第三話 攪拌
3
雨星は、泣きながら走っていた。
懸命に足を動かしているにもかかわらず、ちっとも前に進むことができない。
地面が泥のように沈み込み、一歩がひどく重い。心ばかりが焦り、恐怖心を大きくさせる。逃げなければ、さもないと、という恐怖だった。これはただの夢だと自分に言い聞かせても、その恐怖は消えなかった。
(逃げなきゃ)
でも、何から?
後ろを振り返ると、追いかけてくる人の姿が見えた。
手には短刀を掲げ持ち、顔は血だらけでよくわからない。
雨星は悲鳴を上げた。
『雨星、おれのことを置いていくのか』
男は大きく口を開けた。それは、ぽかりと空いたうつろだった。真っ黒な空洞の奥で、叫び声が反響する。
『一緒に死のう。雨星』
(やめて。来ないで)
死にたくない。
(嫌だ!)
伸ばされた男の手が、力強く雨星の手をつかむ。
『約束、しただろう?』
**
ざばん。
突如、重く冷たい中へと放り出される。
───水だ。
雨星は混乱し、手を振り回してもがいた。
冷たいそれが、体中にまとわりついて離れない。衣がずっしりと重い。もがけばもがくほど、引き込まれるかのように水底へと沈んでいく。あまりに息が苦しくて、思わず口を開けるが、代わりにたらふく水を飲んでしまった。
水面にきらめく陽の光が見えるのに、どうすればそこに行けるのかがわからない。
(死ぬ?)
がむしゃらにもがいた。苦しい。早く、早く上へ。
光が揺れ、何かが動いた。もがく手に固いものが触れて、藁にもすがる思いでそれをつかむ。すると、ぐんと強い力で導かれた。導かれて、ようやく雨星は、水面へと顔を出すことができたのだった。
つかんでいるものを手繰り寄せるようにして、岸に手をかけ、陸地へと這いずる。
激しく咳き込む雨星の背中を、誰かがさすった。
「もう大丈夫。ゆっくり息をせよ」
女の声だったが、低く穏やかで、歌うような声音だった。
雨星はなおも何度か咳き込んだのち、やっとの思いで顔を上げ、ぼんやりとする頭で、青空を見た。
そして、こちらを覗き込んでいる女の、目を見張るようなその美貌を。
(……誰……?)
「嘉月さま、お下がりを」
嘉月、と呼ばれた美女の背後にも、二人の女がいた。
そのうちの一人は、「裾が濡れてしまいます」と慌てており、もう一人は、手に逆さにした大きな熊手を持って静かに佇んでいた。ああ、それで、と雨星は思った。この女が、熊手の柄を差し伸べ、溺れる彼を助けてくれたのだ。
「おまえは誰?なぜ、池で溺れていたの?」
嘉月が、こちらを落ち着かせるためか、ゆっくりとした口調で問いかけてくる。
その声にようやく半身を起こした雨星は、顔に貼り付く髪をかき上げた。
「池……?」
あたりを見回す。
目の前にはたしかに、睡蓮の浮かぶ大きな池があった。それをまたぐようにして、赤い拱橋がかかっている。池を囲むようにして巡らされているのは、長い渡殿だ。池の向こうには、瑠璃色に輝く屋根をいただく、大きな殿舎があった。
そしてまた、紅白の花を咲かせる、数多の木蓮の木が。
(ここは……)
げほ、と雨星はむせる。
「ここはどこだ?」
何もかもがおかしい。
つい一瞬前まで、夜だったはずだ。
紅雪と楽しい時を過ごすはずだった、冬至祭りの夜。
だが、この光景は何だ。雲一つない青空と、まったく見覚えのない場所。
(わたしはたしか、襲いかかってきた霜飛から逃げて……)
雨星は、何があったかを必死に思い出そうとした。
待ち伏せしていた霜飛から逃れるため、家の中へと駆け込み……これでもう大丈夫だと思ったところを、今度は黒装束の男に斬りかかられたのである。恐怖と混乱の中、父に言われるがまま、手の中の翡翠のかんざしを床に叩きつけ───。
そこまで考えて、雨星ははっとした。
おのれの手元を見下ろし、愕然とする。
(なぜ?)
あの時、床に叩きつけて割ったはずのかんざしが───手の中にあったのだ。
淡い青緑色の翡翠でできた、小鳥の意匠の彫りかんざし。間違いない。一体これは、どういうことなのだろう。あれらすべてが、夢だったとでも言うのか?
