##第3章 蜃気楼##
##第3章 蜃気楼##
*1*
「……嘘。どうして……」
自宅の寝室。
瑞希はスマートフォンの画面を見つめ、唇を噛み締めていた。
愛理に教わった通り、店のなけなしの運転資金から三十万円を抜き出し、「プット買い」を試してみたが、相場は予想したほど動かず、今や三十万円は三千円にまで目減りしていた。
「ダメだわ……こんなの、ただのギャンブルじゃない」
店の更衣室で弱音を吐く瑞希に、愛理は「えー、私、今日も儲かっちゃいましたよ」と、無邪気にスマホの画面を突きつけてきた。
そこには、瑞希が失った額を補って余りある利益が表示されている。
「え……っ?愛理さんは儲かってるの?なんで?この間はプットを『買う』って言ってたじゃない!」
驚き、詰め寄る瑞希に、愛理は人差し指を立てて軽やかに言った。
「あの日は政府の介入があったから、特別に大きく動く方を狙って『買った』んです。でも、普通はあんなに相場は動きません。だから、普段は『売り』をやってるんですよ」
「売り……?」
「ええ。この間みたいに『買い』をやってると、予想した金額を超えない限り利益になりません。でも、『売り』は逆なんです。指定した金額まで暴落さえしなければ、それで勝ち。相場はそんなに動かないので、『売り』であれば九割は儲かるんですよ。じっとしてるだけで、毎日チャリン、チャリンとお金が入ってくるんです」
その言葉は、真面目な瑞希の心に深く刺さった。
予想を当てるのではなく、株価の状態があまり変動しなければ儲かる。
それなら、私にもできるかもしれない。
愛理の言葉は本当だった。
最初は恐る恐るだったが、オプションの「売り」は拍子抜けするほど簡単に利益を生んだ。
「今月だけで、もう五十万……」
遠く離れた権利行使価格のプットを売る。
相場が多少動こうとも、その範囲に収まってさえいれば、時間の経過と共に利益が落ちてくる。
画面上の数字が増えるたび、借金が少しずつ消えていく幻想に瑞希は酔いしれた。
自分にはこの手段がある。その自信が、吉田のナメクジのような視線に耐える盾にさえなっていた。
だが、魔物は静かに、瑞希が最も安心した瞬間に口を開けた。
運命のSQ(特別清算指数)算出日を翌朝に控えた第二木曜日。
瑞希はこれまでの勝ちを「確信」に変え、ついに勝負に出た。
後場が閉まるギリギリの時間、返済のために残しておいた最後の現金や、信金口座にある運転資金のすべてを証券口座に叩き込んだのだ。
愛理のアドバイスに従い、現在の株価より遥か下にある「プット」を、証拠金が許す限りの枚数、売り建てた。
このまま何事もなく朝を迎えれば、権利は消滅し、多額のプレミアムが手に入る。
(あと一晩……。明日の朝、九時の鐘が鳴るまで何も起きなければ……)
画面に並ぶ「売」の文字を見つめながら、彼女は自分に言い聞かせた。
それは、わずかな利益を拾い上げるために、底なしの崖っぷちに両足をかけるような行為だった。
だが、注文が成立した瞬間、瑞希は地獄の淵で、救いの光を見たような気がしていた。
*2*
ところが、夜21時。
瑞希が店での接客中、大型モニターに、緊急ニュースのテロップが流れた。
『――積極財政の旗振り役であった高島総理が、健康上の理由により電撃辞任を表明しました。これを受け、日経平均先物市場では金融緩和路線の修正が意識され……』
瑞希の手から、グラスが滑り落ちそうになった。
高島総理の辞任。それは、今の株高を支えていた柱が折れることを意味する。
「まさか……」
慌ててバックヤードに駆け込み、スマホで市況を確認する。
現物市場は閉まっているが、先物市場は動いている。
画面の中のグラフは、ニュースが出た瞬間、絶壁を転げ落ちるように、垂直に落下していた。
「嘘……待って、止まって!」
瑞希は神に祈り続けたが、奇跡は起きなかった。
