0.2.0 ポトフちゃん罪の味を知る
「それじゃ、色々お世話になりました。」
「うむ、またゲーム内でな。」
担当さんに手を振って別れを告げると、段々と淡い光に包まれる。徐々に眩しさを増す光に、思わず目を閉じる。
しばらくそうしていると、まぶた越しに感じる太陽のような輝きが、段々と星の様な小さな瞬きに変わり、ゴウッと一陣の風が吹き抜けた。
「わぁ……!」
突風に驚き目を開くと、そこは森の中だった。
まばらな木漏れ日が、暖かく頬をくすぐっている。
肺を満たす空気は、青臭く湿って、それでいて清々しい匂いがする。
さわさわとした囁く様な、やわらかい葉擦れの音に鼓膜が震える。
目が耳が私の五感のすべてが覚えている。そして、この世界ではきっと、一生かかっても目にすることが叶わないかもしれない、この緑を私は知っている。
遠い昔に、記憶の片隅に追いやっていたはずの気持ちを思い起こさせたこの風景に、すこしだけ、ほんの少しだけ、泣きたくなった。
「ふぅ……すごい……」
喉元までこみ上げる、ぐるぐるとしたわだかまりを、深呼吸とも、ため息ともとれる息遣いでおしとどめる。改めて辺りを見回すと、あまりのクオリティの高さに、感嘆の声が出た。動画や、画像だけの情報でつくられたとは思えないほどだ。
どこか上の空で歩を進めると、目の端に何かが映る。勢いよく振り返り、新緑の背景の中に疎らにある、鮮烈な赤を目に捕えると、ドクドクと、心臓が早鐘を打ち始める。
口の中に溜まった、ツバを飲み込むゴキュリという音が嫌に響く。思ったよりも近くにあった“それ”に、震える手を伸ばしそっともぎ取る。
知恵の実だなんて、よく言ったものだ。きっと、この味を知ってしまえばもう戻れない。私はきっと“おいしい”を知ってしまう。食べてはいけないという本能を、わずかに残った理性で押さえつけ、戦慄く唇を寄せ、
しゃくり……
しゃくり……
しゃくり……ぽたっ
しゃくり……ぽたっ……ぽたたっ
まさに甘露であった。
天にも昇る気持ちとはこういうことか。
口内に広がる甘く瑞々しい芳醇な香り。甘さの影に隠れた淡い酸味。その一つ一つが薪となり私の脳内をふつふつと煮たたせ、気が狂いそうなほどの歓喜が私の身体を満たしていくのを感じる。
ただ1つ。奇妙なことに、ほんのり塩味がした。
腕を伝う果汁を舐め取り、食事を終えると、暫しの間ぼうっとしていたが、ふいにゆらりと立ち上がる。そのまま陽の差す方へ、ふらふらと幽鬼のように歩き出すと、1分もしないうちに開けた場所へ出た。
そこには天をつくほどに、はたまた、ゲーム内の空を支えているかの様にも見える、巨大な一本の木が悠然とそびえ立っていた。
呆然とそれを見上げていると、どこからか声がかかる。
「珍しいのぅ。斯様なところにたんぽぽの精が来るとは。」
ハッとして木から視線を下ろすと、目の前にいた!