「顔をお上げ」
嘉月は雨星のあごに手をやり、上向かせた。
そして、顔色が悪い、震えているね、とつぶやいたかと思うと、おもむろに着ていた衣を脱ぎ、雨星の肩にかけてやったのだった。
「───」
「おまえは、どこか他の殿の宮女か?一体ここで、何があった?」
「きゅうじょ……?」
頭も、口も回らない。冷たい水に浸かったせいだろう。
雨星が何も言えず、ただただ震えていると、
「おや」
嘉月はふと、目を丸くした。
「その耳飾りは……」
雨星の、紅玉髄の耳飾りを見て、つぶやくのだった。
彼女はそののち、じっと雨星の顔を見つめ、やがてほんの少し目を伏せたかと思うと、「来なさい」と口を開いた。すっと立ち上がり、雨星の手を引く。
「え?」
「嘉月さま!」
背後に控えていた女が、咎めるような声を上げるが、彼女は斟酌しなかった。
戸惑う雨星の手を引き、迷いのない足取りで庭を抜け、渡殿へと上がる。そのまま廊下の奥へと進んでいった。二人の後ろを、女たちが慌ててついてくる。
(このひとは……)
おそらく、身分の高い人物だ、と雨星は思った。
年齢は三十代といったところで、高く結い上げる既婚女性の髪型をしている。しかしその髪は、中王国でありふれた黒ではなく、鮮やかなまでの赤毛であった。儚げな白藍の絹衣を身にまとっており、それに施された刺繍は、見とれてしまうほどに見事だった。扇市の町で見かける女とは、装いがまるで違う。
「お入り」
嘉月は二人の女に扉を開かせ、雨星を殿舎の中の一室に招いた。
そして、おのれはゆったりと長椅子に腰掛けると、やはり二人の女に、茶の準備と着替えの用意を命じたのだった。
「恵麻、柚子の茶を淹れておやり。───茉莉、着替えの手伝いを」
「ひ、一人でできます」
熊手を持っていた女が、着替えを手伝おうとしてくれたが、雨星は慌てて断った。
続きの間を借りて、髪と体を拭き、恐る恐る渡された衣に着替える。それは、縫殿で刺繍する時にしか手を触れられないような、高貴な絹でできていた。美しい青磁の色をしており、控えめだが緻密な刺繍も施されている。見ず知らずの他人に、このような高価な衣を着替えとして渡せるなど、並大抵の家柄ではない。
(何がなんだかわからない)
雨星は最後に、横髪を軽くまとめ、翡翠のかんざしに目をやった。
叩き割ったはずのこれが、なぜここにあるのか───それはわからない。だが、肌身離さず持っていたほうがいいような、そんな気がした。ゆえに、髪に挿し込んだ。
身支度が終わり、嘉月のもとに戻ると、いい香りが部屋中に漂っていた。
柚子の茶の香りだ。
「そこへお掛け」
嘉月は言って、雨星を正面に座らせ、さらに茶をすすめた。
「おまえの名は?」
「雨星と言います」
あの、と続ける。
「助けてくださって、ありがとうございます……」
嘉月は「よい」とだけ言って、嫣然と微笑んだ。
「不思議な縁を感じたのでね」
「……?」
雨星が怪訝そうに見つめると、彼女は、優美な手つきでおのれの髪を耳にかけた。
そこには耳飾りが───夕日色の石でできた、耳飾りが揺れていた。紅玉髄である。形も色も、雨星がつけているものに瓜二つであった。
「そっくりだ」
「わたくしのこの耳飾りは、故郷の───ブリシェの職人に作らせたものなの。おまえの髪も、色は淡いが、赤毛だね。ブリシェ人か?」
「あ、いえ」
雨星は首を振った。
「わたしは違いますが、この耳飾りをかつて父に譲った、祖母がそうであったと聞いています。この耳飾りは、その父から受け継いだものです」
「そうであったか」
嘉月はつぶやき、ゆっくりと柚子茶に口をつけた。
すると、
「母さま!」
隣の部屋から、ぱたぱたと軽やかな足音が。
こちらに向かって駆けてきたのは、齢五つかそこらの少女であった。
「香蓮さま、なりません。今は……」
控えていた女が気づき、少女を引き止めようとしたが、嘉月がよいと言って少女を許した。
