最後に泣くのはあなたの方
「なぁ椿ー、今何してる?」
リビングから聞こえる間延びした声。
ご飯の準備を始めたばかりなのに、彼はそんなこと忘れて尋ねてくる。
「さっきご飯作ってるって言ったじゃん。もうすぐだから静かにしてて」
できる限り静かに返事をしたつもりが、語尾が強くなってしまった。
「なんか怒ってる……」
私に向けてなのか、ただの独り言なのかは分からないが、そんな声が聞こえたあと、足音が近づいてきた。
両肩にずしりと重みが加わり、後ろから覆いかぶさられたことを理解する。
顔を少しだけ向けた。
「もしかして、腹減ってイライラしてる?あ、今日鍋?冬にピッタリ」
熱湯でもかけてやろうかと思った。
まな板に視線を戻した私の黒髪に、彼はちゅっと音をたてた。
それと同時に、鼻腔に入ってくる濃い花の香り。
私のものではない。
「修也、臭い」
「え……まじ?そんな汗かいた覚えないんだけどな」
袖や襟の匂いを嗅いでいるのを、私はため息をつきながら見た。
帰りが遅いと思っていたが、やっぱりか。と脳内で呟く。
「シャワー浴びてきて」
「あ、うん……わかった。なぁ、じゃあ椿も一緒に入ろ?」
なんで違う女の匂いを纏った人とシャワーを浴びなきゃならないんだ。「今それどころじゃないから無理」と拒絶すれば、修也は数秒の沈黙のあと、小さな足音をたてながら浴室へ向かった。
修也の浮気が発覚した当初。私は捨てられたくないという気持ちから何も言わずに耐えていた。
が、我慢も限界があるらしく、数ヶ月すると私の恋心は徐々に冷めていった。
なので別れようとした。けれど話をしようとすると毎回、修也とタイミングが合わない。
「大事な話がある」と切り出すと、修也は早口で疲れたから寝るねと言って布団に潜り込む。「別れよう」と直接伝えようとすれば、わか、の部分で無理やり口を塞がれ、ベタベタ触れようとしてくる。
その他にも空いてる時に話を切り出したり、濁しながら言ったりしたが、全て無駄に終わった。
意図的にやってるのかと思ったが、私に浮気がバレてるとは気づいていないようだし。何がしたいのか分からない。私のことは忘れて、浮気相手となかよくしてればいいのに。
出ていくことも考えたが、なぜ被害者の私が逃げなきゃならないんだ。
ドロドロしたものがお腹に溜まる。ぎゅっと目をつぶって綺麗なものを想像した。
青空、湖、花……花といえばさっきの香水……臭かったな。というか、修也も、不快な匂いを纏わせてるくせに、私へのスキンシップがやたらと多いんだよな。あぁ!ムカつく。また最悪な気分になってきた。
「……とりあえず早く作っちゃお」
調理途中だった鍋に、野菜を入れる。
煮込んでる最中、机に置いていたスマホから通知音がなった。
なんだろうと画面を確認すると、会社の後輩からだった。内容は、資料の確認をして欲しいというものだ。返事をすると既読がつき、メッセージが返ってくる。そうして話がひと段落したころに、急に「明後日ご飯行きませんか?」と誘われた。
最近よく話しかけてくる後輩。多分、いや絶対、好意を向けられている。それに気づかないほど、私は鈍感ではない。
断ろうとして、私は手を止めた。
浮気、という単語が頭をかすめる。
やり返す。そんな最低な考えが浮かんだ。
わざわざ修也と同じ土俵にたつ必要がないのは分かっている。けれど、別れられないのなら、恋人を作ってそうせざるを得ない状況にすればいい。
もし逆ギレしてきたら修也の浮気を指摘すれば何も言えないだろう。修也のポケットに入っていた、誰のものかも分からない口紅が、私の部屋にある。いざという時はそれを証拠として……。
脱衣場から物音がして、私は即座に了承のメッセージを送り、電源を切った。
「椿」
体温が下がる。
顔を出した修也に、どうしたのと口角をあげて答えた。一瞬動きを止めた修也は、なんでもないと呟き、リビングの椅子に座った。
ここ数ヶ月、笑顔を見せてなかったことに気づき、違和感を持たれたかもと下唇を噛んだ。
まぁ、バレたところで、どうにでもできるし大丈夫だろう。
鍋に調味料を入れるのと同時に思考をかき消した。
次の日、会社が休みの私は、息苦しさを感じ目を覚ました。
うなじにあたる生暖かい空気に、ひっと声を漏らす。
寝る前に布団で壁を作っていたが、意味はなかったようだ。
