水に
その日の夜、僕は街外れの小さな食堂に足を踏み入れた。外の冷たい雨がガラス窓を叩き、薄暗い店内に不規則な音を響かせる。店主らしき老人は黙々と鍋をかき混ぜていて、客は僕だけだった。
僕はカウンターに座り、ぼんやりとメニューを眺めた。「水煮」という文字が、紙の上で妙に浮かび上がって見える。湯気に濡れた文字は、まるで僕を呼ぶかのようだ。
「水煮を……一つください」
声が思ったよりも小さく、震えていることに気づいた。老人はただ頷き、奥の厨房へ消えた。やがて、湯気の立つ小さな鍋が僕の前に置かれた。中には透明な水の中に、白く、まるで生きているかのようなものが揺れている。
「……魚?」
声に出すと、老人が微かに笑ったような気がしたが、すぐに鍋を拭く手に集中してしまった。水面に浮かぶそれは、形は人間に近い。指のようなもの、足のようなもの、わずかに動いているように見える。
恐怖が胸を締め付ける。だが、奇妙な好奇心が勝った。箸を取り、そっと水面に差し入れる。冷たい。指先にぬめりがまとわりつく。思わず息を呑むと、鍋の中の「何か」が、わずかに反応した。
「……動いた?」
その瞬間、水面が波打ち、沈んでいた白いものが浮かび上がる。見た瞬間、僕の胃がひっくり返る。手首ほどの長さの、小さな人影のようなものが、透明な水の中で口を開け、僕を見上げている。
僕は思わず箸を落とした。鍋の水が揺れ、白い人影が器の端に寄る。水の中で、うめき声のような微かな音がする。息が詰まる。耳を澄ますと、厨房の奥で老人が包丁を研ぐ音が、規則正しく響いていた。
「水煮は……新鮮なうちに食べないとね」
低い声が、背後から聞こえたような気がした。振り返ると、老人は何も言わず、鍋の方を見ているだけだった。しかし、その目は異様に光り、何かを確かめるように僕を見つめていた。
箸を拾い、水煮に再び差し入れる。小さな人影が、水面でひらりと跳ねる。水の中で指が動き、まるで助けを求めるように僕を掴もうとする。思わず後ずさり、椅子に背中をぶつける。
「やめ……やめて……」
声が震える。しかし、恐怖と好奇心の狭間で、手は勝手に動き、箸がその小さな人影をつかんでしまう。冷たい感触が、指先から腕まで伝わる。
その瞬間、水面が赤く染まった。鍋の底から、透明な水に血が滲み、白い人影の輪郭が赤く縁取られる。目を見開いたままの人影は、かすかな声で僕を呼ぶ。
「……た……す……け……」
耳に直接語りかけるように、かすれた声が響く。胸が押し潰されそうになる。僕は叫びたかったが、声が出ない。指先の感触は、もはや箸では扱えない、重量と柔らかさを伴っていた。
「美味しいよ……」
背後から、老人の声が聞こえた。微笑んでいるようにも見える。その笑顔は人間のものではないように思え、背筋が凍った。鍋の中で、人影は再び水中に沈む。しかし、水面が揺れ、白と赤の混ざった水が波打ち、まるで僕の心を映しているかのようだった。
僕は立ち上がり、店を飛び出そうとした。しかし、雨の夜、街灯もまばらな路地で、足元が滑り、転倒する。振り返ると、食堂の窓には、白い人影がこちらを見つめていた。目は見えないはずなのに、僕を追っている。
家に帰り着き、部屋の明かりをつける。恐る恐る鍋のことを思い出すと、背筋に冷たい汗が流れた。だが、何かが足元でひそひそと動く気配がする。振り返ると、テーブルの下、黒い影の中に、あの水煮の小さな人影が座っていた。
「……また来たの?」
声が頭の中で響く。見えない目が、僕を貫くように見つめる。恐怖で足がすくむ。箸を取る手は震え、心臓が爆発しそうだった。
その夜、僕は眠れなかった。水の音が、耳元でざわめき続ける。小さな声が囁く。
「水煮を……食べて……」
冷たく透明な水の中で、何かが生きている。明日も、またあの店に行かなければならないのか。恐怖が胸を締め付けるたび、僕の中で、奇妙な渇望が芽生える。水煮を――いや、それ以上のものを、確かめたい。
朝になっても、恐怖は消えなかった。テーブルの上に、昨夜の水煮の残りの鍋が、なぜか置かれている。水面は静かだが、赤い縁取りがわずかに見える。小さな指先が水の中でかすかに揺れる。
僕は箸を手に取る。恐怖と好奇心が混ざり合い、理性が逃げ出す。やがて、僕の世界は、恐怖の水煮に呑み込まれる――。