「お昼寝からお目覚めだね。わたくしの可愛い姫君」
少女を抱き上げて膝に乗せ、頬に口づける。香蓮と呼ばれた少女は、嬉しそうにキャッキャッと笑った。
「このひとはだあれ?」
香連は、嘉月の膝の上から、じっと雨星を見つめた。
丸いどんぐりのような、可愛らしい目をしていた。
母さま、と呼んでいたことから、嘉月の娘だろうとは思うが、彼女の髪は混じりけのない黒髪である。面差しこそ嘉月に似ていたが、言われなければ親子とはわからなかっただろう。
「雨星だよ」
「ふうん……」
嘉月は、ふふ、と笑い、目線を雨星へと戻した。
「娘の香蓮だ。もう一人───この子の上に、青晨という名の息子がいる。今時分は、外宮で勉学に励んでいる頃だろう」
「がいぐう?」
雨星が反芻すると、嘉月は、うん、とうなずいた。
「対して、ここは内宮」
「……」
父は雨星に翡翠のかんざしを渡す際、こう言っていた。
───もし命の危険を感じた時は、父には構わず、これを壊すのだ、と。
壊したらどうなるのかと、当然、雨星は尋ねた。
すると、父はこう答えた。
『おまえを守ってくれるひとがいるところまで、その小鳥が連れて行ってくれるはずだ』
と。
(だとしたら、ここがそうなのか?)
この嘉月というひとが、わたしを守ってくれるひと?
どうも違う気がする、と雨星は思う。もしそうなら、嘉月が雨星のことを知らないのはおかしい。いや、そもそも、かんざしは壊れていないのである。割ったはずなのに、なぜか割れずにここにある。つまり、『守ってくれるひとがいるところ』まで、雨星は、たどり着けてすらいないということになるのだ。
うつむき、考え込む雨星を見て、嘉月がぽつりと言った。
「やはりおまえは、この鳥籠の外から来たのだね」
「え……?」
嘉月は膝の上の香蓮を下ろし、恵麻に預けると、立ち上がった。
そして、戸惑う雨星の手を引いて、「おいで」と言う。
促されるまま窓辺に立ち、その向こうに広がる景色を見て、雨星は息を呑んだ。
はるか遠くに、高くそびえる壁が見える。石の城壁である。繰り返す波のように連なるのは、瑠璃色に輝く屋根、屋根、屋根。うねる渡殿に結ばれて、城壁内にはいくつもの御殿が並び立っていた。
「名乗りが遅れたが……」
嘉月はその景色を背に、雨星を振り返った。
「この中王国でのわたくしの名は、嘉月。わたくしはここ、祥月殿の主であり───王の妃だ」
外宮と、内宮。聞き慣れない言葉ではあったが、聞いたことのない言葉ではなかった。
外宮は、王や官が政を行う場所。そして内宮は、王と妃の寝所である。
(ここは)
扇市ではない。どこか近くの町でもない。嘉月は、どこぞの貴族の妻でもなければ、香蓮は、戯れで姫君と呼ばれているわけでもなかった。香蓮は、正真正銘のお姫さまだったのだ。
(───庭の、木蓮の花)
今さらになって気がついた。
冬至祭りの時期に、木蓮の花が咲いているはずはない。
季節が違う。昼夜も。場所も。そしておそらく。
(時間も?)
「答えよ」
嘉月の美しい緑色の目が、雨星を射抜く。
「おまえは、誰だ?」
パキッ。
音がした。何か、固いものにヒビが入るような音だった。
そう思った次の瞬間、足元の床が消えた。背筋の凍るような落下の感覚。雨星は突然、無窮の闇の中へと放り出された。嘉月も、飾り格子の窓も消えて、ただ極彩色の入り交じる闇だけがそこにあった。雨星はぞっとした。暗闇の中で手足を振り回し、もがく。
やがてうっすらとだが、小さな光が見えてきた。
そこから、冷たい風が流れ出てくるのを感じた。
雨星は、その光へと向かい、飛び込んだ。
痛い、と雨星はうめいた。
地面に思い切り尻餅をつき、腰を強打したのだ。
その地面に手をついて、冷たさにヒャッと驚く。うっすらと雪が積もっていた。
ふと顔を上げれば、もうあの恐ろしい暗闇はどこにもなかった。代わりに、すぐ近くの木に、鮮やかな赤い花がついているのが見えた。山茶花だった。
(ここは……?)
