クロエの物語
村を出て、知らない道をゆく。不安はあるけれど、隣を見ればリトがいて、私は嬉しくなる。
まさかこんなことになるなんて、転移した時には思ってなかった。
「ようこそ、遠き星の人の子よ。
──さあ、あなたの名前は?」
召喚された時、私は突然のことに戸惑っていた。
真っ白な、石造りの……神殿みたいなところに、制服姿の私は座り込んでいた。
「どうして……私、学校で飛び降り自殺したはず……」
頭にフラッシュバックする、過去の記憶。
私をいじめるクラスメイトたち。黒板への心無い落書き、傷をつけられたバッグ、破られた教科書、プールに投げ込まれたスニーカー。
親にも心配をかけると思って相談できず、どんどん追い詰められていった。
「いじめられるのは私が悪いからだ、私さえいなくなれば」
そんな思いでいっぱいになって──5階の教室から飛び降りた。
「そう、確かにあなたは飛び降りた。そのタイミングで私の召喚魔法が発動したってわけ。助けられてよかったわ」
「そんなこと……可能なんですか」
「女神ですから」
そしてウィンク。私は拍子抜けした。
なんだかこの女神様は、私が物語で触れてきた女神とは違う。とっても人間味があって、どこかゆるい雰囲気もある。
「──それで、名前は?」
「黒崎……美代といいます」
「クロサキミヨかぁ……うーん」
女神様は杖をまるでマッサージ道具のようにして、肩をぽんぽん、と軽くたたいた。
目を閉じて何事か考えているかと思ったら、ぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、クロエにしましょ」
「え?」
「せっかく異世界転移したんだもの、自殺するほどつらかった人生は置いておいて、新しい名前で新しい人生を生きるといいわ」
「クロエ……」
「よろしくね、クロエ」
私は小さな声で「はい」と答えた。
「通常、転移したらすぐ人の世界に降ろすんだけど、クロエはどうする?」
「人の世界……」
「クロエの前世にあった、娯楽に描かれるものと近い世界が広がっているわ。十の王国があり、数十年前に魔王が現れて魔物がはびこり、騎士や魔法使いが活躍している世界よ。
転移または転生した者には魔法の才能がランダムに与えられます。
あなたの場合は治癒魔法ね。十分食べていけるスキルよ」
「……」
私は考え込んだ。確かに、そういった物語には触れてきたことがある。異世界に来たことで、主人公たちは苦労しつつも華々しく活躍するようになる。
だけど、今の私が異世界に来たからって、同じようにやれるとは思えない。何より……怖い。
黙っている私を見て、女神様は「ついてきて」と別な部屋に連れて行った。そこは女神様の私室のようだった。バルコニーがあり、絨毯があり、ヨーロッパの宮殿にあるような、装飾付きの長椅子があった。
「ところであなた、猫は好きかしら?」
「えっ……猫? わりと好きですけど……特に黒い猫は」
「じゃあそうしましょう」
女神様は杖を一振りして、私を猫に変えてしまった。
「ええっ!?」
しかも人の言葉がしゃべれる黒猫だ。
さらにもう一振りして、絨毯の上に水晶玉を出現させる。こわごわのぞきこむと、そこには人の世界が写っていた。
「お試し期間ってことで、ここでしばらくゆっくりするといいわ。
水晶玉から下の世界をのぞいてみなさい。気になる時はバルコニーから降りてしばらく過ごしてみて、それでクロエが『ここで生きたい』と思える場所ができたら、私に教えて。
──さて、慣れない召喚魔法を使ったことだし、私はひと眠りするわね」
女神様がそう言って1人にしてくれて、私は水晶玉を見るようになった。水晶玉からは様々な国、様々な人達を見ることができた。
そして私は、リヒト=ヴァインシュテール……リトを見つけた。
優しすぎて、悪役になってまで許嫁の恋を守った人。船が難破して、浜辺に流れ着いて。
彼を見るうち、こみ上げてくるものがあった。
──あの人の、力になりたい。
私は、書庫で女神様が眠った隙にバルコニーから飛び出し、人の姿で村へと降り立っていた。
村外れで倒れていた彼を、人の住んでいない小屋に運んだ。私は村に合った服装になっていたし、村人達は私に何も聞かず、食事の作り方や地理を教えてくれた。あれは女神様の御加護だったのかなと、今にして思う。
リヒトはリトと名乗り、日に日に元気になっていった。私は神殿と村を行き来した。
時折、怖くなった。彼は今、私の保護が必要だ。でもいつか村を出ていくかもしれない。私を必要としなくなるかも……。
だから、リトが私を必要としてくれて、旅に誘ってくれて、心から嬉しかった。生きる力が湧いてきたのを感じた。
この人となら、大丈夫。
生きていこう、この世界で。
空を見上げた。太陽はまぶしく、神殿は見えない。
それでも、女神様がどこかで見守ってくれている気がした。