令嬢は逃げたが幼馴染は全力で追ってきた
馬車は石畳を蹴って、風を裂く勢いで走っていた。
リリシア・エルネストは、息を殺すように座席に身を縮めていた。揺れる車内。荷物などほとんど持たない。持参したのは、母の形見の指輪と、そして幼い頃から大切にしていた草花の押し花帳だけ。
「……あの子、ほんとうに来るつもりだったんだわ」
ひとりごちたその声は、馬車の車輪の音にかき消された。
リリシアは、辺境伯家の一人娘であった。だが貴族社会というものは、血筋や爵位よりも“政治的価値”のほうが物を言う。父エルネスト侯爵は、忠義の家柄でありながら、王宮では常に不遇を囲まれていた。
リリシアに持ち上がった婚約話は、王都の有力侯爵家との政略結婚。その相手は「真面目で実直、品行方正」と称されるが、実際には冷淡で抑圧的な男であった。
だが――
その婚約の調印前夜、彼女は決断した。
すべてを捨てて、逃げると。
「……どうせなら、もう少し着飾ってくればよかったかしら」
窓に映るのは、すっぴんに近い顔と、簡素な外套姿の自分。かつて社交界の華と呼ばれた少女の面影は、そこにない。
けれども、それでいい。
これは、自分の足で踏み出す、最初の一歩なのだから。
「お嬢様……」と、前方から御者の青年の声が届く。
「そろそろ、街道を外れます。王都からの追跡を避けるために、しばらく森の中を抜けます」
「お願い、エミル。少しでも遠くに」
「……はい」
エミルは、侯爵家の古くからの使用人であり、リリシアが幼いころから兄のように接してきた青年だった。主君を見捨てて逃げることは、彼にとっても一大決断だったはずだ。
だが、エミルは即答で言った。
『お嬢様が望むのなら、私はどこへでもお連れします』
その言葉に、リリシアは涙を堪えた。
だが――
そのとき、馬車の前方から鋭い笛の音が響いた。
「……っ!」
エミルが手綱を強く引き、馬車が急停止する。
馬車の窓から覗くと、森の入口に黒衣の騎士団が数名、馬にまたがっていた。その中央に立つのは、どこか見覚えのある男――
黒髪に青い瞳。鋭く整った輪郭。幼い頃から見慣れた顔。
「……ライナルト」
リリシアの声が震える。
ライナルト・ヴァルシュタイン。侯爵家の隣領である準男爵家の嫡男。幼馴染にして、彼女にとってただ一人の“恋を知ってしまった相手”だった。
そのライナルトが、黒の騎士団装束を纏い、彼女の前に現れたのだ。
「……見つけたよ、リリィ」
馬を降りたライナルトが、ゆっくりと馬車へと歩み寄る。
「何故……追ってきたの」
「追わない理由があるか?」
「わたし、逃げたのよ。あなたにも、家にも、全部背を向けたのに……!」
窓を開けて叫ぶリリシア。だがライナルトは微笑すらせず、真剣な瞳で彼女を見据えていた。
「おまえが俺を捨てても、俺はおまえを捨てられない」
「……っ、そんな言葉、無責任よ」
「無責任でもいい。言わなければ、一生後悔するからな」
エミルが剣を構える。だがライナルトは手を挙げて止めた。
「エミル、おまえも忠義に生きる男だ。ならば、彼女が本当に望んでいるのは何か、考えてみろ」
「それは――」
答えられない。リリシア自身でさえ、自分の本当の気持ちがわからなかった。
ただ一つだけ確かだったのは、ライナルトが自分を「愛している」と口にしたこと。
それが本物かどうかなど、わからない。けれど、今この瞬間、彼は誰よりも彼女の近くにいた。
「リリィ。俺はもう、おまえを一人にしない」
「…………それは、今だけじゃなくて?」
「ああ。これから先もずっとだ」
その言葉に、胸の奥が強く、熱く締めつけられた。
騎士団の者が静かに見守る中、リリシアは馬車の扉を開き、そっとライナルトに手を伸ばした。
「……ついてきても、後悔しない?」
「おまえがいるなら、どこでも楽園だ」
嘘みたいに直球なその言葉に、リリシアは少しだけ笑った。
逃げたつもりだった。でも、本当に欲しかったものは、たった一人、ここにあったのかもしれない。
逃げるようにして飛び出したつもりだったのに、どうして彼は、あんな顔で立っていたのだろう。
ライナルトは、いつものように穏やかに微笑んではいなかった。追い詰めるでもなく、責めるでもなく、ただ真っ直ぐに――彼女を見ていた。