私の体を締め付ける修也の腕を、ブンと追い払い、ベッドから這い出た私は、近くのスリッパをつま先で引き寄せ履いた。
手首に体温を感じ、振り返ると、修也が目を細めながら私に話しかけてきた。
「……椿、どこ、いくの」
「どこって、顔洗いにいくだけ」
立ち上がろうとしたが、修也の力が思ったよりも強く、私は後ろに、ぼふんと倒れ込んだ。
体に巻きついてくる腕。
振り出しに戻ってしまった。
「ちょっと、やめてよ」
「……今日、土曜日だよ、もう少し寝よ」
「やだ、離して」
手をつねれば、ゆっくりと離された。
「……やっぱり、最近冷たいよね、なんで?……そうだ、デートしようよ、全然行ってなかったじゃん」
原因は全て修也だというのに、なぜ被害者のような顔をするのか。とっくに戻れない状態になってるのに。
「家にいたいからいい。あ、あと明日、後輩とご飯食べにいくから」
「そっか、分かった……俺も……明日出かける」
下を向いてしまった修也の表情は見えない。けれど私にはどうでもよかった。
***
「ごめんね、正樹くん!遅れちゃって、待ったでしょ?」
「全然大丈夫です!先輩こそ、来る時怪我とかしてないですか?」
人懐っこい笑みを浮かべる後輩。
なんて気遣いの出来る子なんだと感動しながら、私は返事をした。
家を出る前、修也が私の服を引っ掴んできたせいで、到着時間がズレてしまった。
やめてといったのに、何やらブツブツ言いながら全然手を離さないので、無理やり引き剥がした。
俺も出かける、と言っていたのに、着替えてすらいなかったし。相変わらず何を考えてるのか分からない。
「先輩、大丈夫ですか?」
眉を下げて心配してくれた後輩に、我に返り、慌てて答える。
あいつのことなんか考えずに、今日は美味しいものを食べて忘れよう。
後輩がおすすめだと言う飲食店に行き、私たちは会話に花を咲かせた。
食べ終わりそうな頃、後輩が急に真剣な眼差しで私を見つめてきた。
「先輩って、彼氏、いますか?」
「え」
急に振られた恋愛の話に、私は箸を持つ手を止める。
「……一応、いるよ」
「あ……そうなんですか」
後輩は分かりやすくテンションを下げ、「急にすみません!」と笑いながら水をごくごくと飲む。
気まずい雰囲気になった。
話題を変えようとする後輩に、私は口を開く。
「でもね、実は全然上手くいってなくて、彼氏、浮気してるの」
可哀想だと思われたくなくて、なるべく大きな声で、「本当に最悪だよねー!」と笑いながら伝える。
後輩は目を見開き、固まっていた。けれど数秒経ってから「最低じゃないですか!」と私より大きな声を出し、バンと勢いよく立ち上がった。
すぐに我に返りすみませんと言葉にするのを見て、私はふっと声を漏らしてしまう。
「あ、笑わないでくださいよ!つい感情的になっちゃっただけです……」
「ふ、ふふ……うん。分かってる」
顔を赤く染めてる後輩。不覚にも可愛いと思ってしまった。
「……ところで、別れよう、とは思ってるんですか?」
唇を引き結び、問いかけてきた。
私は「うん」と答える。
「そ、そうなんですね。じゃ、じゃあ、僕、手伝います!別れるの!好きなように利用していいので、先輩の役に立たせてください!」
ガッツポーズをしてキラキラと眩しく笑う後輩は、柴犬のようだ。可愛い。
「ありがとう」
***
満腹になった私と後輩は、店を出た後、大通りを歩いていた。
空は暗いけれど、木に取り付けられたイルミネーションのおかげで、道は明るかった。
クリスマスはまだ先。ずいぶんと気が早い。
綺麗だねとつぶやくと、隣にいた後輩は、私の名前を呼んだ。
「せんぱ……椿さん。もし、彼氏と別れたら、クリスマス。僕とイルミネーション見に行きませんか?」
私を見る後輩の瞳は、キラキラと輝いている。それがライトによるものなのか、そうじゃないのか、私には区別がつかなかった。
男の顔をした後輩に、どう返事をしようか考えていると、視界の端に見知った人物が映った。
私は無意識にその人の名前を呼ぶ。
「修也……」
人も多かったし、小さな声だった。
だから、聞こえるはずないのに、少し先にいる修也は、顔を上げた。
視線があった瞬間、修也は大きく目を見開いた。
私は修也の横にいる女。
多分、浮気相手であろう人を見つめた。
