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##第2章 陥穽##

##第2章 陥穽##

*1*

季節が二つ巡る頃には、地元で評判だった輸入雑貨店は無惨な姿へと変貌していた。

「承認が下りました。追加融資、実行されます」

地元の信用金庫、その狭苦しい応接室。

顔なじみの担当者が提示した書類には、秀樹が想定していた倍近い金利が記載されていた。

法外とまでは言えないが、今の経営状態には致命傷になりかねない数字だ。

「こ、これは……金利が高すぎませんか? これでは利息を返すだけで精一杯だ」

「ええ。ですが、日銀が政策金利を上げていますし、今の御社の状況ですと……嫌なら、他を当たるしかありませんよ」

担当者は冷ややかに言い放ち、書類を指先で弾いた。

他を当たれと言われても、地元の信金に断られた零細企業を他の信金や銀行が相手にしてくれるわけがない。

この信金に頼る以外、道はないことは秀樹自身が一番よく分かっていた。

「……分かりました。これで、お願いします」

秀樹は震える手で判を押した。

それは救済の契約ではなく、終わりのない自転車操業への片道切符だった。

それからの毎日は、底なしの泥沼を歩くようだった。

借りた金は、右から左へと仕入れと返済に消えていく。

円安は止まらず、利益は薄いまま。

必死にペダルを漕ぎ続けなければ、即座に転倒する。

「クソッ……! 今月も足りない……!」

閉店後の薄暗い店内で、秀樹は売上金を数えながら頭を抱えた。

焦燥感を誤魔化すために、最近はウイスキーの量が増えている。

アルコールで神経を麻痺させなければ、不安で押し潰されそうだった。

そんな荒んだ夫の背中を、瑞希は悲痛な面持ちで見つめていた。

*2*

「秀樹。……相談があるの」

数日後の夜、食卓の重苦しい沈黙を破ったのは瑞希だった。

彼女は決意を秘めた瞳で、憔悴した夫を見つめた。

「『クラブ・ルージュ』のママ……神崎さん、覚えてる?」

その名前に、秀樹は顔を上げた。神崎という女性は、かつての常連客だ。

いつも上品な着物を粋に着こなし、高価な北欧食器を「素敵ね」と微笑みながら買っていったものだ。

水商売特有の毒々しさがなく、知性と品格を感じさせる女性で、秀樹も好印象を持っていた。

「ああ、覚えてるけど……彼女がどうした?」

「今日、わざわざお店に来てくれて……店の状況、分かってたみたいで、『生活の足しに、うちで働かないか』って」

「は……?」

秀樹は絶句した。

瑞希が、夜の店で働く?会員制クラブで?

「ふざけるな! お前をそんな水商売に行かせられるか! 俺のプライドが――」

「じゃあ、来月の返済はどうするの!?生活費は?」

瑞希が声を張り上げた。初めて見る妻の激情に、秀樹は言葉を失う。

「……もう、限界なのよ。あなたが苦しんでるのを見てるのも、私が何もできないのも。……大丈夫よ、神崎ママのお店だもの。変なことにはならないわ。『座ってニコニコしててくれるだけでいい』って言ってくれてるの」

