Aftermath-反歌-
彝ヰ啊ゑえ烏乎甕太極神(※註1)の齋く儼き聖の聖なる祭祀の日であった。
一切を龍のごとく肯ずる龍肯の神、現実そのものたる神の真なる日である。
大吉日とも云えたが、神妙は計り難く、慎重に事を起こすべき日でもあった。つまり、やたらなことを為すな、自重しろということだ。
天易真兮は未遂不收の行為を唐突に敢行した。
その平々凡々たる行為こそ奇妙奇天烈の極みであり、特異性のないありふれた日常茶飯事ゆゑに、超絶の極み。萬事・萬象・萬物のかたちを超え、齊く普く肯じ、齊く遍く一致一体網羅する無色透明、見境のない奔放の最果て、究竟の極北、単に一個の物的存在に過ぎない無味乾燥。
それあたかも、釋迦牟尼如来が罹病(又は食中毒)して窶れ曝え、「喉が渇いた。水が飲みたい」と訴えたという故事と同義。
ただ、人として死す。不死ならず。狂裂なる超越、自在無止盡、身を裂くほどの解放無罣礙、過剰なる自由狂奔裂の崇高なる極み。
※註1 眞神(まがみ)族の世界主宰最高神。真究竟真実義の神。『彝彝彝ヰ啊ゑえ烏乎甕』『彝巸彝ヰ啊ゑえ烏乎甕』『彝韋彝ヰ啊ゑえ烏乎甕』とも綴る。この場合、彝彝彝・彝巸彝・彝韋彝というは、三文字で『い』とよむ。一音を三文字で表記することで、眞神族の聖音である『い(彝)』を荘厳するものである。
ただし、世界を主宰する最高神をいかなる名で呼ぼうとも関係ない。神には名などないであろうがゆえ。この名にしても、その考えが反映されているとされる。使用頻度の多い母音を集めただけであり、神の御名を人間が知ることすら不敬の極であるとする思想であった。
天易真兮がかつて所属していた文學倶楽部を突然訪れたのは、真義塾附属眞神高等学校を卒業後、十九歳のとき。イタルの死後、二年が経っていた。
銅製のリヴェットでデニム地のヒップに留めたポケットから、ドイツ、ホーマー社製『BLUES HARP』を出し、掌で包むようにミュートしつつ、唇を窄めて強く吸い、又は強く吹くベンド奏法して一小節。
金属が錆びたような寂れた音が韻(罅)く。空き缶のからんとした存在のような、乾いた枯葉の存在のような、美濃焼の釉薬の塗られていない高台の土味の存在のような、サウンドという存在。諸考概を排斥し、直截、明晰なる存在を觀ぜ令む。
あぜんとしている後輩を尻目に、
「小説さ」
と嘯いたという。
そう言い遺して去った。
呆然としたまま残された倶楽部の生徒たちは、その後さまざまに議論した。
あの天易真兮がやる以上は、必ず藝術的な行為であり、コンセプチュアルなアートであるはずであった。
前髪後ろ髪揉み上げと口髭顎鬚頬髯とを腰下まで伸ばし、サテン地のミリタリー・ロング・コート(the BeatlesのSgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandのジャケット写真にあるような服だ)、Levi'sの十六オンスのスキニーに、蛇皮のロング・ブーツ、頭には鍔広のウイザード・ハット(先端が折れている)、片眼鏡、火の点いていないキャラバッシュ・パイプを銜えて、という摩訶不思議な出立ち。
「むろん、あれが小説なわけがない」
「いや、小説が、なぜ、言語や文字というメディアでなければならないのか。ハーモニカのサウンドであったっていいじゃないか」
「それじゃ、何でも小説だと言い切っちゃえば小説になっちゃうじゃない」
「いいじゃないか。それで。芸術にジャンルは虚しい」
「でも、それで何を表現したんだ」
「事実さ」
「じじつ? JIJITSU?」
「ハーモニカのサウンドという事実さ」
「本気で言っているか? そりゃあ、まあ、ハーモニカのサウンドでハーモニカのサウンドを描写、いや、描写って言わないな、表現したって言うんなら、ふ、バカバカしいけど、まあ、最も正確無比な写実、写実じゃないな、写じゃないから、リアリズムだよな。
だけど、青空を表現したかったら、空を見ろって言うのと同じだ。それは作品なのか。何だか、空に指でサインして自分の作品だと言った前衛芸術家がいたような」
「事実を申し述べて何になる?」
「そう?
