書庫の女神
ふみふみふみふみ。
猫の足が女神の背中を押す。
「うーん、気持ちいい……」
「女神様ー起きてくださーい」
「あ、なんだお前か……気持ちいいからあと百回くらい頼むわ」
「承知いたしました爪を出しますね」
「ドSな猫ね」
黒猫はぴょん、と女神の背中から飛び降りた。床にうつ伏せで倒れていた女神は、その姿勢のまま大きくあくびをした。
「さっさと起きてください、もう人間世界で三日は経ってますよ」
「いやー久々に本読むと眠くなっちゃって。てかお前もその間私のこと放っておいたの?」
「私も忙しいんです」
「……そう」
女神はよっこらせ、と立ち上がった。その手に本が一冊。背表紙に「転生者イリセ・アキラ」とある。
黒猫は周囲にぐるりと目を向ける。
書庫には、異世界から来た者について書かれた本が収められていた。
姉妹の女神の共有の場所だ。
「女神なら世界のことはなんでもお見通しだろう」と黒猫は考えていたが、そういうものでもないらしい。女神曰く、「なんでもかんでも見ようとしたら、頭痛がしてくるのよね。そのうち頭パーン! ってなっちゃうわ」とのこと。
使われている語彙が幼稚なのが気になったが、ともかくそういうことらしい。
「さて、なんで王子があんな目に合ってるのかな……この転生者で合ってるといいんだけど」
女神は細い指でページをめくる。
「イリセ・アキラは転生後、田舎ですくすく育っていた。ある日、森で魔物に襲われていたセレイス国の騎士団長に出会う。
とっさに放った魔法で魔物から彼を救い、力を認められた彼は王都に行き、騎士団の訓練を受ける。
彼はみるみるうちに優秀な魔法騎士としての頭角を現す。そして、エルフ族の美しく優しい姫、ソフィアに惹かれていく。
そんな中、ソフィアの婚約者である、第二王子のリヒトに嫉妬され決闘を申し込まれる。もちろん勝利。
リヒトは卑怯な手を使ったと皆から責められ、エルフ族の姫との婚約を破棄されて姿を消す……。
なるほどね」
黒猫も本棚の上からのぞきこんできたが、後はイリセとソフィアが魔王退治に旅立ったところで記述は終わっていた。
女神はパタン、と本を閉じる。
「第二王子のリヒトにはそんな過去があったのね。あの浜辺にいたのは……大方、国外へ向かう船が難破してあそこに流れ着いたんでしょう」
「そうなんですか」
「今の時期は東の海に嵐がいくつも発生するから、巻き込まれたのかもね。
さて、イリセの記録では、彼は姫との仲を裂こうとする悪役なわけだけど。
でもねぇ……これって異世界から来た側の記録だからねー。視点が変わればこの王子も意外といい人だったりして」
「そうですよね!」
素早い返事に女神はじっと猫を見上げた。
「なんか、ホントお前、彼に入れ込んでない?
なぁに? ああいうのがタイプなの?」
「いえいえ、ちょっと気になるだけですよ」
猫はそそくさと書庫から抜け出した。
女神はその後ろ姿を思案顔で見ていたが、やがてそっと本を元の棚に戻した。