後輩が首を傾げながら私に話しかけてくる。
修也は紙をクシャクシャにしたみたいな表情で腕に巻きついた女を振り払い、走ってきた。
私の足は縫い付けられたように動かない。悲しいという感情は湧かなかった。
実際には数分も経っていないだろうけれど、時間が酷く長く感じた。気づいたら傍に来ていた修也は、私の肩をがしりと掴むと「違う、違うんだ、違う!」と壊れたおもちゃのように繰り返した。
「先輩、えっと、この人どなたですか……?」
困惑しながら後輩が尋ねてきたので、私は「彼氏だった人」と答える。
後輩は口を開け、それからなるほど、と全てを察した。
「だった?な、なんで、ご、ごめ、違う、違うんだ椿!」
泣きそうな、というか、ほぼ泣いている修也は、力を込めながら私に言い訳をしようとしてくる。
無駄だということにも気づかず。
「何が違うの?今の彼女はそちらの、後ろにいる方なんでしょ。あぁ、それと、修也のポケットに、私じゃない人の口紅が入ってたけど、彼女さんのだった?」
修也は目をまん丸にして、「え」とこぼした。
追いついた彼女は、機嫌が悪い。
置いていかれたのが気に食わなかったのだろう。
「ねぇ急に何?どうしたの?」
喋りかける彼女を見もしないで、修也は私の体を力強く抱きしめる。
ごめん。
違うんだ。
好き。
ずっと同じ言葉を吐き出す。
ため息をつくと、私にまとわりついた塊はビクリと体を跳ねさせた。
力が緩んだ瞬間に、数歩後ろに下がって距離をとる。
そんな私を見て、修也の目には、先程よりもさらに涙が溜まった。
うんざりして顔を逸らした先には、口を引き結んだ後輩が立っていた。
面倒事に巻き込んでしまって申し訳ないなと思った瞬間、がしりと骨ばった手に掴まれる。
「先輩、行きましょ」
その手が後輩のものだと気づく前に、私はどこかへと連れ去られた。
走る後輩のスピードに、足をもつれさせながらもついて行く。
遠くに見えた修也は、一瞬固まっていたけれど、すぐに追いかけてこようとしてきた。でも、つまづいて、べシャリと地面に顔をぶつけていた。
「あーあ……」と、まだ一応彼女ではある私は、他人事のように思った。
しばらくして、やっと足を止めた私たちは、断続的な息を漏らしていた。
顔を上げて周囲を確認すると、全く知らない場所だった。
私の前に立つ後輩は、胸を抑えて呼吸を整えた後、すみませんと謝ってきた。「……勝手に連れてきちゃって、僕、関係ないのに……。でも、ほっとけなくて」と続けた。
私は、首を横に振る。
「ううん。助かった」
だから謝んないでと、俯いた顔をそっと覗き込む。
「わっ」
叫んだ後輩は、半歩後ずさり、そっぽを向いた。髪から少し出ている耳は、辺りが暗くても分かるほど、真っ赤に染まっていた。
なぜここで赤くなったのか分からず、私は「え、ごめん近すぎた?」と問う。
「あ、そ、そうじゃなくて、あ、いや、近いのもそうですけど……あ、別に嫌とかじゃないですよ?ただ、なんか、いい匂いするなって……あ、ちが!うわ!な、なんでもないです!」
急に早口になった後輩に、私は口を開ける。
え、匂い?
私、カメムシみたいに匂い放ってるの?
あ、だから修也も首元に鼻近づけてくるのか。
ずっと疑問に思っていたことの理由が分かり、背筋がブルりと震えた。
今度からなるべく離れとこ。
あ、今度とかないや。
一人の空間に入っていると、顔を赤くした後輩が、お札を私の手に押し込んできた。
「す、すみません先輩。き、キモかったですよね、あ、あはは、じょ、冗談です。これタクシー代なので、これで帰ってください。あ、あと、ぼ、僕のこと嫌いにならないで欲しいです。な、なんて!じゃ、じゃあまた明日、会社で!」
私に喋る隙も与えないまま、後輩はスタスタと歩いていった。
さっき走ったばかりなのに、よくあんな体力があるなと背中を眺める。色々お世話になったし、今度お菓子でも渡して謝ろう。
後輩の言っていたことは、全然よく分かんなかったけど、まぁいいかとタクシー乗り場に向かう。
せっかく修也と離れられたのに、結局家に着いたらいるだろうし。逃げたのもあんまり意味がないんだよなと、車に揺られながら私は考えた。
当初の別れるための作戦とは大きくズレてしまったが、これで今度こそ別れ話ができる!
