第65話 猛犬
けたたましい音とともに、部屋の中へ粉々になったガラスが飛び散る。鋭い音ときらきら光る破片は、自分が助かったのだという何よりの証拠だった。
私はついに足を解き、ルドルフの出現に気取られる不埒者の急所を蹴飛ばした。立ち上がり、ルドルフの元へ駆ける。しかし、近づいた瞬間、自分がどんな格好をしているかに気がつき、私は途中で足を止めた。
「あ……」
噛まれることもなかったし、私が恥ずべきことは何も起こっていない。しかし、私は乱暴されそうになるところを、ルドルフに見られてしまった。今の今まで自分を守ることに必死で、そこに気がついていなかった。
先ほどまで一番会いたかった相手が、一瞬で一番会いたくなかった相手になる。
さあ、と顔から血が引く。逃げるの必死で、ルドルフの表情なんて、見てなかった。
私、肌を触れられて、ルドルフ以外に、汚い――
瞬間、私はルドルフに手を引かれ、バニラの匂いのする腕の中に抱き留められた。ルドルフが私の髪に顔を埋め、安堵の息をついた。
「お嬢、……良かった。噛まれなかったんだね。それに――」
ルドルフが私を抱きしめて、私以上に苦しそうにうめく。自分が受けたショック以上のショックを受けている男を見て、私は自分がそれでもなおも受け入れられているのに気がつき、涙が溢れた。
「良くないけど、無事で、良かった……」
ルドルフが首筋のあたりで話すのに、ぞわぞわとした感覚が走る。しかし、そこに先ほどまでの不快感や嫌悪感はない。あまりの違いに、そんなことを考えているタイミングではないのに、自分の発見に自分でも驚いてしまう。
今までも、セレナや殿下やヴァイパーなんかに髪を触れられると変なざわめきがあったけど、ルドルフのは違う。でも、それって。
今までの自分の途方もない鈍さに眩暈がする。ルドルフは自分の上着を脱ぐと、私に着るように渡してきた。私が雨に濡れそぼったそれを羽織ると、ルドルフは後ろを向いた。
瞬間。
「――、がっ」
私に蹴られてから蹲っていたらしいハイエナの獣人が、ルドルフに顎ごと殴り飛ばされ、仰向けに転がる。すぐに口元を抑えているのを見ると、口でも切ったか、歯でも折れたかもしれない。
その光景を見て、私は一瞬我を忘れるが、ルドルフがなおも制裁を加えようとしているのに気がつき、私はやっと戻った血の気を再度失った。
「ル、ルドルフ! 止めなさい!」
その腕に縋り付く。が、ルドルフは床に伏している相手から目を離さない。身をかがめて、攻撃体制になったまま、微動だにしない。私の言葉も耳に入らないようだ。
相手は貴族だ。もし、このまま殺したりでもしたら、ルドルフが処刑されかねない。
「駄目よ! これ以上は、いくらこの状況でも、正当な防衛とは認められないわ!」
悪役令嬢だと知った時、私闘や死刑、私刑に関する法律を調べたことがある。女性相続人の話は大っぴらにされないことを考えると、いくつかの変な判例についての理由が今この瞬間に繋がってくる。強制的に誰かを番にすることを禁止する法律はあるべきなのだが、まだない。なら、過剰防衛はただの暴行や殺人として判断されることだろう。
家格や身分に大きく差があれば、貴族でさえ賠償金で済まされる場合もある。いつだって泣きを見るのは、下の階級に居る者たちだ。
ルドルフを失う。それだけは、駄目だ。
「さあ、ルドルフ。こっちを向いて」
どうにか止めようと、冷静を装い、ルドルフの腰にしがみつく。が、ルドルフはこちらを一瞥しようともしない。
「いやだ」
ついに答えるが、ルドルフの返事は短く、取りつく島もない。
しかし、それでも私も諦める事はできない。振り解かれそうな腕に力を込める。ルドルフと事を構えようかとも思ったが、それだと私が襲われて、ルドルフがそれを防いだという事実が曲解されるかもしれない。
私がどうにかしようとしている間に、ルドルフがもう二度目の蹴りを入れるようとする。ハイエナの獣人が、ぎゃっと声をあげて後退り、その場に転んだ。
「ルドルフ、これは命令よ。これ以上の攻撃は、だめ」
私の言葉に、ルドルフがこちらを見る。その瞳孔は大きく開いてる。怒りで気のふれた目。血走り、怒りと興奮で虹彩が赤く暗く光っている。それは不埒者へ向けられているのか、私へ向けられているのか、分からない。
これが、オオカミ型が本気で怒った時なのね。
この姿を見ると、ルドルフが私を噛もうとした時には、かなり手加減していたのだと良くわかる。前世の動物としてのヒョウのメスとオオカミのオスの大きさは変わらないはずなのだが、この世界はこの世界だ。男女の補正の方が強く出るのかもしれない。それによく考えれば、私はヘビが混じっている。その違いがあるのかもしれない。
「お嬢は、こいつまで許すの? いくらお嬢の命令でも、それだけは」
恐怖で気絶したらしいハイエナの獣人を指差し、ルドルフは怒りの唸り声を上げる。
「許すわけない。でも、これ以上は駄目。過剰防衛よ。お前が処刑されるわ。私はそんな事をお前に許可できるとでも思っているの?」
「でも、だって、こいつがいたら……。お嬢は悪くないのに。お嬢が……されて、修道院に送られる【エンド】なんて、俺には耐えられないよ!」
ルドルフが【エンド】なんて言葉を使うのを初めて聞いた。それは私、私たちにとって、特別な意味がある。私は自分が知らない何かがあるのだと、やっと気がついた。ルドルフは荒い息のまま、信じがたい言葉を続ける。
