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十三話 気配

 あれからどれほどの時が経ったのか、もう分からない。

 三度、四度と太陽を見送ったあたりで、数えるのをやめた。


 依然として僕は修練を続けていた。

 食料は、そこらに生えたきのこだけ。だから場所を転々としながらの生活だったが、瞑想の効果もあって筋肉は目に見えてついてきた。

 今、僕が村に戻ったとしても──ひと目で僕だと気づく者はそういないだろう。


 合気道の基礎を土台とした動きも、だいぶ身についてきた。

 かすかに残る『私』の記憶を頼りに修練したせいで完璧とは言えないが、それでも今の僕には十分すぎる。

 実際、何度かゴブリンに襲われたこともあったが、三匹ほどなら素手でも難なく対処できるようになった。

 もっとも、殺すには至らず撃退止まりだが……それが幸いしてか、最近では僕の姿を見ると逃げ出すゴブリンも多い。僕のことが、奴らの間で噂になっているのかもしれない。


 ──そろそろ、次の段階へ進む頃合いだろう。


 腕立て伏せを中断し、額を流れる汗を腕で拭った。

 近くの木に立てかけておいた手ごろな棒を手に取って、正面に構える。


 合気道の動きは思い出せた。しかし、“得物”の扱い方はまだ分からない。

『私』の記憶が完全に戻るのを待つのも手だが、何がきっかけになるのか分からない以上、試してみるしかない。

 それに、今の僕には合気道という強固な基礎がある。

 応用次第で、“見ていられないほど下手な振り方”にはならないはずだ。


「取りあえず、素振りをひたすらしてみるか」


 刀の振り方なんて知らない。でもそんなことは些細なことだ。

『私』だって最初はそうだった。何も分からず、ただ強くなるために刀を振っていたはずだ。


 確証はない。けれど、確信はある。

 ──『私』ならば、そうしていた。


 それからは、ただひたすら木の棒を振り続けた。

 幾度も振り上げ、幾度も叩き下ろし、棒は何度も折れた。

 腕が棒になったように痛もうと、手にタコができようと、ただ一心に振り続けた。

 筋肉を鍛え、瞑想を欠かさず、ときには川辺で休息をとる──そんな日々を繰り返した。


 そして、またいくつ目かの朝を迎えた。

 折れた棒を手放し、ふぅと息をつく。


 得物を握る感覚が、うっすらと戻ってきたような気がする。

 まあ、これだけ打ち込めば嫌でも思い出すか……。

 型や技までは思い出せないが、今は基礎を固める時期なのかもしれない。


 木の根に腰を下ろし、枝葉の隙間からこぼれる陽光を見上げる。


「……母さん、元気にしてるかな」


 忘れてはいけない。

 僕が強くなるのは生きるためだが、それだけじゃない。

 村の連中を見返すため──そして、母さんを取り戻すためでもある。


 僕が強くなれば、差別もなくなるだろう。

 そうなれば、母さんだって胸を張って外を歩けるようになる。

 もちろん、そんなに簡単なことじゃない。

 魔力を持たない僕が認められるには、それ相応の『技』が必要だ。


 一番最初にゴブリンを倒したときのような、常識を越えた“技”。

『私』が見せてくれた、魔力なしでも通じる証明。

 中途半端だったとしても、それでも確かに可能性を見せてくれた。


 だから、僕は立ち止まれない。

 せめて一つでも、『技』を扱えるようにならなければ。

 そうすれば──誰も、僕と母さんを見下すことはできない。


 小休止を終え、僕は立ち上がった。

 尻についた木くずを払い、折れた棒を見下ろす。


「……新しい棒を探さないと。ついでに、キノコもだな」


 得物を探しつつ、少し食料も集めよう。

 そう思って歩き出した矢先――


 空気が、張り詰めた。


 肌が反応する。辺りを見渡すが、何も見えない。

 だが、確実に“何か”がいる。

 この感覚、忘れるはずもない。

 ──獲物として見られている。


「……久しぶりだな、この感じ」


 額から冷や汗が伝う。

 この感覚だけは、いつまで経っても慣れない。


 また鹿の魔物か? いや、姿は見えない。

 風が一度、森を撫でる。鼻を刺すような臭気が流れ込んできた。

 肥溜めをひっくり返したような臭い。けれど、前方には何もいない。

 木の裏を覗こうと気配を探るが、何も感じ取れない。


「糞が腐ってる……? いや、これは魔物の臭いだ」


 再び風が吹いた。

 葉が擦れ、林がざわめく。

 そのとき、舞い上がった木の葉が──宙で止まった。


 反射的に身を翻す。

 何かがこちらへ飛んできた。理解より早く、体が動いた。


 頬の横を風が裂く。

 その直後、前方の空間がぐにゃりと歪み、何かの影が現れた。


 それは、蛙のような姿をした──僕より一回り大きな魔物だった。

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