興奮していた私は、家についてから絶望を味わうなんて考えてもみなかった。
***
家の扉に鍵はかかっていなかった。ドアノブを回して、中に入ろうとした時。ドン!と鈍い音が響いた。私はゆっくりと顔だけを覗かせ、何が起きたかを確認する。
室内は真っ暗で、部屋の奥をじっと眺めても何も見えない。
仕方がないので前へ進んだ私の足に、ギュッと締め付けられる感覚が襲った。私は声の出る限りで叫び、そのまま壁にもたれ掛かった。
恐る恐る下を見る。
修也。
そこには修也がいた。
一週間何も食べてなかったの?と聞きたくなるほどげっそりしていた。
「え、死ぬ寸前?」
無意識に失礼な言葉が飛び出る。私の言葉に対してなのか、ただの独り言なのか判別がつかないが、ポソポソと小さな声が聞こえた。
それに対して尋ねても、ずっとポソポソ言っているので、私は腰を折って耳を近づけた。
「……った、良かった……、も、帰ってこないかと、思った……良かった」
鼻水をすする音が聞こえる。
ボサボサな修也の金髪を、手で持ち上げた。
外にあるライトが隙間から入ってきて、私たちをうっすらと照らしている。
見えた修也の目は、ぐるぐると焦点が合っていない。
私は中指と親指でデコピンをした。
「いっ……」うめき声が聞こえ、その後に足から圧迫感が消えた。
「なんで泣いてるの?」
質問する。
先程よりは冷静になった修也が、正座をして話し始める。視線は床を向いていた。
「つ、椿が、逃げたんじゃないか、って」
「私が逃げるような性格じゃないのは分かってるでしょ。ていうか、何、逃げるって、まるで私が悪いことしたみたいじゃん」
「ち、違くて!お、俺が嫌になって逃げたんじゃないかって」
とっくに嫌ですよ、とは伝えず、私は話を逸らした。
「……なんで浮気したの?」
「そ、それは……」と言ったきり、口を閉ざす。
めんどくさいなと思い、とりあえず手洗いうがいでもしようかとすれ違おうとした瞬間に「浮気じゃない」という言葉を投げられた。
「は?」
思っていた倍、低い声がでる。
「なんで浮気じゃないなんて言えるの?どう見たって浮気でしょ」
「……お、俺が本当に好きなのは椿だし、ずっと一途に思い続けてるのは椿なんだよ。他の人は全く好きじゃなかった!だから、違う」
本当に日本語を喋っているのか疑いたくなる。だって、全然意味が分からない。
「なんで修也の中では、一途= 浮気じゃない、になってるの?じゃあ、私が修也を好きだったなら、他の人とデートしたりしてもいいってこと?」
「や、やだ。無理。俺以外といないで……え……だった?」
私は思わず口を塞ぐ。あ、やらかした。
でも、事実だし仕方ない。
「え、俺のこと好きじゃないの?え……だって、付き合ってるだろ?それなら、俺のこと好きだよな」
「はぁ……好きじゃないよ。口紅を見つけるよりもずっと前から、浮気には気づいてた。それに冷めてた。本当はもっと早く別れたかったんだけど、いっつも話すり替えられるから。でも、今やっと言えたからもういい」
私は立ち上がり、電気をつけながら、止めていた足を再び動かした。
後ろからは「ず、ずっと前から?」と小さな声が聞こえた。
洗面台に到着し、蛇口を捻る。
ジャーと水が勢い良く流れた。私の今までの悩みも一緒に流れていってるように感じた。
これで心配事はなくなった。
手を洗い終わり、タオルに手をかけた時、バタバタバタと騒がしい足音が向かってきた。
鏡に反射して映った修也の顔は、真っ青で、声は出てないけれど、口を開け閉めしている。
振り返り「何」と問いかけた。
「……俺と別れるの?」
絞り出したような弱々しい声で尋ねられたので、頷く。
すると修也はさらに顔を青くした。
気にせず通り過ぎようとしたのだが、それゆりも先に、修也によって行く手を阻まれた。
どいてという前に、後頭部をがしりと掴まれた。そのまま顔に影が被さる。
「んッ……!」
分厚い肉が口内に入り込み、うごうごと私の中を荒らした。上顎をなぞられ、歯の裏を舐められる。
わけが分からなくなり、頭がぼやぼやとする。たまらず、歯を食いしばって侵入者に噛み付いた。