「お嬢がセレナ様を屋敷へ呼んだ日。セレナ様が暗い顔をしていたから、話を聞いたんだ。セレナ様は匂いに酔ったことを心配してた。ライオネル以外のルートで、匂いに酔わされて、強制的に番にされて、修道女になった【エンド】があったって。ライオネルのルートにも、お嬢が修道院に入る【エンド】がある。だから……」
いつかメモした、ライオネルルートの【グッドエンド】のディライアの記述。
【グッド】
ヒロインとライオネルが結ばれる。しかし、ライオネルの暗い部分をヒロインは身に受け続けることとなる。ライオネルは王族として誰にも見せられない浅ましい自分を受け入れるヒロインに執着し続ける。
ディライアは婚約破棄され、とある事件が起こる。侯爵家の嘆願により、修道院へ幽閉される。明言は避ける。
不意に、ルドルフが前に私へ投げた言葉を思い出す。
『セレナ様に関わらず、少しでもボタンを掛け違えれば、お嬢が不幸になる可能性はそれだけあるってことでしょ?』
ルドルフは爪が刺さって血が出るほどに、自分の手を握り締めている。
「俺はずっと心配だったんだ。だってセレナ様がライオネルルートに入ったのは間違いない。でも、無いはずのお嬢のルートに入ったんだろうって、二人とも話してたけど。俺は楽観出来なかった」
だから、と。ルドルフがハイエナの獣人の方へ向き直る。
完全に始末をつけるつもりだというのが私には分かった。でも、私の力では止められそうにない。なお悪いことに、まだだいぶ遠いが廊下の方が騒がしくなってきている。今日は殿下とダイアナ様がいるはずだ。そんな学園内で窓ガラスの割れるような音がしたら、騎士団たちは必死になって原因と場所を探すことだろう。すぐにここへも騎士たちが押し寄せる。もしこれ以上、何かする姿を見られたら、現行犯として不利になる。
「わきまえなさい。相手は貴族なの。お前、罪人になってしまうわ」
懇願しようと、それでも行こうとするルドルフの首元を掴んで顔を寄せる。
命令にも聞かない。脅しも効かない。言いくるめもできない。今までの方法が何も通用せず、私は本音と説得をごちゃ混ぜにしながらルドルフを止めようと必死だった。
「そしたら、もう一緒にいられないくなる。お前、前に言っていたでしょう? お前以外の誰が、私と一緒に居られるっていうの?」
のけぞったルドルフの額に、自分の額を押し当てる。冷たい雨水が滴っているが、汗ばんだ肌は熱い。その興奮が分かる。私は聞き分けのない駄犬を止めるために、絞り出したアイデアを実行するしかないということに気づいた。
……ショック療法で、効けば良いんだけど。
「こういうことも、出来なくなるのよ?」
掴んだ首元を強く引き、自分の唇をルドルフの唇に押し当てる。ルドルフは驚き、瞳孔の開いた目を更に見開く。
私はそのまま抱き寄せるようにその体を引き、ルドルフに膝をつかせた。
部屋の前が、騒がしい。目を白黒させているルドルフを床に置いたまま、私は自分が羽織っているルドルフの上着がズレていたのを直した。ドレスの裂けてどうしようもない部分は布を寄せて手でつまむ。そしてこれ以上の恥を晒さないようにして待った。
少し後、騎士たちがドアを蹴破り、雪崩れ込んでくる。
遅いわよ。無駄に学園の見回りをしているんだから。事が起こる前にどうにか出来なかったの? まあ、でもこちらは間に合ったから良かったもの。
流石のルドルフも復活したらしく、私の姿が見えないように騎士たちの前に立った。
「これは……?」
騎士たちは、状況を見て困り果ててしまったらしい。どう考えても何かが私の身に起ったが、騎士たちは男性ばかりだ。ルドルフの影に隠れている私に話を聞くこともできない様子で、伸びているハイエナの獣人の介抱をし始める。
ハイエナの獣人は、目覚めて騎士団の姿を認めた瞬間、喚き始めた。
「あのオオカミを捕まえてくれ! 突然暴れ出して、僕を殺そうとしたんだ!」
どう見ても、貴族の格好をしているハイエナの言葉に、騎士たちも従うしかない。顔を見合わせた後に、ルドルフと私に近づいてくる。こうなったら、貴族階級でないルドルフの立場は弱い。不恰好は承知で、私は騎士とルドルフの間に入り込む。
「ちょっと――」
私が口を開いたその瞬間、重なるように凛とした声が響いた。
「状況から見ても、君がディライアを襲って、その従者から返り討ちにあったとしか私に見えないがな」
騎士たちの挙動が止まり、一斉に有象無象が部屋の端に寄った。百合の匂いのする麗人が入口に立っている。その人は私を見ると、ゆっくりと歩み寄った。その美しい憧れの人にボロボロの姿を見られ、私は呼びかけを絞り出すことしか出来なかった。
「王女殿下……」
「ダイアナで良いと言ったろう。ドレスが台無しだ。これはあの可愛いハリネズミの仕立師が泣くだろうね」
ダイアナ様は肩をすくめると、自分の着ていたマントを私にかけた。何も言えない私に、ダイアナ様はウインクをして見せた。小さく、私の耳元で囁く。
「少し、分かるよ。私もつい最近、弟たちが生まれるまでは、王位継承権第一位の第一王女だったからね。女性相続人ほどの苦労ではないだろうけど」
幼い頃から忠実な騎士団と共にずっといなくてはいけなかった理由は。
私がその意味を噛み砕く前にダイアナ様は踵を返し、ハイエナの前に立った。
「君からは話を聞かなくてはならないな。私はディライアから、オオカミの彼は彼女の『運命の番』だと聞いているからね。彼女に無理矢理酷いことをする理由がないんだ」