そして、金曜日の朝9時。総売り気配で始まった相場は、寄り付きに時間がかかり、最後の一銘柄――指数寄与度の高いファーストリテイリングが寄り付いたのは、開始から30分以上も過ぎた9時35分だった。
その瞬間、算出されたSQ値は、瑞希から何もかもを奪うほどのものだった。
「あ……」
夕方になって証券アプリの画面を確認すると口座に入っていた証拠金は跡形もなく消え去り、その横に赤い文字で、現実味のない数字が刻まれている。
『受入証拠金不足額(不足金):-23,000,000円』
「……うそ」
瑞希は膝から崩れ落ちた。二千三百万。これは夢ではない。
確定した借金だ。もし通常の取引なら途中で損切りできたかもしれない。
だが、SQまで持ち越してしまったがゆえに、夜間の暴落をすべて受け止め、逃げる間もなく損失が確定してしまったのだ。
「あ、あぁ……」
声にならない悲鳴が漏れる。
――終わった。何もかもが、音を立てて崩れ去った。
証券会社からの通知には『翌々営業日の正午までに入金なき場合、法的措置へ移行します』という定型文が添えられている。
火曜日までに二千三百万。
店を売っても足りない。そもそもそんな短期間では売れない。
秀樹にどう説明すればいい?言えるはずがない。
*3*
「瑞希さん? 顔色が真っ青ですよ」
更衣室に入ってきた愛理が、わざとらしいほど心配そうな声をかける。
瑞希は藁にもすがる思いで事情を吐露した。
だが、返ってきたのは氷のように冷たい正論だった。
「投資は自己責任ですよ」愛理は無表情に見下ろしてくる。
しかし、泣き崩れる瑞希の姿にサディスティックな満足感を覚えたのか、あるいは最初からそのつもりだったのか、彼女は小さく口角を上げ、一つの提案を投げかけた。
「……私の力じゃどうにもなりませんけど、ママなら何か知ってるかも。ママ、顔が広いから」
*
「――二千三百万、ですか」
開店前の薄暗いホール。
神崎ママは、瑞希のスマホ画面を一瞥すると、深いため息をついた。
「ごめんなさいね。うちで前借りさせてあげたいけど、さすがに桁が違うわ」
「そ、そんな……そこをなんとかなりませんか! 一生かけて働いて返しますから!このままだと、夫と共同名義のお店まで取られてしまうんです!」
瑞希はプライドも何もかも捨て、床に額を擦り付けて懇願した。
ママは憐れみなど微塵も感じさせない、冷徹な査定人の目で瑞希の肢体を頭からつま先まで精査し、その『価値』を測った。
「貴女に覚悟があるのなら……一つだけ、方法があるわ。私の知り合いが経営している『お店』があるの。そこは、あなたのようなクラスの女性なら、数千万単位の前借りが可能なのよ」
「本当ですか!?」
「ええ。ただし……いわゆる『風俗』よ。それも、会員制のね」
瑞希の背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走る。
風俗。身体を売る。
貞淑な妻として、潔癖に生きてきた彼女にとって、それは死刑宣告にも等しい選択肢だった。
「迷うのは分かるけど、二千万ものお金を担保もなく即金で用意できるところなんて、なかなかないわよ」
確かにそうだろう。今までの金策で瑞希も身に染みていた。
秀樹との平穏な日常を守るためなら、泥をかぶるしかない。退路は断たれていた。
「……行きます。紹介して、ください」
*
紹介されたのは、繁華街の雑居ビルに拠点を構える『倶楽部・アフロディーテ』。
看板もなく、重厚な鉄扉が外界との繋がりを拒絶している。
震える手でチャイムを鳴らし、無機質な事務所に通される。
そこにいたのは、黒いスーツを着たマネージャーと呼ばれる男、この道二十年の古株だった。
金に困った家出少女、借金まみれのOL、プライドだけが高い落ちぶれたモデル。
腐るほどの女を見てきた彼は、どんな女が来ようとも眉一つ動かさずに値踏みし、商品としてのランクをつける。
それが彼の日常であり、絶対的なルーチンだったはずだ。
だが、その確信は、ドアが開いた瞬間に粉々に砕け散った。