それはビクリと震え、一瞬縮こまったが、さらに私の奥に侵入してきた。
苦い鉄の味が広がり、ごほりとむせる。
吐きそうだった。
酸欠で、体の力が抜けてきた頃、やっと解放された。
唾液でベタついた口周りを腕で拭う。苦しさで生理的な涙が込み上げた。
カチャカチャと音が響く。
嫌な予感がして、視線を前に向ければ、修也は腰に巻かれたベルトを引き抜き、両手に持っていた。
「え」と思ってる間に、手首に巻き付けられる。
抵抗するより先に、グイッと勢いよく引っ張られた。
そのまま洗面台から離れて、連れていかれたのは寝室だった
ボフン
大きな音をたてて、背中から倒される。馬乗りになって私を見下ろす修也の目に、涙はなかった。けれど、ハイライトもなかった。
「何する気?」
「……何もしない」
絶対嘘だと睨みつければ、修也はぎゅっと眉根を寄せた。
「っ……浮気だって認めるから、別れない。それに、椿だって、男といただろ」
「後輩のこと?ご飯食べただけ、それ以上はしてない」
「は?俺と会わなかったらそれ以上もするつもりだったってこと?」
首に大きな手をかけられ、ひゅっと息を飲む。
何もしないってやっぱり嘘だった!
「勝手に思い込まないでよ!私は修也みたいに簡単にしない。なんで私の方が酷いみたいに言うわけ?元はといえば修也のせいなのに」
「ち、違う……許して」
手の力は弱まったが、まだ少し苦しい。
「違うって言うなら、何が違うの?浮気した理由は?」
「言ったら……別れないでくれる?」
「分からない。でも、言わなかったら確実に別れる」
目を見て伝えれば、修也はキョロキョロと視線を泳がせた。数分、実際はもっと短かったかもしれないが、時間が経った後、修也はやっと口を開いた。
「自信、なかったんだ……。椿は、可愛いしかっこいいし強いし、なんでも出来るし、料理上手いし、髪綺麗だし、手も綺麗で、酔ったらへにょへにょになったり、寝ぼけてる時抱きついてきたり、笑ったら片方だけえくぼできたり、頼りにされるとすぐ調子のって、テンション高くなったり、泣き顔見られたくないから隠れたり、実はブロッコリーが苦手なとことか、足大きいの気にしてたり、怖い映画見たあと顔まで毛布被って寝たり、普段はクールなのに夜は甘えん坊になったり、あと遊びに――」
「待って、もういい、やめて。羞恥心で殺されそう。ていうか、それと自信?って関係ある?」
「あるよ、まだ言い足りないけど椿は魅力しかないだろ、だからたくさん人が集まって、誰かしらはそばにいる。だ、誰かに、取られるんじゃないかって、不安だった」
頬に冷たい雫が当たる。
「俺はっ……椿がいないと生きてけないのに……椿は俺がいなくても生きていけるところが、憎かった。捨てられるんじゃないかって、毎日ビクビクしてて、だから……他の女のところにいって、誘われたら俺にはまだ魅力がある、大丈夫、捨てられないって……思って……だがらっ……うっ、ひっぐ……」
声を押し殺して泣かれても、どうすればいいか分からない。理由を聞いたからといって、「じゃあ許す」とは言えなかった。
黙っていると、修也は「……もう大丈夫?」と鼻声で私の目を見つめてきた。
「もう、喋ったから、別れなくていいんだよね、い、今も、不安なんだ。だから、椿から、キスして……?」
鼻水もたらしながら、修也は手のベルトを緩めてくる。
「え、いや、普通に嫌だけど。別れないなんて、私言ってないよ」
「は、え、な、なんで」
「だから、理由を言わなかったら確実に別れるし、言っても別れる可能性はあるって意味。修也の話聞いてそういうわけか、とは思ったけど、結局私の気持ち信じてなかっただけでしょ?やっぱり今後も付き合ってくのは無理だって分かったから。別れよ。というか、もう私は別れたつもりだから、これでバイバイ」
雰囲気に騙されそうだったが、結局修也の自業自得なので、慈悲はかけない。
拘束具も外れたので、上半身を起こし、固まっている修也を倒した。なんの抵抗もなく倒れるのを見ながら、私はベッドからおりた。
とりあえず、今家を出たところで行く場所はないので、ここで過ごすしかない。