「どうして……」
揺れる馬の中で、リリシアは自分の膝を見つめながら、ぽつりと呟く。
「どうして、そんな顔で追ってくるの。あなたは、わたしの逃げた理由を、知らないのに」
隣で黙っていたライナルトが、ふと視線を落とした。
「知らないつもりは、ない」
「――っ」
「おまえの婚約話を聞いたとき、どうしてもっと早く動かなかったのかと、死ぬほど後悔したよ。俺は、おまえのことを誰よりも知ってるつもりだったのに……自分の無力さに腹が立った」
「……そんなの、あなたのせいじゃない。全部、わたしが勝手に……」
「勝手に何だ?」
ライナルトの声が低く落ちた。
「勝手に、消えていいと思ったのか? 勝手に、すべて終わらせようとしたのか? 勝手に……俺を置いていくつもりだったのか?」
「だって、仕方なかったのよ!」
リリシアの声が、震えて馬車の天井に響いた。
「わたしは、ただの令嬢。家のために嫁ぐのが当然って言われて、それでもお父様が、あんな人と婚約させようとして……!」
唇を噛みしめて、視線を逸らす。
「あなたは、ずっとわたしのこと、妹みたいに見てたじゃない……。なのに、今さら、どうしてそんな顔をするのよ」
「妹?」
ライナルトが、ふっと息を吐いた。
「そうだな。昔は、そうだった。小さくて、よく泣くおまえを、俺が守らなくちゃいけないって思ってた」
「だから……」
「でも、それは過去の話だ」
彼の声が、少しだけ熱を帯びる。
「俺は、おまえが十六を迎えた頃から、ずっとおまえを“女”として見てた。何度も、気持ちを伝えようと思った。けれど……」
「でも、何も言ってくれなかったじゃない」
「そうだ。言えなかった。おまえの家の立場を思って、貴族社会の規律を思って……守りたいと願うほど、俺は口を閉ざしていた」
「……」
「けど、それが間違いだった」
彼は手を伸ばした。リリシアの手が震え、しかし拒まなかった。
「ごめん、リリィ。今度こそ、はっきり言う。俺は――おまえを愛している」
「……」
頬が熱くなる。胸が痛いほどに脈打っている。
「今さら、遅いって思ってもいい。逃げたいなら逃げてもいい。でも、俺はもう、おまえの傍を離れるつもりはない」
「……ずるいわよ、ライナルト」
リリシアの声がかすれる。
「そうやって、全部受け止める顔して……優しくて、誠実で、ずっとわたしのことを見てて……。そんなあなたに、勝てるわけないじゃない……」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
「ライナルト……ずっと、怖かったの。わたしが選んだ道が、間違っていたらって。誰にも必要とされていないんじゃないかって。ずっと、心が空っぽだった」
「なら、俺が埋めるよ」
抱き寄せられた胸の中は、温かくて、懐かしかった。
小さい頃、泣いていた彼女に手を差し伸べてくれたあの少年と、今この瞬間の男は、同じ人だった。
「これからは、俺の隣にいてくれ。おまえの人生を誰かに決めさせないでいいように、俺が守る。約束する」
その言葉が、すべてだった。
ようやく、心の底から息が吸える気がした。
「……わたし、あなたと一緒にいたい」
「ありがとう、リリィ」
彼が微笑んだ瞬間、馬車がゆっくりと止まった。
エミルの声が響く。
「一旦、森を抜けました。前方に、小さな村があります。そこで夜を明かしましょう」
ふたりは顔を見合わせ、小さく頷いた。
夜の帳が下りる頃、心の距離もまた、確かに近づいていた。
灯りが消えた村の宿の一室。木造の簡素な内装で、窓の外には星空が広がっている。虫の音が耳に心地よく響く中、リリシアは天井を見つめたまま、そっと息を吐いた。
ベッドの上で横になっていても、まぶたは重くならなかった。
目を閉じても、あの時のライナルトの言葉が胸の中で何度も繰り返されてしまう。
『俺は、おまえを愛している』
あまりにもまっすぐで、あまりにも優しい声。
思い返すだけで、胸が熱くなり、どうしようもなく涙がにじむ。
(本当は、嬉しかった)
けれど、彼に「好き」と返すのが怖いと、まだどこかで躊躇っている自分もいた。
