第70話 噛み跡
予想していた言葉が投げかけられ、腕を振り解くが、ルドルフが距離を詰めてくる。部屋のドアはすぐ目の前なのに、その手前の壁際に追いやられる。壁とルドルフの腕に閉じ込められる形で捕らえられ、万事休す。もはやどこにも逃げられそうにない。
バニラの匂いで、頭がくらくらしてくる。甘い眩暈に、私は自分が匂いに酔い始めているのを感じる。顔が熱い。
「い、」
「嫌なの? 俺のこと好きって言ってくれたのに。お嬢言ってたよね? あとは、タイミングだけだって。俺の牙も一度掠ってる。なら、さ――」
すり、とルドルフの指が髪、鎖骨、首筋の辺り、と滑りる。ぞくぞくとした甘い痺れが腰から背へ抜けた。私はその感覚に腰が抜けそうになった。この感覚の意味するところについて気づいてしまったから、余計に変になってしまう。
「た、確かにそう言ったけど!」
「だから、俺は今すぐちゃんとした番になりたい。少なくとも、そうすればもうお嬢に変な虫がつくこともないし、他人の匂いに酔うこともない。ゲームのことだって、理論的には厄介ごとに巻き込まれることもなくなるんじゃない?」
ルドルフが詰めてくる。
それはそうなのだ。
私はほとんどおかしくなったかのように叫んだ。
「待て! 待ちなさい! 違うの! 私にとって問題なのは、身分なんか、だけじゃないの! だから急に気も変わったりなんかしないわ。ただ――」
「じゃあ、何が問題なの?」
「ただ、私の心の準備が出来てないの……」
この後に及んでまだそんなことを言っているのが恥ずかしい。しかし、本当の本当に準備が出来てない。
「だ、だって私、そういうムードじゃないもの。もっと雰囲気が欲しいの。とにかく、心の準備が出来てない。だから、待ってちょうだい」
ルドルフの目を覗き込みながら、懇願する。ルドルフは眉を寄せて少しだけ目を閉じた後、ため息と共に腕の囲いを解いた。
「お嬢は性悪だけど、ロマンチストだからね」
「そうよ。だから、今じゃないわ!」
ルドルフと壁の間から逃げ出そうとした私を、ルドルフは抱き留める。再び捕まった私の頭に自分の顎を乗せて、ルドルフは小さく唸った。
「……お嬢から理解できる理由で待って欲しいって言わせただけ、進展かな? でも、ちゃんと分かってる? 『待て』ってことは、『よし』があるってことだよ。つまりは、俺とそのうちちゃんと番うって約束してくれたって理解するからね」
「考えておくわ」
「そういう意地の悪いことを言うなら、旦那様と奥様にも先回りで報告しておくから」
「なんでそこでお父様が出てくるのよ」
ちょっと怒ったような口調でルドルフはそう言った。しかし私の続く言葉を聞くと、吹き出すように笑った。
「お嬢が俺を『運命』って認めたから、ずっと前約束した通り、番になるってね」
「私、そんな約束してないわよ」
私をすっかり腕に収めていたルドルフが、それらを緩めてこちらに向き合う。
「俺はしたよ。旦那様とだけど」
「お父様って……」
「ライオネルとお嬢が婚約した時に。旦那様が、もしお嬢が俺を『運命』だって認めるか、ライオネルが『運命』を見つけたら、大人になったらお嬢と番になっても良いって言ったんだ」
確かに、お父様はあの時私にもそんなことを言ってた気がする。ただ、ルドルフに結婚を許した話は聞いていない。その番云々の話が殿下との婚約の時だとすると、思っていた時期と話が全然違ってくる。お父様との約束は、ごく最近の話だと思っていた。
そういえばあの時、ルドルフが大泣きして、私だけ先に返されたんだったかしら。その時すでに、お父様が約束したっていうの? そんな幼い子供に?