秀樹は押し黙った。

確かに、あのママの店なら、客層も地元の名士ばかりで荒っぽいことはないだろう。

何より、他に選択肢がない。

自分の甲斐性のなさが、最愛の妻を夜の街へと送り出すのだ。

「……すまない。借金が片付くまでの、短期間だけだ」

「分かってる。あなたとこの店を守るためなら、私、なんだって平気よ」

瑞希は優しく微笑んだが、その笑顔は、どこか悲壮的ですらあった。


数日後

瑞希は夜の蝶となった。

予想通り――いや、予想以上に、彼女の「デビュー」は鮮烈だった。

地域一帯で「輸入雑貨店のクールビューティー」と噂されていた彼女が、夜の街に出たという情報は、瞬く間に有力者たちの間を駆け巡った。

シックなイブニングドレスに身を包み、長い髪を艶やかに巻き上げた瑞希。

その冷ややかな美貌と、時折見せる素人ゆえの危うさは、遊び慣れた男たちの嗜虐心と征服欲を強烈に刺激した。

瑞希の周りには常に黒服が控え、金と暇のある男たちが列をなした。

ママの言う通り、男達の瑞希への扱いはかなり丁重だった。

だが、秀樹の心は晴れるどころか、どす黒い嫉妬と不安に蝕まれていく。

酒と煙草と、他人の香水の匂いをまとって帰宅する妻。

その肌が、心なしか以前より艶めいて見えるのは、気のせいだろうか。

気だるげに眠る瑞希の横顔を見つめながら、秀樹は激しい自己嫌悪に身を焦がした。

自分の無能さが、あんなにも清らかだった妻を、男たちの視線に晒される場所に突き落としたのだ。

喉の奥まで出かかった「もう辞めてくれ」という言葉を、秀樹は吐き気と共にウイスキーの残りで流し込んだ。

そして、ある雨の夜。

危惧していた「最悪の客」が、ついに『ルージュ』の扉を開いた。

「……へえ。昔からいい女だと思ってたが、着飾ると化けるな」

VIPルームの革張りソファに深々と腰掛け、下卑た笑みを浮かべる男。

地元の名士であり、信用金庫の理事でもある、あの吉田だった。


*3*

外の喧騒が嘘のように遮断された『クラブ・ルージュ』のVIPルーム。

そこは、選ばれた人間だけが足を踏み入れることを許される、金と権力の匂いが充満する密室だ。

「……いらっしゃいませ。吉田様」

瑞希は惨めさで震える膝を必死に抑え、完璧な営業スマイルを貼り付けて一礼した。

目の前のソファには、吉田がゆったりと脚を組んで座っている。

上質なスーツを着崩し、テーブルにはすでに最高級のクリスタルボトルが置かれていた。

「固くなるなよ、瑞希ちゃん。こんなナリで、人妻なんだよな」

「本当ですか!信じられませんね」

吉田の取り巻きの一人がわざとらしく声をあげた。


「お久しぶりです。……まさか、お店でお会いするなんて」

「俺はこの街のタニマチみたいなもんだからな。評判の美人が入ったと聞きつけちゃ、挨拶に来ないわけにはいかないだろ」

吉田の視線が、瑞希の全身を舐めるように這う。

大きく開いた背中、胸元の膨らみ、スリットから覗く白い太腿。

直接触れられているわけではないのに、肌にまとわりつく、ナメクジのような視線に、瑞希の肌が粟立あわだつ。

だが、拒絶することは許されない。

彼は客であり、今の瑞希は店のホステスなのだ。

瑞希は逃げ出したい衝動を抑え、吉田の隣に腰を下ろした。

太腿が触れ合うギリギリの距離。男の香水と、微かな煙草の匂いが鼻孔をくすぐる。

「……水割りで、よろしいですか?」

「ああ。濃いめで頼む」

瑞希は手慣れたふりをしてグラスを作り、吉田へと差し出す。

受け取る際、吉田の指が瑞希の指先を意図的に、ゆっくりと撫でた。

ビクリと指先が震える。

「しかし、驚いたよ。あの高嶺の花だったお前が、こんな場所まで降りてくるとはな。……旦那の店、そんなにヤバいのか?」

核心を突く言葉。

瑞希は呼吸を止めた。この街の情報は、すべてこの男の耳に入っているのだ。

「……いえ、そんなことは。少し、社会勉強のためにと」

「嘘をつくなよ」

吉田の声色が、ふっと低くなった。

彼はグラスを置き、瑞希の方へと身体を傾ける。

逃げ場のない圧迫感。

「俺もあの信金の理事の一人だぞ。自転車操業で火の車。旦那は酒浸りで、お前を店に出した。……あいつも落ちたもんだな。大事な嫁を、俺みたいな男の前に晒して」

「主人のことを悪く言わないでください!」

瑞希は思わず声を荒らげ、ハッとして口を押さえた。

客に対してあるまじき態度。

だが、吉田は怒るどころか、愉悦に歪んだ笑みを深めただけだった。

「いい度胸だ。……だが、現実はどうだ? お前がここでいくら愛想を振りまいたところで、あの高金利じゃ焼け石に水だぞ」

正論だった。

今の稼ぎで急場はしのげても、借金の元本は減らない。

このままでは、いずれ破綻する。

絶望に俯く瑞希の耳元で、吉田が悪魔の囁きを落とした。

「……俺なら、なんとかしてやれるぜ?」

瑞希が顔を弾かれたように上げる。

「俺も信金の理事だが、理事長は俺の親父だ。俺が口を利けば、金利の引き下げはおろか、返済のリスケジュール、あるいは……借金そのものを『別の形』で処理することもできる」