雨星は戸惑いつつも、あたりを見回した。
生け垣に囲まれた庭園。睡蓮の浮かぶ、大きな池。赤い拱橋と、その向こうに見える殿舎。間違いない。ここは、嘉月たちのいた祥月殿の庭だった。だが、少しばかり様相が違って見える。
(季節が違うから?でも……)
どことなく、寂れているような。手入れが行き渡っていないように感じられるのだ。
不思議に思いつつ、しかし他に行く場所もないので、雨星は殿舎に向かって一歩を踏み出した。
「───すまない。おまえしか頼れないんだ」
ふいに間近で話し声が聞こえ、雨星は驚き、思わず近くの木の陰に隠れた。
そっと覗き込んでみれば、池のほとりに、二人の人物が立っているのが見える。
若い男女だったが、逢い引きという雰囲気ではない。
「誰にも言わないでくれ。父上にもだ。わたしも、この子も、きっと死んだことにされるはず。ならばそのままで」
(……?)
それは、聞き覚えのある声だった。家に帰ると、いつもこの声で、「おかえり」と言って出迎えてくれた。泣きたくなるほど懐かしい声。
「父さん……?」
赤みがかった髪も、その横顔も、たしかに父、季潤のものであった。
よかった無事だったのだ、と思い、ふらりと前へ出て、駆け寄ろうとした雨星だったが、次に聞こえた声にはっと足を止めた。
「───そんなの無理よ。あなた一人で、どうやってこの子を守り抜くつもり?」
父の向かいには、若い女が立っていた。
淡い桃色の衣を着た、黒髪の女だ。二十歳にも届かない、若い娘だった。
「父上に話すべきだわ。そして守ってもらうべきよ。この子のためにも」
女は言って、季潤のほうへと手を伸ばした。
正確には、季潤が腕に抱える───幼子へと向かって。
父と同じ、赤みがかった茶色の髪の、ふくふくとした子供。頬には涙の跡があったが、今は泣き疲れた様子で眠っていた。その子を愛おしげに見つめたのち、季潤はゆるゆるとかぶりを振った。
「争いの種になりたくない」
「そんなことにはならないわ」
「いいや。助けを求めれば、父上はわたしたちを守ってくれるかもしれないが、その代わりに、利用しようとするだろう。割符の力の秘密を知れば、あの国へ攻め込もうとするはず。この子や、自分が、戦のきっかけにでもなれば、ましてやそれをこの子に見せつけるのは、わたしには耐えられない」
ただ、静かに生きていきたいのだと、季潤は言った。
それは、彼がいつも口にしていた言葉だった。
「この子と二人で、静かに、平和に暮らしていきたいだけなんだ……」
「青晨」
若い女が、父のことをそう呼んだ。
季潤ではなく、青晨、と。
(どこかで)
この名を耳にしたような。
「だがもし、わたしに何かあった時に、この子が頼れる誰かが必要になる」
父はふところから何かを取り出した。
それは、二本のかんざしだった。
小鳥の意匠の、翡翠の彫りかんざし。今まさに、雨星が髪に挿しているものと、まったく同じ。彼はそのうちの一本を、女に手渡した。
「頼む───香蓮。どうかその時は、この子のことを助けてやって欲しい」
香蓮。
雨星は目を見開いた。
つややかな黒髪の、美しい若い娘へと成長した香蓮は、頭を下げる季潤と、手の中のかんざしとを見比べ、兄さま、もうよして、と言った。
「わかったわ。でも、そんな時が来ないことを、心から願ってる」
「そうだね。わたしもだ」
二人はそっと笑いあった。
香蓮は幼子の頬を、軽くつつく。
「この子の名前は?」
「この先、名乗らせる名はもう決めてある。雨星だ。本名は……」
「───雨星?」
香蓮がつと、顔を上げた。
「今、雨星と言った?」
「言ったが、それがどうした」
わたくし、と、香蓮はぽつりとつぶやいた。
「昔───この子に会ったことがあるわ」
「……?」
季潤は怪訝そうな顔をした。