事実って偉大なんじゃないの?
久米正雄はレフ・トルストイの『戦争と平和』を評して「偉大だが、偉大なる作り話に過ぎない」と言ったそうよ。
彼は自分の私小説の方が事実をそのまま書いているから、真実だと言いたかったんでしょ?」
「俺には久米正雄よりもトルストイ翁の方がリアルを感じる」
「同感」 と曰くも、普賢菩薩
「右に同じ」 いやはや、文殊菩薩
「左に同じ」 持国天、又の名を提頭頼吒
「前に同じ」 増長天、又の名を毘楼勒叉
「後に同じ」 広目天、又の名を毘楼博叉
「上に同じ」 多聞天、又の名を毘沙門
「下に同じ」 宮毘羅
「斜め前右に同じ」 伐折羅
「斜め前左に同じ」 迷企羅
「前上段に同じ」 安底羅
「後上段に同じ」 頞儞羅
「前下段に同じ」 珊底羅
「ああ、後下段に同じ」 因陀羅
「いい、斜め後右に同じ」 波夷羅
「うぅ、斜め後左に同じ」 摩虎羅
「えー、上少し前に同じ」 真達羅
「おお、下少し後に同じ」 招杜羅
「うーん、前中段に同じ」 毘羯羅
「こら、こら、お前ら、立体胎蔵界曼荼羅か」
「いやー、それほどでも〜」
「謙遜すなっ!」
「でもさ、金剛界曼荼羅って、実在する真理だよな」
「だから、胎蔵界ってんだろ!」
「つーかさ、真理、真実、事実、現実、そのカテゴリーがわからん。それが優れてるって、価値設定の理由は? そもそも、それって、何のことだ? 何ごとが起こっていることになるんだ? そういう概念のフォルムを、輪郭線を、このかたちに決めた理由がわからない」
「な、事実書けば事実だって思うって単純過ぎなくね?」
「強引に戻したな」
「って言うかさー、人として信じられないよな、漱石の娘の件」
「そっちいくか?」
「意外に文豪系ってさ、あるよな、そーゆーしょーもない話。藤村の新生事件もあるしさあー」
「ああ、それって、龍之介が老獪なって批判した系のやつ?」
「どーでもいいし、大事なのは金剛般若経」
「いや、いや、『金剛頂経』十八会のうち第六会『理趣広経』の略なる『般若波羅蜜多理趣百五十頌』」
「何と、『大楽金剛不空真実三摩耶経』」
「受ける笑」
「受けるか!」
「『大毘盧遮那成仏神変加持経』、『金剛頂経』」
「押すなあ」
「なあ、たとえ、事実をそのまま書いても事実ではないからな。自分にどう見えたかでしかない。所詮、幻想だよ。世界そのものが共同幻想なんだぜ。いくら事実そのままを書いたと思い込んでも、事実ぢゃない。思い込みや主観以外あり得ないだろ。それが見抜けぬとは大したやつだよ」
「そもそも、事実って、何だ」
「それ来たよ」
「お前の得意系な説な」
「僕は好きだよ。その懐疑主義的なの。だってさ、ねえ、根本疑うって面白いよ、その概念の規格っていうか、設定、輪郭、価値序列が何なのか、何でそれなのか、とかさあ」
「ま、それ言い出すとキリないぜ。眼が眼を疑い出しちゃうみたいなさー、尾を噛む蛇は喰うのか喰らわれるのかみたいな話になっちゃうぜ」
「それ、未遂不收なやつな」
「強いて言えば、それが唯一の事実? 真実系かな、って?」
何となく言うことがなくなって、そんな気がして、皆黙った。
嗟嘆の末、平衛隆臥は言う、
「事実は私小説の方便じゃない。
事実って、死のようなものだ。僕らの眼から見る限りに於いて、もうそれは動かせないものであって、有無も是非もなく、弄ることもできない。屹立する垂直の絶壁だ。理解も措定もない。
非理解さえも未決定すらもない。死そのものだ」
その事件から遡ること二年。
当時はまだ彝之イタルの死の直後であった。その狂裂な死に様は、彼の周辺の人々、特に同級生たちに深刻な衝撃を与えた。イタルの一連の行動については、天平普蕭の小説『Ekstase–脱自態−』に詳しい。 https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/ekstase.pdf 又は https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/index5.html