「ママの紹介で伺いました。……瑞希と申します」
入ってきた女を見た瞬間、男の思考が真っ白になった。
値踏みなどという冷静なプロセスは瞬時に吹き飛び、ただ暴力的なまでの「美」が網膜を焼いた。
そこにいたのは、この薄汚れた事務所には似つかわしくない、極上の女だった。
きめ細かな肌は、一切のくすみが存在せず、整いすぎた顔立ちは冷ややかで、男に媚びるような甘さは微塵もない。だが、その冷徹なまでの美貌が、逆に男の歪んだ支配欲を強烈に刺激する。
(なんだ、こいつは……)
男は無意識に唾を飲み込んだ。
普段ならタバコを吹かしながら横柄に対応するところだが、指先が震えてライターすら握れそうにない。
清楚なブラウスに包まれた身体のライン、わずかに覗く鎖骨の白さ、そして何より、男を見下すような理知的な瞳。
そのすべてが、どうしようもなく「犯したい」という衝動を喚起させる。
この女を、今すぐ、ここで。
商品にする前に、自分が味見をしなければ気が狂いそうだった。
プロとしての矜持も、店のルールも、目の前の圧倒的な美貌の前では無意味な塵に等しい。
だが、男の中の僅かな理性が、『まずは契約させて逃げられないようにしろ』と囁く。
「借金は二千三百万円。すぐに入金が必要とのことだが」
「は、はい……。今日中に払わないと、法的措置を……」
「なるほど。……いいでしょう。君ほどの『素材』なら、その額でも融資可能です」
男は震える指を隠しながら、分厚い契約書をテーブルに叩きつけた。
そこには、店への専属契約と、借金完済までの身体の拘束が記されている。
瑞希は唇を噛み締め、震える手でサインをした。
「契約成立だ。おい! この口座へすぐに振り込んでおけ!」
男は瑞希に「自分の力」を見せつけるかのように、部下を怒鳴りつけた。
だが、その声は上ずっていた。
「あ、ありがとうございます……!」
瑞希が安堵の息をついた、その瞬間だった。男のなかで、理性が吹き飛んだ。
「……おい」
口を開くと、自分でも驚くほど粘り着いた声が出た。
欲望に喉を鳴らし、言葉が湿り気を帯びている。
「脱げ。研修を行う。……今すぐだ」
男は荒い息を吐きながら、獲物を狙う野獣のような目で瑞希を見据えた。
「え……? ぬ、脱ぐって……ここで、ですか?」
「当たり前だ。商品の検品もせずに客に出せるか! さあ、早くしろ。もう契約したんだ。金も振り込まれてる。お前はうちの商品なんだよ」
男は無表情に、しかし全身から異様な熱気を発しながら距離を詰める。
瑞希の震える指先が、ブラウスの第一ボタンにかかる。
男はゴクリと喉を鳴らしてその胸元を凝視した。
だが、瑞希の指が止まる。
夫以外の男の前で裸になる。その現実が、脳の処理能力を超え、強烈な拒絶反応を引き起こした。
(嫌だ……無理、やっぱり無理……!)
「どうした? 早く脱げ! じらすなッ!」
男が痺れを切らし、瑞希の二の腕を掴もうとした瞬間。
「嫌ぁぁぁっ!!」
背後から飛んでくる罵声を振り切り、狂ったように事務所を飛び出した。
街の喧騒に紛れ、瑞希は何度も足をもつれさせながら走った。
背後から聞こえる気がする、マネージャーの粘着質な声。
(お金は既に振り込まれてしまったはず。でも、私は逃げた)
それが何を意味するか、瑞希にも分かっていた。
自分はもはや、ただの不運な投資失敗者ではない。
数千万の金を騙し取って逃げた、卑劣な犯罪者なのだ。
逃げれば逃げるほど、その『金』が目に見えない鎖となって、瑞希をあの暗い事務所へと引き戻そうとしていた。
【ここでは完】
『小説家になろう』の規約的にこれ以上はアダルトカテゴリになってしまうため
これ以降は下記私のブログで完結までやります。※既に新章もあります。
もしよかったら最後までお付き合いください。
http://misa770.blog.2nt.com/
※※※
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