表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

物語集

Stars & the Moon ~Bitter Chocolate's Love

作者: 辻堂安古市
掲載日:2026/02/12





 二月の都会の空は、驚くほど高く、そして冷たかった。


 紫紺に黒を足したような夜空には、冬の月が白い弧を描き、薄く笑っている。



 都心から少し離れた高層マンションのベランダで、亮介は手元のウイスキーグラスを軽く揺らした。氷がカランと乾いた音を立てる。眼下には、宝石を地面に振り撒いたような夜景が広がっている。しかし、その輝きはどこか遠く、他人事のように冷ややかだ。


 今日は2月14日、バレンタインデー。 かつての亮介にとって、この日は甘い期待や、あるいは気恥ずかしい騒がしさに満ちたものだった。けれど三十代も後半に差し掛かった今、それはカレンダーに記された記号の一つに過ぎず、デパ地下の特設会場に群がる人々を横目に、少しだけ仕事の手を緩める理由になる程度のものになっていた。


「そんなところで飲んでいたら、風邪をひくわよ」


 背後で、リビングの引き戸が開く。落ち着いているが、少しだけハスキーな声の主は、亮介の妻の美緒だった。彼女は肩にカシミアのショールを羽織り、亮介の隣に立った。


「月がきれいだったから。……星は、あんまり見えないけどな」


 亮介が言うと、美緒はふっと微笑んだ。


「都会の星は、ビルの明かりに遠慮してるのよ。でも、月は負けてないわ」


 二人は並んで、都会の空に浮かぶ三日月を見上げた。





  結婚して七年。情熱的な恋は、いつの間にか穏やかで深い信頼へと形を変えた。それは幸せなことだと理解している。けれど、時折、心の奥底で何かが「しん」と冷えるような感覚を覚えることがある。それは、互いの存在が当たり前になりすぎたゆえの、贅沢な孤独だった。


 美緒が小箱を差し出した。彼女の手には、二つの小さなクリスタルグラスと、濃紺の小箱がある。


「これ、今年の。……お疲れ様」

「ありがとう。開けていいか?」

「ええ、もちろん」


 箱の中には、二つのショコラが並んでいた。一つは銀粉が散らされた深い藍色のドーム型。もう一つは、金箔が一点だけ置かれた琥珀色のスクエア。


「『Stars & the Moon』っていう名前なんですって。コンセプトが素敵だったから」


 亮介は藍色の箱からショコラを指でつまみ、口に運んだ。 舌の上で薄いシェルが弾け、中からとろりと溢れ出したのは、驚くほどビターなガナッシュ。そして、鼻を抜けるのはスモーキーなアイラモルトの香り。


「……苦いな」

「そうね。大人の味。でも、後から少しだけ、オレンジの香りがしない?」

「……ああ、そういえば」


 ほろ苦さの奥に潜む、微かな甘みと爽やかさ。

 それは、長い年月をかけて二人が積み重ねてきた会話や、時には沈黙の中にあった感情に似ていた。


「ねえ、亮介」


 美緒が月を見上げたまま、静かに語り始めた。


「私たち、いつから『恋人』じゃなくなったのかしら」


 唐突な問いに、亮介はグラスを止めた。責めるような響きはない。

 ただ、純粋な疑問として、彼女の言葉は夜の空気に溶けていく。


「……嫌になったわけじゃないんだ。ただ、生活という重力に引かれて、地面ばかり見ていたのかもしれない。星を見上げる余裕も、君に花を買う理由も、どこかに置き忘れてしまっていた」


「……私もそうよ」


 美緒は少しだけ亮介に寄り添った。カシミア越しに、彼女の体温が伝わってくる。


「今日、お店でこのチョコを選んでいるとき、少しだけ怖くなったの。もし、これを渡して、あなたが『ああ、ありがとう』だけで終わってしまったら。私たちが、もう互いの心に波を立てることができなくなっていたら、どうしようって」


 亮介は空いた手で、美緒の肩を抱き寄せた。 彼女の髪から、微かにいつも使っているシャンプーの香りがする。それは生活の匂いであり、彼にとっての「安息」そのものだった。


「波なら立ってるよ、今」


 亮介は夜空を見上げながら、言葉を続ける。


「……君がこのチョコを選んでくれたこと。その意味を考えて、今、胸のあたりが少しだけ痛い。……それはきっと、まだ俺の中に、君への『恋』が残っている証拠だと思う」


 美緒は亮介の胸に顔を埋め、小さく笑った。


「ずるいわね。そんなこと、普段は言わないくせに」

「バレンタインの魔法ってことにしておいてくれ」

「かっこつけたこと言って」

「たまにはいいだろ?」


 二人はしばらくの間、無言で寄り添い、残った琥珀色のショコラを分け合った。それは、少しだけ塩の効いたキャラメルの味がした。



 甘くて、しょっぱくて、苦い。 

 けれど、それらが複雑に絡み合って、補い合っている。


 苦さがあるからこそ

 辛さがあるからこそ

 甘さが引き立つ。

 


 都会の喧騒は相変わらず遠くで鳴り響いている。 夜空には相変わらず、数えるほどしか星は見えない。 けれど、二人の上には確かに、冷たくも美しい月と星々が輝いていた。





「来年も、再来年も、たぶん私は苦いチョコを選ぶと思うわ」


 美緒が囁く。


「いいよ。それを一緒に食べて、『苦いな』って笑い合おう」


 亮介は、空になったグラスを置き、彼女の冷えた手を自分のポケットの中に招き入れた。星は見えずとも、月は満ち欠けを繰り返しながら、常にそこにある。若者のような燃え上がる情熱はなくても、冷え切った夜を共に過ごすための体温があれば、それで十分だった。





 ショコラの余韻が、ゆっくりと喉の奥に消えていく。

 残ったのは、確かな愛情と、ほんの少しの切なさが混じり合った、大人の夜の味だった。



「月が、本当にきれいだ」


「ええ……そうね」



 二人は、どちらからともなく部屋の中へ戻り、明かりを消した。


 月の淡い光はテーブルに置かれた小箱を照らし、そこから散った銀と金の光は、あたかも小さな星のように煌めいていた。






お読みいただき、ありがとうございます。


この作品は、武 頼庵様主催の、「すれ違い企画」に参加しております。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
都会の星はビルの明かりに遠慮している、という台詞、素敵ですね。 結婚は恋愛とはまた違う関係性を築いていくものですから、恋人関係だった時のようにはいかないですよね。 それでも互いを大切に想う気持ちが残っ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