学校、いや、村全体が鬱々とした厭壓に潰されていた。翳りが蔽い、喉をふたぐ狭霧のように空気を閉鎖し、髑髏と疫病と大鎌を持つ死に神とが嘲笑うかのように跳梁し、跋扈し、蔓延っていた。
死への憂いをぬぐい去ることなどできない。永遠に繰り返される畏怖と孤独と不安とに苛まれるしかない。どこにも解決はない。不死にならない限りは。
イタルの死を悲しむ者は悲痛な事実を受け入れられず、受け入れまいと首を横に振って、事実の記憶と個人の思い出と、それらにからみつく蔦のような感情とを、脳裏から生のまま、剥離しようとする。
首を振る現実拒否の所作は考えまいとする者たちも同様であった。
メメント・モリ、「死を忘れるな」とは古代ローマにおいては「死ぬ運命だから生きているうちに楽しめ」という趣旨であったが、キリスト教に採用され、世俗的な現世を楽しむことに水を差す意味となった。
死をどうすることもできない。胸の苦しみを剥離するには、死という考えから遁走するしかない。忘れて今を生きるしかない。
考えてみても、今さらどうなるものでもない。考えまいとすることは、ある意味、正当防衛なる行為であった。事実は変えられない。服従しかない。現実は聳え屹立する巌の、垂直な絶壁のようであった。
非情で、正当な理由などなく、情状酌量も同情もしない。
その中には、自らも死ななければならないという、死ぬ方へ死ぬ方へと考えるべきであるという強迫観念に襲われる者さえいた。
「バカなことを考えるなよ」
そう言って嗤う友人たち。微苦笑する友人たち。呆れる友人たち。
でも、皆の心にそれが巣食っていた。
世間融通の思考型を否定したのがイタルであったからだ。
まだ高校二年生、イタルと同じ十七歳だった天易真兮もまた、甚深に考えた。
「世間融通の価値に確固たる根拠はない。僕らの生活感覚はすべて架空の上になっている。真の意味はない。真の根拠はない。全く信ずべき理由がない。
共同幻想だ。多くの人はそれを現実と考えるが、少なくとも科学的な現実ではない。科学的に起こっている物的現象は全く別モノだ。
彼は行為でそれを語った。口舌ではなく」
しかし、そこまでで思考は止まった。死という現実の前では、どんな言葉も萎える、何もかもが虚しく色褪せる。
「そう。だから、彼は、ただ、行動したんだ。何も言い遺さず、書き残さず。ただ、只管実行した」
まるで、彗星だ。
火が点いたら燃え尽きるまで火門奔るしかない。答はない。問いすらもない。
真兮以外にもイタルの死を哲学的に分析解析しようとする一群がいた。
ただ、彼らもまた死という壓倒的な事実の前に全ての思惟は虚しいと感じ、挫折している。
急先鋒であった真兮はあきらめなかった。
普蕭の家のスタジオで、〆裂と普蕭とが何となくセッションしていると、真兮が来て何も言わず、挨拶もせず、坐り、PCを弄り、黙って作曲まがいのことをしていたが、
「口舌は無力だ。現実の切実さに比して、あまりにも虚しい。概念は空虚だ。どんな措定も、ただ、無機質な鉄と石の構築物だ。意味は虚構だ。だから、存在は無以上の無だ。空を絶する空だ。
思惟そのものが物体だ、物的現象だ。有機的な化学反応にすぎない」
天平普蕭が尋ねた。
「そうかな。
しかし、実際、生きているリアリティの中で、切実ならば、少なくとも(実在はともかく)実存的には現実じゃないか。
林檎は林檎だ。犬は犬、猫は猫だ。実存上は、明晰判明じゃないか。存在する(Be)ということを光(表出・顕在化)と喩えるならば、諸概念が色彩や陰翳を添える。
色がなければ、差異がなく、死すら存在しないのかもしれない。