「……え?」

「簡単なことだ。お前が賢い選択をすれば、旦那も店も助かる。……どうだ? 悪い話じゃないだろう」

「……お断りします」

瑞希は吉田の手を振り払い、毅然とした声で告げた。

その瞳には、かつて「氷の美女」とまで呼ばれた頃の冷ややかな誇りが宿っていた。

「店の借金は、夫婦で返します。私はホステスとしてお酒は作りますが、それ以外のサービスをするつもりはありません」

きっぱりとした拒絶。

一瞬、場の空気が凍りついた。取り巻きの男たちが息を呑む。

だが、吉田は怒るどころか、喉を鳴らして愉快そうに笑った。

「ハッ、いいぞ。その強気な目……ゾクゾクするな。だが、覚えておけ。金ってのはな、綺麗事じゃどうにもならねえんだ」

吉田はそれ以上無理強いせず、意味深な視線を残して席を立った。


瑞希はその場を何とか凌いだものの、バックヤードに戻った瞬間、緊張の糸が切れて化粧台に手をついた。

「はぁ……はぁ……」

手は震え、冷や汗が止まらない。

瑞希は取り憑かれたように、吉田が触れた右手の指先をおしぼりで何度も、皮膚が赤くなるまで擦った。

どれだけ拭いても、ナメクジが這ったようなあの嫌な感触が消えない。

断ってしまった。信金に口を利いてもらえる、唯一のチャンスを。

来月の返済日は待ってくれない。

このままでは店は潰れ、連帯保証人である自分たち夫婦は終わる。

どうすればいい。どうすれば、この借金地獄から抜け出せる――。

「瑞希さん、お疲れ様です。……随分と顔色が悪いですね」

声をかけてきたのは、店のナンバーツーである愛理あいりだった。

今どきの派手なメイクをした若い子だが、お金に対する嗅覚は鋭いと評判だ。

「……ええ。少し、目眩がしただけ」

「ふーん。眩暈の原因は、あの輸入雑貨店の運営資金とか?」

愛理は瑞希の隣に座ると、スマホを取り出した。

慣れた手つきでスワイプしていき、とあるチャートを表示させる。

「ねえ瑞希さん。いい方法ありますよ」

「え……?」

「これ、見てください」

画面には、激しく乱高下するグラフと、数字の羅列が映し出されていた。

「『日経225オプション』。聞いたことあります?」

「名前くらいは……でも、株とか投資なんて、元手がないと」

「それが、オプションなら少額からでも一発逆転が狙えるんですよ。特に政府介入で荒れてる今が、一番のチャンスなんですよ」

愛理はニヤリと笑い、直近の取引履歴を指差した。

「ほら。これ、さっき待機中にポチッとしたやつ」

そこには、『損益:+450,000円』という数字が鮮明に表示されていた。

瑞希は目を疑った。

自分が客のセクハラに耐え、必死に働いて稼ぐ金額を、この子はほんの数十分で、しかもゲーム感覚で叩き出しているのだ。

「うそ……数十万も、こんな一瞬で?」

「ええ。『プット(売る権利)』を買ってたんです。

相場が崩れれば、利益は何十倍にもなる。……お店で安定したお金を稼ぎつつ、これで借金を返していくというのも良いかもしれませんよ」

その言葉は、今の瑞希にとって何よりも甘美な響きだった。

吉田のような男に媚びず、汚されず、自分たちの「城」を守れる。

日銀が金利を上げ、自分たちの店を苦しめているのなら、世の中の景気だって悪くなるはずだ。

株価が下がる方に賭けるのは、今の状況なら理にかなっているのではないか――。

画面の中で明滅する数字が、まるで暗闇に差し込む救いの光のように見えた。


「大儲けして機嫌が良いから、特別にやり方、教えてあげる。……瑞希さん、頭いいからすぐに覚えられるわよ」

愛理の誘いに、瑞希は吸い寄せられるように画面を覗き込んだ。


http://misa770.blog.2nt.com/

制限なく自由に書けるため、メインの活動は上記ブログで行っています。

もし良かったら暇つぶしにどうぞ。


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