香蓮は、冗談でなく、と真剣に言い募る。
「四歳か、五歳くらいの頃だったと思うの。お昼寝から覚めて、母さまのところへ行ったら、『雨星』っていうひとがいたのよ。この子と同じような赤毛で、きれいなひとだったわ。でも───母とわたくしの目の前で、煙のように消えてしまったのよ。だからわたくし、ずっと夢だったのだと思っていて……」
でも、本当に起きたことだった。
香蓮のその言葉とともに、バキン、という音がした。
それは、固いものが砕け散る音だった。はらり、と留めていた髪がほどける。足元に、青緑色の欠片がぱらぱらとこぼれ落ちた。
(そうか、香蓮。あなたは、わたしの……)
ふっと地面が消え失せる。ぞっとするような落下の感覚が、再び襲いかかった。
極彩色の渦巻く暗闇の中を漂い、気がつくと雨星は、あの場所へと舞い戻っていた。
見えたのは黒衣の背中だ。刀傷から血が流れ落ち、床に小さな血溜まりを作っていた。その背中の向こうから、うめき声がした。
「ああ、雨星。雨星───」
ずる、ずる。
床を這いずる音がする。血まみれの男が、霜飛が、こちらに向かって手を伸ばしていた。恐怖のあまり、雨星の喉がヒュッと音を立てる。
割れ。逃げろ。
頭の中で声が響いた。父の声だ。
『おまえを守ってくれるひとがいるところまで』
紅白の木蓮の花。
柚子の茶の香り。
手のひらに乗せられた、翡翠のかんざし。
『その小鳥が連れて行ってくれるはずだ』
(死にたくない!)
やるべきことはわかっていた。
雨星は、翡翠のかんざしを握りしめた手を、床に叩きつけた。
**
雪が降っていた。
空を灰色の雲が覆い隠し、朝だというのにぼんやりと薄暗い。
見慣れた石積みの階段の下から、紅雪は、その家を見上げた。
昨夜この家で───霜飛は、遺体となって見つかったのだという。
『殺人があった』
理生が立ち去ってすぐに、入れ替わりで二人の衛士が紅雪のもとを訪ねてきた。
いつかの日に、宿の前で理生と揉めていた二人だった。
殺人という言葉を聞いた紅雪は、雨星が殺されたのだ、だから来なかったのだと思い、取り乱した。そんな彼女に衛士は、そうではないと言い、殺されたのは霜飛だと教えてくれた。それ以上の詳しいことは話してくれなかったが、雨星と父親の行方を探している、ここに来ていないか、と彼らは紅雪に尋ねたのだった。
(どこへ行ってしまったの?)
一体、何があったというのだろう。
見慣れたはずの景色なのに、たった一夜で、まったく知らない場所に変わってしまったみたいだ。考えたくない。けれど、どうしても考えてしまう。理生が───彼が、このことに関わっているのではないかと。
(まさか、彼が、人殺しを?)
紅雪は、ゆっくりと石段を登っていった。
衛士の調べは終わっているようで、周囲に人の気配はない。
だが、扉が開いていた。衛士が閉め忘れたのだろうか。冷たい風に吹かれ、音を立てながらかすかに揺れている。何度も足を踏み入れたことのある家のはずなのに、扉の向こうの暗がりが、何となくよそよそしい。
(でも何か、手がかりの一つでもあれば……)
意を決し、暗がりの向こうへと足を踏み入れる。
無為に荒らされたかのように、家の中は雑然としていた。入ってすぐの場所に血の跡があり、紅雪は思わず口元を押さえた。霜飛は、ここで殺されたのだろうか?
バタン!
背後で勢いよく扉が閉まり、紅雪は肩を震わせながら振り返った。が、誰もいない。風のせいだろう。ほっと胸を撫で下ろした紅雪は、前へと向き直り、
「ひ」
と声を漏らした。
家の中に、真っ黒な人影が見えたからだった。まるで亡霊のような……。
紅雪が悲鳴を上げる、その寸前で、亡霊はあわあわと手を振った。
「わ、わたしだ、紅雪。叫ばないでくれ。頼む!」
(ん……?)