今までずっと、感情を殺して生きてきたから。期待しないように、願わないようにしてきたから。
「……バカみたい、わたし」
小さく笑ってつぶやいたその時、扉が静かにノックされた。
「リリィ、起きてるか?」
低く抑えたライナルトの声。
「うん、起きてる」
扉がわずかに開き、彼の姿が見えた。昼間とは違い、旅装を脱ぎ、白いシャツと黒いズボンだけの姿は、どこか少年時代の彼を思い出させた。
「寝つけなくてさ。……ちょっと話せるか?」
こくりと頷くと、彼はそっと部屋に入ってきて、窓辺の椅子に腰を下ろした。
「星、綺麗だな」
彼の言葉に、リリシアも上半身を起こし、窓の外に視線を向けた。
「うん。……まるで、別の世界みたい」
「そうだな。けど、こうして一緒に星を見てる今が、俺にとっては一番綺麗な時間かも」
「……そういうこと、さらっと言うの、ずるい」
「本音なんだけどな」
そう言って笑ったライナルトの表情に、リリシアはつられるように小さく微笑んだ。
沈黙がふたりの間に流れ、やがてライナルトが少しだけ姿勢を前に倒した。
「リリィ」
「なに?」
「今日……おまえを抱きしめたとき、思ったんだ。もう絶対に、この手を離さないって」
「……」
「どれだけ時間がかかってもいい。おまえの心が俺をちゃんと向いてくれるその日まで、傍にいさせてほしい」
その目は冗談ひとつなく、真剣だった。まるで彼の全身が、想いを語っているようだった。
リリシアは膝を抱えたまま、その顔をじっと見つめた。
「……もしも、わたしがまた怖くなって、逃げ出したら?」
「追いかける」
「今度は?」
「泣き止むまで、黙って隣にいる」
「わたしが、あなたのことを嫌いになったら?」
「その時は、毎日好きって言う。耳にタコができるまでな」
ぷっ、とリリシアは噴き出した。
「……変な人」
「そう言ってくれるおまえが、俺は好きだよ」
たまらず、彼女は枕を顔に押し付けた。耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。
「やっぱり、ずるい」
「ありがとう、ってことだと受け取っておく」
彼はそれ以上踏み込んでこようとはせず、そっと立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ。明日は朝が早いからな」
「……うん」
扉に向かおうとしたその背に、思わず声が出た。
「ねえ、ライナルト」
「ん?」
振り返った彼の表情を、リリシアはまっすぐに見上げた。
「……わたしも、もう一度信じてみる。あなたのことも、未来のことも」
それは彼女なりの「好き」の表現だった。
ライナルトの目がふわりと緩んで、柔らかく笑った。
「ありがとう。……おやすみ、リリィ」
「おやすみ、ライナルト」
扉が閉まってから、リリシアは再びベッドに横たわった。
胸の奥が、あたたかく満ちている。
今夜は、少しだけ良い夢が見られそうだった。
グラストの山道は険しかった。
草原の緩やかな坂を抜け、岩の多い斜面を登るにつれて、リリシアは息を切らしながら前を行くライナルトの背中を追っていた。
けれど、不思議と苦ではなかった。
「疲れてないか?」
時折、振り返って心配そうに声をかけてくる彼の優しさが、そのたびに胸をあたためてくれるからだ。
「平気。……あなたがいてくれるから」
「そっか。じゃあもう少しだけ頑張ろう。ほら、あそこ、あの岩の向こうが境界線だ」
指差した先に、風に揺れる青いリボンが木の枝に結ばれていた。リリシアが幼い頃、隣国との境に迷い込まないようにと結びつけたものだった。
こんなに色褪せてもまだ残っていたなんて、と胸がきゅうっとなる。
それは、かつて故郷と呼んだ場所の果てであり、新たな人生の始まりでもあった。
足を止めて、リリシアはしばらくそのリボンを見つめた。
「ここを越えたら、本当に戻れない気がする」
つぶやくように言うと、ライナルトが隣に立ち、そっと彼女の手を取った。
「それでもいい。おまえの手を、俺がずっと握っている。戻らなくても、どこへでも一緒に行く」
「……あなたは、ずるい」
「また言ったな」
ふたりして、ふっと笑った。