一足す一が二であることも自明だ」
「犬が〝いぬ〟であることは何ら説明になっていない。内容がない。それを小生らは実存的に感じている。ただ、納得という感情、理解したという感覚があるだけ、と。林檎という内容は何ら解析されていないし、そもそも、意味という概念も同様だし、内容という考え方も同様だ。
一切は刷り込みでしかない」
「一足す一は自明だろう」
「一つの林檎の隣にもう一つ林檎をおくと、林檎が二つならぶということを認識し、数字に代えて納得しているに過ぎない。
そもそも、それが何なのか全く説明がない」
「なるほどね、そういう見方もあるか」
「根源から、ゼロ地点からの説明・解明ではない。脆弱だ。命を賭けられるほどの実在性がない。リアリティがない」
「生活には便利だけどね」
「それが世間融通というやつだ」
「じゃ、どうしたらいい?」
某日、教室のざわめきは相変わらず空疎であった。
「ふ」
〆裂が鼻尖で笑いながら、
「くだらねえな」
少し気怠そうだった。
金のスパイキー・ヘアをわざと莫迦そうに掻き毟りながら、同源叭羅蜜斗が唇を尖らせつ、同意して言う、
「へへ、確かに、イタルなら、そう言いそうだな」
そのあと会話は続かず、二人は黙っていた。
ただ、蒼穹の彼方を仰ぐ。
世間にありきたりな、前向きに生きようよ的なスローガンも白々しく他人行儀で、厚い膜の向こうから間接的に聞こえてくる、くぐもったエコーでしかない。
当時の高校生たちには、それ以上でき何もなかった。何一つ。
現実の非情性に対して全く無力で、ただ、あてどなく渺茫と彷徨い、いつも心のどこかに瀝青のようにこびりついた死という呪縛に憑かれていた。
かように一年が空疎に過ぎた後、真兮が唐突(全ての存在は唐突だ)に、
「イタルの遺品を見せてもらおう」
叭羅蜜斗が片方の眉だけを吊り上げ、
「それって、家族の感情としちゃどうなんだ。まだ一年だぜ」
普蕭も顔を顰め、
「複雑だろうね。触れてほしくないんじゃないか」
〆裂が嗤う、
「イタルなら、そんな忖度しないぜ」
教室の隅でそんなふうに話していると、天平甍(普蕭の遠い親戚だ)が来て、
「韋究が最近、行ったらしいよ」
「やつも彝之家、イタルの家と近い間柄ではないが、俺よりは近しかったはずだ。冠婚葬祭なんかで、イタルの親とも顔ぐらいは合わせていたかもしれないな」
「韋究はどこにいるんだ」
「さあ、どこかな、今」
天之哥舞伎が教室に入って来た。
「韋究を探してんのか? 図書館にいたぜ。十五分くらい前な」
「お前は何でいたんだよ」
「どうせ可愛い子でもいたんだろ」
「哥舞伎くんってさ、最近はA組の白舟さんを」
「え、香奈のこと? 大樂の従姉妹の?」
「は? 勝手に言ってろ、そういやあ、大樂もいたな」
図書館に行くと、韋究はいなくて、大樂が軍艦の図鑑に見入っていた。
「別にネットで見りゃいいのに。何で」
大樂は胡散臭そうな目つきで、
「おいらの勝手だろ? この匂いが好きなんだ」
「そのうち、匂いや感触のある電子書籍ができるかもな」
「いいからさ、韋究はどこだ?」
「ああ、倶楽部に逝くって言ってたな、韋究」
白舟大樂を先頭に、天易真兮、天之哥舞伎、彝之〆裂、天平普蕭、同源叭羅蜜斗、天平甍の順に廊下を進む。渡り廊下から倶楽部棟に入る。部室棟とは別に倶楽部専用の七階建て鉄筋コンクリートで中庭があり、各階に十二室ずつある。
文學倶楽部は一階だ。高野切を模した仮名文字を彫った木製の引き戸を開けて入る。
机と椅子と本棚とポスターとフィギア。PCやタブレット、スマートフォンを弄っているやつら、創作したり、論説書いたり、投稿サイトに投稿したり、メールしていたり、マンガやラノベや純文や古典を読んだり、ただ、漫然と情報などなどを見ていたり、SNSを眺めたり書き込んだりしている。
