休ませてくださいと言えますように』
翌日。
『断られても、もう一回言えますように』
さらに翌日。
申請は来なかった。
ミナは一日中落ち着かなかった。
「来ませんね」
「来ないな」
「どうなったんでしょう」
「知らない」
「先輩、そればっかり」
「仕事だからな」
その夜、十一歳の女の子から申請が届いた。
ミナは慌てて開いた。
『日曜日、お母さんとホットケーキを作ります。焦がしませんように』
ミナはしばらく、何も言えなかった。
カイが横から覗き込む。
「これは食品安全?」
「家庭生活です」
「じゃあ対象外だな」
「でも、ちょっとくらい」
「介入するな」
「分かってますよ」
ミナは笑った。
申請書を分類箱へ入れようとして、やめた。
「これは保存したら怒られます?」
「公文書私物化になる」
「ですよね」
「ただし」
カイは自分の机の一番下の引き出しを開けた。
そこには、古い紙が一枚だけ入っていた。
『父さんが家に帰ってきますように』
十一年前の申請書。
「捨ててないんですか」
「捨てられなかった」
カイは静かに引き出しを閉めた。
「規則を守ることと、忘れることは別だからな」
ミナは、自分の机の引き出しを開けた。
そしてコピーではなく、規定どおり個人メモ用紙に、ひとことだけ書いた。
『ホットケーキの日曜日』
それをしまった。
日曜日。
地上では朝から雨だった。
流れ星は見えない。
だから流星管理局は少しだけ静かだった。
「今日は願掛け、少ないですね」
「雨の日はな」
「みんな空を見ないから」
「そういう日もある」
ミナは窓の向こうを見た。
雲の下にある家の一つで、きっと今頃、ホットケーキが焼かれている。
焦げているかもしれない。
母親は眠そうかもしれない。
娘はしゃべりすぎているかもしれない。
何も分からない。
それでいい。
「先輩」
「ん」
「流れ星って、願いを叶えないんですね」
「最初からそう言ってる」
「でも、願いを作ることはあるのかも」
カイは少し考えた。
「正確には、本人が忘れてた願いを思い出す、くらいかな」
「それ、いいですね」
「報告書には書くなよ。抽象的すぎて差し戻される」
ミナは笑った。
午後十一時。
雨雲が切れた。
軌道班から声が上がる。
「流星四十二号、準備完了!」
「観測地域、異常なし!」
「願掛け回線、接続!」
ミナは端末を開いた。
今夜も、誰かが空を見上げる。
宝くじ。
恋愛。
試験。
仲直り。
明日が来ますように。
もう一度頑張れますように。
世界には、叶わない願いがたくさんある。
流星管理局は、そのほとんどを叶えられない。
それでも夜空へ、光を一本流す。
願うことを、やめなくていいように。
「ミナ、四十二号、流すぞ」
「はい!」
窓の向こうで、小さな光が地上へ落ちていく。
たった二秒。
それだけの仕事。
けれど、その二秒のために、今夜も管理局は残業だった。
ミナは少しだけ笑って、次の申請書を手に取った。