空は高く晴れていて、どこまでも青い。
そのまま境界線を越え、歩き出してすぐ、ライナルトが立ち止まった。
「実はな、リリィ」
「ん?」
「もうすぐ先で、ある人に会うことになってる」
驚いて見上げると、彼は少しだけ照れたように眉を下げた。
「……言ってなかったけど、俺、ずっと準備してたんだ。おまえとこうして一緒に歩く未来を」
「誰と会うの?」
「……うちの親父とお袋。それから、ある家の令嬢と。――婚約者だった、子がいる家の人たちだ」
リリシアの目がわずかに揺れた。ライナルトは、続ける。
「誤解されないように、最初から説明しておくよ。俺には決められた婚約者がいた。でも俺は、彼女を愛していなかった。親の意向だったし、俺も一度は従おうとした。でも……どうしても無理だった」
リリシアは口をつぐんだまま、静かに聞いている。
「……おまえの手を離したくなかった。たとえどれだけ時間がかかっても、やっぱり俺の隣にはリリィがいてほしいと思ったんだ」
「それで……会って、どうするの?」
「全て清算する。正式に解消を申し入れる」
風が吹いた。頬に当たる風が、少し冷たく感じた。
「わたし、そこで待ってる」
「え?」
「ライナルトが戻ってくるなら、どれだけでも待てる」
その言葉に、彼の表情が崩れた。
こんなにも無防備に、信じてくれるのかと。
「ありがとう、リリィ。……おまえが、俺の希望だ」
彼はリリシアの額にそっと口づけを落とした。
「必ず戻る。何があっても、おまえの隣に」
リリシアは、黙って頷いた。
まるで、幼い頃に交わした小さな約束が、今ここに果たされようとしているようだった。
朝靄のなか、ライナルトは戻ってきた。
彼の姿を見つけた瞬間、リリシアは反射的に駆け寄っていた。だがその途中で足を止める。彼が傷ついていないか、言葉にしにくい感情が喉の奥で渦巻いて、胸がぎゅっと痛くなる。
けれどライナルトの顔は、晴れやかだった。
「終わったよ」
その一言で、全てを悟った。
「彼女とは、ちゃんと話してきた。……納得してくれたよ。形式のためだけの婚約だったって、向こうもわかっていたみたいでな」
彼はリリシアに歩み寄り、優しく両肩に手を置いた。
「もう、誰にも遠慮しなくていい。俺はこれから――おまえだけを、選ぶ」
目が潤んだ。けれどそれは悲しみではなかった。
嬉しくて、温かくて、信じられなくて、だけど確かに触れていた。
「……わたし、夢じゃないよね?」
「夢なら、これから現実にしていこう」
ふたりは強く抱きしめ合った。遠い昔、砂場で作った小さな城が波にさらわれても、笑って何度でも作り直したように。
そこから始まった恋は、何度だって立ち上がり、こうして今、確かな形になろうとしていた。
その後、ふたりはグランドの郊外にある町で、しばらく穏やかな暮らしを始めた。
リリシアは、町の子供たちに読み書きを教える学舎を開き、ライナルトは元の商人のネットワークを活かして小さな交易所を運営した。
派手さはないけれど、日々が愛おしく、繋いだ手の温もりは何よりの宝だった。
「おはよう、リリィ」
陽の差し込む朝、彼がそう言ってキッチンに入ってくる。
「おはよう、ライナ」
笑って迎えるその日常に、もう何も足りないものはなかった。
リリシアはふと思う。
(あの時、逃げなければ、私は今も仮面をかぶったままだった)
王宮で窒息しそうだった自分が、こうして息を吸えているのは、隣に彼がいるからだ。
「ねえ、今日も隣にいてくれる?」
「当たり前だろ。……おまえが“いいよ”って言ってくれる限り、ずっとだ」
もう迷うことはない。
幼い頃から傍にいた人。
誰よりも自分を知ってくれている人。
その手をとって歩む未来が、こんなにも幸せだなんて。
「ありがとう。――ずっと、好きよ」
「俺も。……世界で一番、大事だよ」
ふたりの言葉は、朝の光に包まれて溶けていった。
そうして始まった新しい日々。
逃げた先にあったのは、終わりではなく、始まりだった。
――彼女はもう、枯れ葉ではない。
彼に抱きしめられるたび、春の風のように、命の花が咲いてゆく。
よろしければ、評価、ブックマーク等お願いします。
励みになります。