皆沈黙。
彝之韋究はいた。〆裂が単刀直入、
「イタルの家に行ったんだってな」
「二週間くらい前かな」
真兮が、
「実は小生も行きたいと思っているんだが」
叭羅蜜斗が、
「だが、家族の気持ちを思うと難しいのかなって」
韋究は、
「まあ、俺は準家族みたいなもんだからな。近しい親戚でも行き来が多いとは限らないが、俺は遠い親戚だけれども、まあ、イタルとは気が合って」
「知らなかったな、同じバンドにいたのに」
「クヮドルプル・ヴイ(イタル、普蕭、叭羅蜜斗、〆裂によるパンク・バンド)の活動期間は短かったからな」
「僕も小学生の頃、一瞬つるんで、そのあとは高二になるまで、互いにあまり存在を認知する機会もなかった」
「この中限定でいえば、韋究が一番近しかったのか」
「そう言うことかな。イタルの家は見たいと言えば何にも言わないよ」
「それって、いい感情って解釈していいのかな」
「たぶんね。嫌ではないはずだぜ、息子の友人が死を悼んで訪ねて来るのは」
その言葉を信じ(実際、行くと、明らかに歓迎されていなかったが)、彝之イタルの家へと赴く。
メンツは韋究、〆裂、真兮、叭羅蜜斗、普蕭、哥舞伎、大樂、甍、そして、同学年の炎春慶と一コ下の平衛隆臥、総勢十名だった。
車の免許を取った韋究と〆裂の運転で二台に分乗し、着く。
少し迷惑そうだったが、拒否もされず、家に上がった。
遺品を見せてもらうため、生きていたときのままになっている彼の部屋に入る。
「生前のままだって言ってたよな」
「イタル、意外に整理整頓してるな」
「彼のキャラ考えるとね。でも、常識的には散らかってる方さ、どちらかと言えばね」
「ノートだ。何冊もある。手分けして撮影しよう。ページと撮影の順が一致するようにしてくれ。〆裂はその五冊を、隆臥はそっちの七冊、春慶は」
真兮が指示した。十人中、七人が数十冊のノートの撮影を始める。叭羅蜜斗や哥舞伎は雑だったが、大樂と春慶と甍とは丁寧であった。
真兮は韋究と普蕭を誘って、絵やスケッチなど、ノート以外の遺品を確認し始める。紙切れ一枚に書き綴った詩や文章を集め、撮影した。読んでいた本なども撮った。そのほか気になるものはすべて速やかに撮った。
二時間くらいが限度だろうなと真兮は思って、皆に声を掛け、撤退。
帰宅後、撮影した写真を集めて、真兮は一人整理し、分析した。
「火々禽の柵(城)の跡地だって?」
「姿をくらましていた時期に行ったらしい」
「古代の戦地だよな、六世紀頃」
「我らが眞神族と大和朝廷とが戦ったという」
「イタルのノートに、そこで見た石碑のことが書いてあった。碑文を書き写してはいないが、諳んじるくらいだったようだ」
「へー」
「何が書いてあるか、見てみたい」
「碑文かあ。それなら、ネットか、文書館で資料があるんじゃないかな」
「ありそうだけど、現地で見たいのさ」
「なるほど、わかった。俺も行くぜ」
「俺も」「僕も」「おいらも」
かくして、今度は二コ下の彝佐早蕨(い さ さわらび)も交えて、十一人で出立した。車は三台になった。
何もない平原だ。いくつか、大海の島嶼のように濃い深緑色の木立が盛り上がっている以外は。柵とは砦だ。夷狄の侵入を防ぐため、垣を廻らせた場所、だ。
石碑はなかなか見つからなかったが、
「あった」
〆裂が見つけた。
「どれどれ」
ほとんど自然石にしか見えない。低い。約一メートル四方。高さ五十センチくらい。
真兮がモノクルを掛け直し、
「ふむ。
齊歴(眞神族の暦)が使ってある。日本の元号で言うと明治、年は明治二年だ。有志によって建てられたようだね。たぶん、鎌倉以降、江戸幕府が斃れるまでこんなものは作れなかったから、維新以降というのは辻褄が合う」
「何て書いてある?」
「この石碑の由来、火々禽の柵の戦の発端、経緯、結果、そして、死んでいった者の名、最後に神言。『存在只是存在 甚至不是不存在』。」
