十四話 透明
「くそっ!」
悪態をつきながら、僕は後ろへ駆け出した。
そういえば本で読んだことがある。
魔物の中には自然と同化し、擬態するものもいると。
ただしそういった魔物は動かないため、滅多に遭遇することはない。個体数も少なく、危険度も低い――そう、書いてあったはずだ。
対処法も載っていた。
擬態種は戦闘力が低く、不意打ちに失敗すればまず追ってこない。
だから僕は迷わず逃げた。
戦わず、距離を取る――それが正解だと信じて。
立ち止まり、振り返る。
「──なのに、何で追ってくるんだ……」
ゲコッ、と湿った音が響く。
灰色の体表に無数の黒い斑点。シルエットだけ見ればただのカエルだが、前脚には不釣り合いなほど鋭い爪が伸びていた。
「そんなに弱そうに見えるか?」
通じるはずもない問いかけ。
それでも、口にせずにはいられなかった。
──マズい。
問題は三つある。
一つ。合気道は人間に対する武術だ。
極致まで至っていれば別かもしれないが、今の僕では魔物相手にほぼ無力。
二つ。得物がない。
素振りで棒をすべて壊してしまった。せめて一本でも残しておけば……。
三つ目。
これが最大の問題。
あの魔物は、擬態して透明になる。
思考した瞬間、目の前でカエルが溶けるように消えた。
「くそっ……!」
姿を消したまま動き続けている。
擬態中は動けないという前提は、完全に覆された。
唯一の救いは、攻撃するとき、風景にわずかな"ズレ"が生じること。
それを見逃さなければ――
「ぐっ……!」
――かろうじて、避けられる。
何かが首筋を掠めた。
粘り気のある感触――舌だ。
わずかに触れただけで皮膚が引き裂かれ、血が滲む。
「……舌、か」
カエルなら当然の攻撃手段。
だが、あの爪は何のためにある?
疑問が浮かぶが、答える間もなく魔物は再び透明化する。
咄嗟に後退。距離を取れば舌の射程外には出られる。
けれど、爪の用途が分からない以上、油断はできない。
枝を探したい。
細すぎず、太すぎず、手頃な棒があれば――
だが、走りながら透明の敵を警戒しつつ何かを探すなど、無理な話だった。
舌の攻撃を避けるので精一杯。
体力も削られ、集中力も限界に近い。
「はぁっ……はぁっ……」
息が荒くなる。
そのとき――攻撃が止んだ。
「……?」
さっきまで容赦なく飛んできた舌が、今はない。
周囲を警戒するが、気配も臭いも感じない。
「……諦めた、のか?」
ここまで追い詰めておいて?
疑念はあったが、これがチャンスなのも確かだ。
今のうちに得物を――。
視界の端に、手頃な枝が落ちているのが見えた。
「よし……!」
駆け出した瞬間、視界が歪んだ。
鼻を突く悪臭。理解が遅れて追いつく。
「しまっ――!」
罠だ。
絶え間ない舌攻撃で意識を絞らせ、疲弊したところで油断を誘う。
そして接近し、あの爪で仕留める――。
地面を蹴り、身を引こうとする。
だが、魔物の方が速かった。
振り下ろされた爪が、腹を抉る。
「っ……!」
直撃は免れた。浅い傷だ。
まだ動ける――そう思った瞬間、寒気が全身を駆け抜けた。
視界が歪む。足が震える。息ができない。
立っていられず、膝が地面に落ちる。
「毒……!」
魔物の姿はもう見えない。
透明化し、僕が動けなくなるのを待っているに違いない。
腹から血が止まらない。
毒が全身を巡り、指一本動かせない。
もはや、成す術はない。
得物があったとしても、握ることすらできない。
ここで死ぬのか?
こんな場所で?
何が悪かった?
敵が透明だったから? 毒を持っていたから?
――違う。
この敗北は、僕の慢心によるものだ。
筋肉がつき、合気道を覚え、ゴブリンを倒せるようになった。
だから油断した。
素手でもいける。そこらの棒でも戦える。逃げることだってできる――。
そんな甘い考えが、この結果を招いた。
頭が痛い。
世界が霞んでいく。もう何も見えない。
自分が立っているのかすら、分からない。
――情けない。
どこかで、声が聞こえた。
『私』の声だ。
そうだ。情けない。
目を背けたくなるほど、惨めで、無様だ。
毒など、恐れるに足らぬ。
体が動かないのは、僕がそう"思い込んでいる"だけだ。
本当に情けないのは――
目が見えなければ戦えもしない、その弱さだ。
──強くあれ。
視力を失い、それでもなお足掻き続けたあの日を忘れたのか。
記憶はなくとも、体は覚えているはずだ。
己の身に刻まれた"眼"は、決して消えぬ。
私は答えを失った。
故に――私は答えを求め続けた。
真に大事なのは、答えそのものではない。
その導き方を知ることだ。
視覚。聴覚。触覚。嗅覚。味覚。
あらゆる感覚を、限界まで研ぎ澄ます。
葉の擦れる音。
肌に触れる風。
土の匂い。
空気の味。
ほんのわずかな情報から、周囲を"読む"。
すべてを組み上げ、答えを"求める"。
なれば、自ずと――視えてくる。
目が見えずとも、視界を拓け。
それこそが極致──【真眼】である。