木の側に立っているその人(?)は、焦げ茶色の長い髪に、長いヒゲを蓄えていて、そのところどころに葉っぱの様なものが生えているようにみえる。髪よりも薄い、焦げ茶色のローブを着て、身長と同じくらいの長さの大きな、木でできた杖を持っている。
あと、デカイ。ちょっと離れた私の視点からでも、2メートル近い身長なのがわかる。どう見ても、この大樹の精だね。
そしてなによりこの声は───
「担当さんですか?」
「そうじゃよ。」
その返事に何だか安心したのは内緒の話だ。
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担当さん……基、『ゴインキョ』さん(他のスタッフさんたちからそう呼ばれているらしい)と合流したところで、いろいろと質問をぶつけてみる。
「ゴインキョさんも植物種族だったんですね。」
「これはなぁ、お主がアバターを創っとる間にわしもつくったんじゃよ。」
「えっ、そうなんですか?じゃああの神さまは?」
「あれはなぁ、最終的にはアバター作成するときに、わしがやっとったようなヘルプ役の、NPCになる予定のアバターでな、今はわしらが入って、プレイヤーとのやり取りをAIに学習させとるとこなんじゃ。」
「神様と顔立ちが似てるのはなんでですか?」
「どっちもモデルはわしじゃからな。」
えっ、もしかしてガチおじいちゃんなの?と一瞬よぎった質問は置いておいて。
「なんでこのタイミングで創ったんですか?もう既に、ゲーム内で色々作ってるスタッフさんもいるって聞きましたけど。」
「元々、神さまみたいな裏方に徹するつもりだったんじゃが……いやなに、お主のキャラメイクを見ておったら、創作意欲が湧いてきてのう。それに、画面越しにやり取りするよりも、ゲーム内でお主と冒険するほうが楽しそうじゃ。」
「もしかして今口説かれてますか?」
「生憎じゃがわしには、現実世界に愛する妻も娘たちも息子たちも孫たちもおってな……。」
「やっぱりガチおじいちゃんだ!」
「そうじゃが?」
しかも大家族っぽい。ちょっと内訳が気になるけど、流石にリアル事情の詮索はしない。
「ちなみに息子と孫が一人ずつ、ここの制作陣におるぞ。ゲーム内で会うかもしれんのう。」
……詮索はしない。
「そ、そういえばいきなり森の中でびっくりしました。なんというか……いいですね。この場所。」
「ふおっふぉっ。そうじゃろそうじゃろ、わしはこの場所が好きでな。本来、お主のような植物系の種族は、この木がある国の、街の側に出るんじゃが、どうせ始めるならこの場所からと思ってな。開発者側の特権ってやつじゃ。」
「空気も美味しいし、リンゴも美味しいし。私も好きです!」
「……うん?」
リンゴがあるなら、木になる果物……モモとかミカンとかあっ「ちょ、ちょっと待ってくれ。」たりしないかな?
「どうかしました?」
「何が何で好きって?」
「えっと、空気とリンゴが美味しくて好きって。」
「空気……は置いといて、リンゴ、はあの赤くて丸い奴じゃったな?」
「そうです。甘くてみずみずしくて美味しかった〜。」
「……味がしたのか?」
そうか食べたことないんだから、味なんてわかんないよね。
私のこれには、ちょっとした事情があるのだ。前世の味を渇望するに至った、ちょっとした事情が。
「共感覚って知ってます?」
「あ、あぁ。100人に1人いると言われとる、文字に色を感じたり音に触覚を感じたり……それか!」
「そうですね。私のは、動画とか写真に映った、食べ物だったり風景を見ると、味や匂いを感じるみたいです。」
もっと細かくいうと、写真を見る→映っていたものを頭の中に思い浮かべる→味がする!匂いがする!ってかんじ。
でもそれって合ってるの?リンゴからイチゴの味したりしない?と思われるだろうが、少なくとも私の感覚では、記憶にある味と、口の中にある味との齟齬は感じなかった。食べたことの無いものに関しては、ちょっと自信ないけど。
匂いに関しては間違いない。なんてったって、前世の記憶を思い出したきっかけが『イチョウの並木道の画像』だったからね。落ちた銀杏……踏まれた銀杏……うっ……
「実物と全く同じかって聞かれると困りますけど、私としては同じだって信じてます!」
「なるほどなぁ……そういうことじゃったか……」
なんだか納得された。
曰く、私が食べちゃったリンゴは、あくまでフレーバー的な要素であり、触ったり、アイテムとして取得はできるけど、間違ってもかぶりついて貪り尽くす様な物ではなかったらしい。──これは後から聞いた話だが……私が滂沱の涙を流しながら、獣のようにリンゴに喰らいつく様子を見ていたスタッフがいたらしく、ログアウト後にカウンセリングを勧められた。解せぬ。──
そもそも、私の『料理した〜い。ご飯食べた〜い。』も、そういうオブジェクトを創りたがってると思われていた。そりゃトイレ扱いされるわ……