「旦那様には『運命の番』の奥様がいたけど、自分はすごく幸運だったって。でも、俺には越えなきゃいけないことがたくさんあるから頑張りなさいって。だから旦那様はずっと応援してくれてたよ。家政婦長とか、お義父さんも」
私が分からなかっただけで、大人たちはきっと早々にルドルフが私の『運命』と気づいていたらしい。ヴァイパーの父親にまで話がいってたと言うのには、驚きしかない。だから、ヴァイパーもルドルフと早くくっつけとせっついてきたのかもしれない。
「その時にお嬢とも約束したんだ。ライオネルも婚約のせいで、お嬢やみんなが不幸になるんだって。だからそんなことにはさせないって」
「…………」
私にとっては子供の慰めだったのだろう。だからその会話は約束としては日記にも記憶にも残っていない。ルドルフが度々口にする私としたという約束は、きっと私にとっては戯言で。それでもルドルフにとっては、大切だったに違いない。
私の罪状は増えるばかりね。
どことなく誇らしげルドルフを見て思う。しかし、ルドルフがずっと自分を思ってくれていたという事実は胸温まるものだった。さっきまでの照れ臭さよりも愛しさの方が優ってきてしまう。絆されている自覚に、私は小さくため息をついた。
「……番のことだけど、私を裏切らないって言うなら、考えあげても良いわ」
「そんなことするわけないじゃないか。俺はお嬢に拾われた時から、お嬢に誠実だったはずだよ。だってお嬢のことが好きだったんだから」
ルドルフは私の体を離し、忠実な犬のように目の前に膝づいた。私の手を勝手に取り、手のひらをまじまじと見つめる。
「俺が初めて噛もうとした時の傷、まだ残っちゃってるんだね」
「何を嬉しそうにしているのよ。これ以上治らないのに。首筋にも、牙の掠った傷が薄くでも残ってるって言うし」
牙の掠った痕は、体温が上がった時だけ、薄く白い線が見えるらしい。自分じゃ気付きようもない条件で、私はその現象を始めて目にした時、呆れてしまった。
それじゃ、誰かに噛まれるような状況にない限り、気づくはずがないじゃない。
「責任は取るよ」
手のひらにルドルフが口づけてくる。なんだかくすぐったい。私は眉を顰めた。
「責任って」
「身分も一応は貴族になれたし、もうお嬢について回る小さな弟じゃないってこと」
私の指の向こうで、ルドルフの目が細まった。そのまま、ルドルフは私の左手の薬指を噛んだ。
「っ、」
「甘噛み。他は忘れてもいいけど。この約束だけは、忘れないでね」
甘噛みと言う割に、出血はなくともちゃんと噛み跡がついている。それを見て、主人の手を噛んでおきながら、私の駄犬は嬉しそうに嬉しそうに笑った。なんだか面白くない私は、ルドルフから自分の手を取り上げ、眉を下げている額を軽く叩く。
「お前、私に何度唾つけしたら気が済むのよ。……それなら、まず、主人の手を噛むような真似はしないことね」
しょぼんとなったルドルフの銀色の頭をくしゃくしゃと撫でる。ルドルフは私が髪を揉みくちゃにするのを子供のように喜んだ。
「それから、次は絶対に避けないこと」
「お嬢……?」
「そうやって呼ぶなって何度もいってるでしょう」
私の命令を第一に従う私の、私だけの従者。忠実な使用人。右腕。私に前世の記憶があると知る共犯者。弟。子ども。ペット。家族。なんでも良い。絶対に私を裏切らない味方。転生してから私が求めていたものを担ってくれていた、私の『運命』。
私がお前にとって、色々な役割を持っていたように、私にとってもお前はずっと特別だった。まあ、前倒しになった部分も一部あったけど。
「最後に、これからは私を名前で呼ぶこと」
青みがかった金の目は驚きに見開く。頭を乱していた手をそっとその首筋に添える。
「馬鹿ね。お前、私の番になりたいんでしょう。妻のことをお嬢なんて呼ばないのよ」
そう言って、私はその首筋に噛みついた。
(終)