叭羅蜜斗が眉を上げた。
「うちの寺(貞観正國寺)にも、そんな文言を刻んだ石塔があったな」
〆裂が言う、
「それは眞神族に伝わる神言、究竟真言の一つだ。原文はサンスクリット語で、眞神神社にも貝多羅葉の經(椰子の葉などに針で彫った経文。上古インドなどで使用された)のかたちで遺っている。この碑文はその漢訳だ。漢訳の一部だ。全文は、
『存在只是存在。它無味又乾澀。甚至不是不存在。絶空。
無止盡的自如。自由過度。不受限制的解放。如此無拘無束,以至於撕裂了它的』
(存在はただ存在でしかない。無味乾燥。非存在ですらもない。空を絶す。
際限のない自在。過剰な自由。無制限な解放。その身を裂くほどの奔放)』
となる。それが漢訳の全文だ」
真兮がうなずきながら言った、
「実はこれは予想していた。
彼のノートにもこの全文があり、彼が創作したと想われる文言が反歌のように添えられていた。
『路旁被風雪損壞的古老石像 一個無釉陶瓷古董茶杯 秋雨裡的落葉 丟棄的空罐』
(道端に風雪で毀たれた古い石像。釉薬のない古茶碗。秋雨の落ち葉。棄てられた空き缶)」
叭羅蜜斗が唸る、
「パンクスだなあ」
真兮が笑い、
「らしい発言だ。だが、確かにそうだ」
普蕭は考え込んだまま、
「しかし、イタルは、なぜ、敢えてこの神言を、この戦場跡で見たかったのだろうか」
「その答を」
〆裂が言う、
「探すなら、うちかな」
翌日は日曜日で、天易真兮、彝之〆裂、天平普蕭、同源叭羅蜜斗、天之哥舞伎、炎春慶、白舟大樂、彝之韋究、天平甍、平衛隆臥、彝佐早蕨の総勢十一名眞神神社ある眞神山へ向かった。
漆黒のその山は、実際には一個の巨石、縦横奥行高さ五百二十四メートル、垂直な直線と直角に交わる直線とで構成され、縦横奥行高さの等しい正立方体であった。
「古代エジプトの単位で一キュービットは約五十二.四センチメートルなんだ。つまり、五百二十四メートルというのは千キュービットということになる」
真兮がそう言った。
頂上には巨巌に降りた龍のように横に長く尾を伸ばす漆黒の平たい巌があり、東に向かって大きくはみ出しているため、全体としてギリシャ文字のΓのような見掛、上に乗る巖が大きく東にずれているため、西側にはその分、岩棚のような平らなスペースができており、そこには古代の祭祀の跡があった。又その祭祀跡から頂上に横たふ巌を見上げると、大きな亀裂がジグザグに逆立つ鯱鉾のように縦に入っている。
横に平たい巖が彝龍と呼ばれたため、亀裂は彝龍の裂と呼ばれた。
大巌の垂直の壁面に穿たれた参道を登ると。中腹あたりに鬱蒼と樹木の繁茂した壁龕のような洞窟があり、眞神神社がある。そこは彝之家の本家でもあった。
「これだ」
八角堂の中は經文庫蔵になっていた。
棚があり、そこから桐の匣を出す。匣を開くと、貝多羅葉が。
「こいつがそうさ」
〆裂がめくる。
『अस्तित्वं केवलं अस्तित्वम् एव। शून्यम् अस्ति। अतः शून्यमपि न भवति । सर्वथा उन्मत्त स्वतन्त्रता। मार्गस्य पार्श्वे पुरातनं, चिप्ड् पाषाणप्रतिमा अस्ति। उन्मादस्य अत्यन्तं स्वतन्त्रता अस्ति।』
(astitvam kevalam astitvam eva. shunyam asti. atah shunyamapi na bhavati . sarvatha unmatt svatantrata. margasya parshve puratanam, chipd pashaanapratima asti. unmadasya atyantam svatantrata asti.)