一緒に寝たくないなぁ、廊下に寝ようかな、と考えていると、巨体が後ろから覆ってきた。私の胸の前で手を組み、うなじに皮膚が当たった。全て修也のものだということは、見なくても分かる。
すんすんと鼻をすする音が聞こえ……。
いや、これ匂い嗅いでるな。泣いてない。
ひっつき虫の脇腹を殴る。「何やってるのやめて!」と怒鳴れば、途切れ途切れの言葉が聞こえた。
「やだ……匂い、椿の匂い嗅いでる……。落ち着くから、離さない。やだ」
「匂いは知ってるから、って違くて。もう彼女でもないのに何してるのって聞いたの!きもいから離れて!」
「きもい……」復唱する声が聞こえる。
約三秒に、嗚咽が耳に響いた。
そして背中がひんやりする。今度こそ泣いている。最悪だ。涙と鼻水まみれになっている。本当に最悪。
「ねぇ、本当に嫌なんだけど、色々汚い、服が濡れてるし、他の人に触った手で触るのもやめて……あ、ちょっと!鼻水拭かないで!」
「触ってない、つ、椿以外に触ってない。気持ち悪くて、自分からは無理だった……相手からきたときも、本当は吐きそうだったし……。前に、夜、椿の反応があんまりだった時、お、俺が下手だからかなって思って、練習しようとしたんだ。だけど……中折れして……」
「……キスは?」
「き、すは、えっと……自分から、してない」
つまり、相手からはされたと。
無理だ。
なんか色々やだ。キスもしてなかったとしても、やっぱり嫌だ。
「そっか……うん。やっぱ無理」
「な、なんで!き、キスしたのがいやだった?じゃ、じゃあ、唇、剃るから、包丁で、皮全部剥いで、そしたら、そしたらいい?」
何度言っても引き下がらないので、私の堪忍袋の緒は切れた。
「そういうことじゃないの!もうやり直すなんて無理!絶対復縁しないから!いいから、離して」
声を張り上げれば、私に触れていた手が、大袈裟なくらい震えた。すぐに腕は離れていって、私もすぐに修也から距離をとる。
体が汗や何やらでベタベタする。
着替えるために別の部屋に移動した。
シャツを取り替えた後、シャワーを浴びようかと考えていると、廊下からぺたぺたと音がした。
今度は一体なんなんだと私がドアノブに手をかけるよりも先に、扉は開いた。
「何しにきた――」
床から視線をあげると、目の前には修也がいた。
そこまでは予想通りだったのに。
手に持っているものは私の予想を遥かに超えていた。
「しゅ、修也?そ、それ……」
修也は右手に包丁を持っていた。
後ずさる私を、長い足で追いかけてくる。
瞳孔は広がり、不安定に揺れていた。
あ、殺される。そう思った。
さすがに怖くなり、体が震える。唇を噛みながらできる限り平然を装って、キッと睨んだ。
「選んで」
一言も喋らなかった修也が口を開いた。
「ど、どういう意味……?何を選ぶの」
声が上ずりながらも質問すると、何故か包丁の持ち手部分を私に向けてきた。
「は?」とこぼした私を気にもせず、修也は続けた。
「俺のことを、この包丁で、今殺すか……」
空いていた左手で、目の前に、六ミリ程の白い錠剤を出された。
薬……?一体なんの――
「この排卵剤を飲んで、今から俺に犯されるか」
「え……?」
喉が渇く。
何言ってるの?馬鹿じゃないの?
そう言ってやりたいのに、少しも笑ってない表情を見たら、口が動かなかった。
長い沈黙。
先に喋ったのは修也だった。
「選んで、それ以外って選択肢はないから。椿と離れるなんて……俺には考えられない。逃げるくらいなら殺して」
着替えたばかりなのに、背中が冷たい。
カタカタと歯が音を立てる。
このままじゃ終わる。
そう思った私は、包丁を遠くに投げ、両手で修也を突き飛ばした。少しよろめいた隙をついて、出口に向かう。
玄関への通路を走ろうとした時、ガッと、足の力が抜けた。
そのまま床におしりがつく。
状況が理解出来ずに、顔をあげると、修也が私に向けて足を伸ばしていた。
膝裏を蹴られたんだと理解する頃には、腕をがしりと掴まれていた。
「それ以外の選択肢はないって言ったのに、自分で作ろうとしないで」
私を見下ろす修也の顔がどんなだったかは、涙でぼやけて見えなかった。
了
お読み下さりありがとうございます。