紅雪は立ち位置を変え、その人物に目を凝らした。
すると、人影の正体があらわになった。赤みがかった髪が見え、一瞬、雨星かと思った紅雪だったが、すぐに違うとわかった。そこに立っていたのは、雨星の父、季潤だった。
「雨星のお父さん!」
「季潤でいいよ。すまない、驚かせて……」
「それはいいんですけど」
紅雪が言うと、季潤は眉を下げて頬をかいた。
「いやあ、わたしも驚いたよ。まさか人が来るとは。一瞬、やつらに見つかったかと思ってひやりと───」
口にしてから、まずいことを喋ったと思ったのか、季潤は不自然に押し黙った。
紅雪はきゅっと眉根を寄せる。
「やつら?それって誰のことです?」
「ああ、いや……うん」
「それに雨星は?どこにいるんですか?」
季潤はまるきり困ったようになって、黙り込んだ。
よく見れば、彼の足元には荷が置いてある。
「その荷物は……」
「いや、何でもないんだよ。少し町を離れようと思ってね。雨星もここにはいないが、元気でいるよ」
紅雪は、明らかに目が泳いでいる季潤のことを、じっと見つめた。こちらを安心させるかのように微笑むその姿は、まるで、彼女がここから立ち去るのを待っているそぶりだ。
紅雪には、ピンとくるものがあった。ゆえにそれを口にした。
「そのやつらの中に───赤毛の、理生という名のひとはいますか?」
季潤ははっとなって紅雪を見た。なぜそれを、と声を漏らしながら。
(やっぱり)
そうでなければいい、と思っていたことが、現実になりつつあった。理生はやはり、この家で昨晩起きた何かに関わっている。そしてそれは、死人が出るようなことであり、季潤の様子から察するに、まだ終わっていない。
「なぜ、きみが山箭のことを……」
「山箭、というものは知りませんが、うちの宿に泊まっていたひとたちのうちの一人が、理生という名のブリシェ人でした。昨夜たまたま、彼の顔に血がついているのを見てしまったんです。衛士たちは昨夜のことで雨星を探しているし、何か関係があるんじゃないかと思って」
季潤は、しばらくぽかんと口を開けていたが、
「前から思っていたが、きみは、何というか……」
聡いな、と感心したように言った。
そしてつと真剣な表情になり、だからこそ危険なんだ、と続ける。
「きみはもう、わたしたちに関わらないほうがいい。何も聞かず、このまま家に帰りなさい。雨星のことなら、心配しなくていいから。今は安全な場所にいるはずだ」
「安全な場所?」
季潤は、それ以上は言えないとばかりに、口を閉じる。
「おじさんは、雨星のところに行くつもりなんですよね?」
紅雪は、一歩、季潤に近づいた。
「雨星はどこにいるんですか?そこにいないと、雨星は安全じゃないってことですか?山箭っていうのは、彼を追いかけてるんですか?一体、何のために?」
「いや、その」
季潤はたじろぎ、反対に一歩下がる。
紅雪は構わず彼に詰め寄っていく。
「山箭は、雨星を───傷つけようとしているの?どうして?山箭とは何なの?」
「それは……」
「あたしも行きます。雨星のところに、一緒に連れて行って下さい」
「だからその……え?」
季潤が唖然として、つぶやいた。
「え?」
「あたしも、行きます。おじさんと」
「いやいや。それはだめだろう」
「何がだめなの」
「何がって───全部だよ。まずきみはまだ子供だし、女の子だし、親御さんが心配するだろう。それに、命の危険だってあるんだよ?わたしは腕が立つほうではないし、いざという時にきみを守ることはできない。とてもじゃないが、連れて行けないよ」
紅雪は一瞬黙り込み、じゃあ、と言った。
「連れて行ってくれないなら、このまま町まで走って、おじさんがここにいること、衛士に教えますよ。いいんですか?」
「ええ……」
「あたしだったら、うちから日持ちのする食料を持ち出せます。必要でしょ?どこに行こうとしているのかは知りませんけど」
「……」
季潤は、非常に深いため息をつき、がくりとうなだれた。降参だ、とうめく。
「じゃあ」
ぱっと顔を明るくした紅雪を、彼は、「ただし」と手を上げて制した。
「わたしが逃げろと言ったら、すぐに逃げなさい。いいね。そして近くの大人に助けを求めること。まず自分のことを一番に考えてくれ。それを約束してくれるなら───」
「わかりました!」
全然わかっていない顔で、紅雪は力強くうなずき、それで、と続けた。
「雨星は今、どこにいるんですか?」
「雨星は……」
都にいる、と季潤は言う。
聞き間違いか、もしくは冗談かと、紅雪は思った。
「……え?」
だが季潤は、至極真面目に言うのだった。
「あの子は今、都にいるはずだ。その王宮の、さらに奥───内宮にね」