「存在はただ存在である、空である、それゆえ空ですらない、全くもってクレイジーな自由、道端にある古くて欠けた石像、過剰なまでの狂気の自由である、って感じかな」
真兮が感心する。
「イタルの反歌は、全くの思いつきじゃなかったのか。これを彼が見た可能性は」
「皆無だな。本家でも、一部の人間だけだ。やつは分家の末端だ」
叭羅蜜斗が口笛を鳴らす。
「イタルって凄え」
そして、一年後、天易真兮はハーモニカを吹く。
天平普蕭は語る。
「あれはあれで、真兮のイタルに対する反歌なんだろうな」
二十歳になって、真兮は普蕭の自宅を訪れ、
「これが死の日の未明、ノートの最後に書かれたものだ。詩なのかどうかすらわからない。意味なんて当然わからない。
ただ、夜明け前の、漆黒の闇が黒っぽい紺色に少し透き通ってきた、清澄な静寂の時刻の日本的なかそけさを書き表すところから始まって、生命の超越へと想いを馳せさせている。
彼がどんな境涯に立ったのか。小生には想像すらつかない。
いずれにせよ、彼は超越の彼方へ羽ばたいてしまったのだから」
透きとおるBlue Black . 明未ぬ寅一つ(※)刻。靈のごと狭霧幽玄ふ。白黎の氣を孕みつも時鳥、ふかく眠りぬ。あを(蒼) き とき こころ やすらぐ。
蜉蝣の薄羽の做せる蒼褪めし、翳り幽し。さやけくも、もろくかよわきもえ初めの、夭きいの(命)ちあわく薄し。淡墨の柔らに滲み逝くすゑに染入り清みて透き喪せる、とき。無に添ふ瞬。
黄昏に觀ぜらる滅亡の、狂ほしく做す狂躁の、涯しなき焦燥に、滾ちる美とは眞叛さにあり。
明け前のきよらも厭くれば、気まぐれに優しきJazzの記録を盤に載せて針を置く。
満ち足りてもの哀しくも繊細な、澄みし音いろ。静かなる、午後のカフェにて聴くにしあらば、ふさはしと想へども、敢へてこの、瞬に聴く。
ともに静といふとても、寂莫と静謐と、あい互ふ。差異響きあひἉρμονία(ハルモニア)做し、あぢはひぶかし。
考は空きものぞ内在へと素の儘直截くる已が生鮮やかせ、眞たらしめて眩きリアル。いのち盈ち、盈ちあふれ、燦めくVivid. 人は、いや、すべての生は、これを求めぬ。いでんしは求むあらはれ。おもへらく、存続せんと存在が著欲するは眞求むゆゑ。
生存は生存優せよと死をもちて恫喝するも、人の求むは眞歓びなり。躬らを牽き裂き翔ぶが生命の大義のすべて。存在の大義のすべて。
肯ぜよ。龍のごとくに肯ぜよ。躬らを超え、無際限なる龍の肯じ。肯じ生きよ。
天に齊しき聖なる賢者いはく、生存は非なるかな、生命にあらず。
※寅一つ……午前三時から三時半。