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四話 『私』

 

 ※


 風が吹いた。

 湿った空気が木々の隙間を通り、落ち葉を巻き込んで飛んでいく。


「ぐぎゃ」


 細長い顔に黒一色の目。鼻は顔に対して長く大きいため、バランスが悪い。体格は人の子のようであるが、特徴的な緑の肌に細いながらも筋肉質な腕や脚が更にバランスの悪さを際立たせていた。

 見るだけでも嫌悪感を抱かせるそれはゴブリンと呼ばれる生物。


 俗に言う魔物である。


 ゴブリンはすぐそばの倒れて動く事のない獲物を視界の中心に捉えた。

 狩りを楽しむゴブリンにとって、しつこく抵抗するこの獲物は格好の玩具であった。

 それはいわゆる人間と呼ばれる生き物。それに子どもだ。

 白い髪は腰ほどまで伸びていて、見るからにやせ細った筋肉とは無縁な身体。先ほどまでもがいていたが、しかしそれももう動く事はない。


 面倒だと言わんばかりにゴブリンは鼻を鳴らした。

 手に持っていたやや小さい棍棒を大きく振り上げる。

 躊躇なく振り下ろされた棍棒を止めるものは誰もいない。頭目掛けて進むそれはもはや、当のゴブリンでさえ止める事は出来ないだろう。


「ぐぎっ!?」


 ──鉄が弾けたかのような音が森の中に響き渡った。その耳を抑えたくなる甲高い音に鳥達は一斉に羽ばたき空を舞う。

 ゴブリンは理解が追いつかなかった。

 何をされた訳でもなく、振り下ろした棍棒が急に反対方向へと弾かれてしまったのだ。


 呆然としていたゴブリンの視界に、一枚の鳥の羽が落ちてくる。それは人間の身体に接触するかと思いきや、空中で斬られたかのように二つに分かれた。


 獲物はいまだ倒れたままである。何かできるはずもない。

 では何が起きたのか。

 もともと知能の低いゴブリンである。いくら考えようとも答えに辿り着く筈もない。

 いや、例えこの光景を人間が見ていたとしても理解できることはなかったであろう。

 棍棒を強く握りなおしたゴブリンは、次は外さないと強く殺意を込める。両手で持ち手を持ち、確実に仕留める為に振り上げ──


 ──ゴブリンの手が重力に従い地に落ちた。

 遅れて血が吹き出る。それは止まることを知らぬ噴水の如き勢いだった。


「ぎゃ、ぎゃる、ぐぁぎゃぁぁぁ!!」


 理解するよりも早く、痛みを感じるよりも早く、危険を察知したゴブリンは転げるようにして走った。

 なるべく遠く。少しでも早くあの場から離れなければ、次は頭が切り落とされると本能が警鐘を鳴らしていた。


「────」


 背後から呼吸音が聴こえる。ひゅうひゅうと笛のような高い音がなっており、それは荒く繰り返されている。

 それは先程まで馬鹿にしていた声だ。慌てふためき叫び散らかすそのさまを見て楽しんでいた筈の玩具であった筈の声だ。

 しかし気にする必要はない。脚は潰している。追い掛ける気力もあるはずもない。だからこのまま走れば逃げ切れる。

 だが──ゴブリンはその足を止めた。

 最後にゴブリンは振り向いてしまった。

 好奇心とか怖いもの見たさではなく、自然と目が向いてしまったのだ。


 そこに立つのは人間だった。汚れた服は裂け、泥だらけのズボンには穴が空いている。腰まで届いている白い髪は土にまみれてくすんでいた。

 その人間は、そこらに落ちている不格好な木の棒を握り、下段に構えていた。

 ゆうに限界を超えている身体で何ができるのか。脚や手は絶えず震えている。

 しかし、その姿には一切の隙すら見えなかった。


「────」


 ゴブリンは身体ごと馬鹿にしていた人間へと向けた。

 逃げても無駄だと気付いた訳ではない。そんな事は些細な問題でしかなく、今のゴブリンには気にするほどのことでもなかった。


 ゴブリンは見惚れていたのだ。

 その姿に、その一挙一動に、見る他ないと思うしかなかった。


「────」


 口は確かに動いていたが、声が聞こえてくることはなかった。

 ただ、下段に構えていた得物を、人間は横なぎにふるった。

 そのすぐに起きるのは、凄まじい突風。辺りの落ち葉をまるごとかき上げ、土すらも巻き込み、木々がその頭を激しく揺らす。

 一拍遅れ、押し出された空気が真空の刃となった。それは歪な形ながらも巻き上げた葉や土を全て両断し──ゴブリンを斬り裂く。

 その刃は勢いを止めないまま何十メートル先もの木々を破壊し、やがて空気となり巻き上げられ力を無くした。


「ぐ……ぎゃ…………ぁ……」


 ゴブリンの体は横薙ぎに両断され、その胴体がズレて崩れ落ちる。

 しかしその顔は──どこか満足げな表情をしていた。


「はぁ……はぁ……っ……はぁ……」


 荒い呼吸が森の中に響く。

 当の少年はまさに満身創痍であった。

 両腕からは血が吹き出し、力が入らないのかぷらぷらと垂れている。

 上半身の服はズタズタに引き裂かれ、やせ細った身体が所々あらわになっている。


 緊張の糸が切れたのか、彼は地に伏した。

 ピクリとも動く気配はない。もはや彼が息絶えるのは必然か。

 そう思われた時だった。

 地に伏していた彼はふらふらと立ち上がった。


「──まだだ……強くならねば……」


 喉から笛のようにヒューヒューと鳴らしながらも、生きるのだという強い意志だけで立ち上がってみせた。

 手に持った頼りない木の棒を杖代わりに、震えながらも足を進める。

 それは戻る道ではなく進む道。

 森の奥深く──地獄へと通ずる道である。

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