Stars & the Moon ~Bitter Chocolate's Love
二月の都会の空は、驚くほど高く、そして冷たかった。
紫紺に黒を足したような夜空には、冬の月が白い弧を描き、薄く笑っている。
都心から少し離れた高層マンションのベランダで、亮介は手元のウイスキーグラスを軽く揺らした。氷がカランと乾いた音を立てる。眼下には、宝石を地面に振り撒いたような夜景が広がっている。しかし、その輝きはどこか遠く、他人事のように冷ややかだ。
今日は2月14日、バレンタインデー。 かつての亮介にとって、この日は甘い期待や、あるいは気恥ずかしい騒がしさに満ちたものだった。けれど三十代も後半に差し掛かった今、それはカレンダーに記された記号の一つに過ぎず、デパ地下の特設会場に群がる人々を横目に、少しだけ仕事の手を緩める理由になる程度のものになっていた。
「そんなところで飲んでいたら、風邪をひくわよ」
背後で、リビングの引き戸が開く。落ち着いているが、少しだけハスキーな声の主は、亮介の妻の美緒だった。彼女は肩にカシミアのショールを羽織り、亮介の隣に立った。
「月がきれいだったから。……星は、あんまり見えないけどな」
亮介が言うと、美緒はふっと微笑んだ。
「都会の星は、ビルの明かりに遠慮してるのよ。でも、月は負けてないわ」
二人は並んで、都会の空に浮かぶ三日月を見上げた。
結婚して七年。情熱的な恋は、いつの間にか穏やかで深い信頼へと形を変えた。それは幸せなことだと理解している。けれど、時折、心の奥底で何かが「しん」と冷えるような感覚を覚えることがある。それは、互いの存在が当たり前になりすぎたゆえの、贅沢な孤独だった。
美緒が小箱を差し出した。彼女の手には、二つの小さなクリスタルグラスと、濃紺の小箱がある。
「これ、今年の。……お疲れ様」
「ありがとう。開けていいか?」
「ええ、もちろん」
箱の中には、二つのショコラが並んでいた。一つは銀粉が散らされた深い藍色のドーム型。もう一つは、金箔が一点だけ置かれた琥珀色のスクエア。
「『Stars & the Moon』っていう名前なんですって。コンセプトが素敵だったから」
亮介は藍色の箱からショコラを指でつまみ、口に運んだ。 舌の上で薄いシェルが弾け、中からとろりと溢れ出したのは、驚くほどビターなガナッシュ。そして、鼻を抜けるのはスモーキーなアイラモルトの香り。
「……苦いな」
「そうね。大人の味。でも、後から少しだけ、オレンジの香りがしない?」
「……ああ、そういえば」
ほろ苦さの奥に潜む、微かな甘みと爽やかさ。
それは、長い年月をかけて二人が積み重ねてきた会話や、時には沈黙の中にあった感情に似ていた。
「ねえ、亮介」
美緒が月を見上げたまま、静かに語り始めた。
「私たち、いつから『恋人』じゃなくなったのかしら」
唐突な問いに、亮介はグラスを止めた。責めるような響きはない。
ただ、純粋な疑問として、彼女の言葉は夜の空気に溶けていく。
「……嫌になったわけじゃないんだ。ただ、生活という重力に引かれて、地面ばかり見ていたのかもしれない。星を見上げる余裕も、君に花を買う理由も、どこかに置き忘れてしまっていた」
「……私もそうよ」
美緒は少しだけ亮介に寄り添った。カシミア越しに、彼女の体温が伝わってくる。
「今日、お店でこのチョコを選んでいるとき、少しだけ怖くなったの。もし、これを渡して、あなたが『ああ、ありがとう』だけで終わってしまったら。私たちが、もう互いの心に波を立てることができなくなっていたら、どうしようって」
亮介は空いた手で、美緒の肩を抱き寄せた。 彼女の髪から、微かにいつも使っているシャンプーの香りがする。それは生活の匂いであり、彼にとっての「安息」そのものだった。
「波なら立ってるよ、今」
亮介は夜空を見上げながら、言葉を続ける。
「……君がこのチョコを選んでくれたこと。その意味を考えて、今、胸のあたりが少しだけ痛い。……それはきっと、まだ俺の中に、君への『恋』が残っている証拠だと思う」
美緒は亮介の胸に顔を埋め、小さく笑った。
「ずるいわね。そんなこと、普段は言わないくせに」
「バレンタインの魔法ってことにしておいてくれ」
「かっこつけたこと言って」
「たまにはいいだろ?」
二人はしばらくの間、無言で寄り添い、残った琥珀色のショコラを分け合った。それは、少しだけ塩の効いたキャラメルの味がした。
甘くて、しょっぱくて、苦い。
けれど、それらが複雑に絡み合って、補い合っている。
苦さがあるからこそ
辛さがあるからこそ
甘さが引き立つ。
都会の喧騒は相変わらず遠くで鳴り響いている。 夜空には相変わらず、数えるほどしか星は見えない。 けれど、二人の上には確かに、冷たくも美しい月と星々が輝いていた。
「来年も、再来年も、たぶん私は苦いチョコを選ぶと思うわ」
美緒が囁く。
「いいよ。それを一緒に食べて、『苦いな』って笑い合おう」
亮介は、空になったグラスを置き、彼女の冷えた手を自分のポケットの中に招き入れた。星は見えずとも、月は満ち欠けを繰り返しながら、常にそこにある。若者のような燃え上がる情熱はなくても、冷え切った夜を共に過ごすための体温があれば、それで十分だった。
ショコラの余韻が、ゆっくりと喉の奥に消えていく。
残ったのは、確かな愛情と、ほんの少しの切なさが混じり合った、大人の夜の味だった。
「月が、本当にきれいだ」
「ええ……そうね」
二人は、どちらからともなく部屋の中へ戻り、明かりを消した。
月の淡い光はテーブルに置かれた小箱を照らし、そこから散った銀と金の光は、あたかも小さな星のように煌めいていた。
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この作品は、武 頼庵様主催の、「すれ違い企画」に参加しております。




