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第52話 シフト・3

「おや、泣いていらしたんですか」


 部屋に戻ってきたヴァイパーが開口一番、そう言った。


「えっ⁉︎」


 私はどきりとして、急いで目を隠した。そして冷静になる。確かに泣きそうにはなったが、我慢して涙は飲み込んでしまった。手を下げると、慌てた私を見ているヴァイパーが微かに笑っているのを認める。そこで、私は自分が揶揄われたらしいのに気がついた。


「……騙したわね」

「いつもそれくらい分かりやすくなさって頂けますと、幸いなのですが。それで、アスピスにはお会いになりましたか?」


 なぜ、それを。

 私はあまりに驚き、聞き返せない。


「なられなかったんですか?」

「い、いいえ。テーラーと結婚するって報告されたわ」

「そうですか。アスピスも良い年齢ですから。手の届かないものをずっと追いかけているよりは、堅実に落ち着いてしまった方が、本人にとって、ずっと幸せだと思います」


 アスピスの好意をあけすけに話すヴァイパーに、重ねて驚く。

 これは、私のことを言っているのよね? まさか、そこまで分かっていて、席を外したっていうの?

 冷たい爬虫類の目は瞬きもせず、私のことをじっと見返してくる。ヴァイパーが何を考えているのかは、手に取るようによく分かる時と、そうでない時の差が大きい。怒っていたり不服な時は、牙が見えたり気が漏れる音を立てがちなので分かりやすい。しかしこうやって表情を殺されると、ヘビ型に囲まれて生きてきた私にも読めない。

 その真顔に気圧されて反応をしないままでいると、ヴァイパーは私から目を逸らし、運んできたティーセットでお茶を淹れ始めた。


「失礼。てっきり、本人からはお聞きしているかと」

「いいえ、お陰様で。ちゃんと聞いたわ」

「そうでしょうとも。でなければ、お嬢様が気落ちされている理由がありませんから」

「…………」

「どうぞ」


 ソーサーに乗ったカップがソファーセットのテーブルに置かれる。私は体を沈めていた肘掛けから立ち上がり、その前に座り直した。ヴァイパーにもソファにかけるよう勧め、ゆっくりと唇をお茶で湿らせる。わずかに香るベルガモットは微かすぎて、紅茶のフレーバーなのか目の前の男のものなのかは分からなかった。

 ……癪だから、なんでどうして、なんて聞いてあげない。誰かの思う通りに自分が動いてるっていうのは、面白くともなんともないもの。

 ヴァイパーに関して言えば、私を見透かしたようなことを言うのは珍しいことじゃない。だから気にしても無駄。ここにプライドを爆発させても仕方ない。でも、今日は特にひどいと感じる。打ちのめされたばかりの私にとっては、余計に厭わしい。


「あの二人はうまく行くタイプだと思いますよ。テーラーはアスピスと似ているところがありますから。同病相憐れむじゃないですが」


 私の反感に気づいているのか、分かっていて煽っているのか。その両方か。なんとはなしに、ヴァイパーがそう言う。いくら今日の態度が気に食わないとは言えど、少し心配していたことについての話題。理由は腑に落ちなくとも、アスピスやテーラーにとって知己のヴァイパーがそう言うのは心強かった。


「そうなのね。それなら、良かったわ」


 少しほっとして、私はため息をついた。


「……それで、お嬢様は喜ばれるのですね。悲しんだり喜んだり。結局、お嬢様とアスピスに何があるわけではないのに。それで、実際のところ、お嬢様はアスピスたちのことはどう思っていたんです?」

「どう、って。そうね。二人とも優秀な部下だし、良い関係ではあったと――でも、貴方が聞きたいのはそういうのじゃなさそうね? 私にとって、どんな存在であったのかってこと?」


 急に投げられた質問に戸惑いながら言葉を探るが、途中で首を振ったヴァイパーを見て、私は途中で話している内容の調整を試みる。私の予測は正しかったらしく、ヴァイパーは頷き肯定した。私は紅茶を口に含み、少し考える。

 私にとって? 難しいことを聞くのね。もし、私に何か苦言を呈したいのならはっきりそう言えば良いのに。

 ヴァイパーに心のうちを話すことに抵抗はない。別に今までも好き勝手に話しかけてきたから。しかし、今回の質問は、私が何を無くしたかの再確認することでしかない。言語として表現した時に、私の中できっと喪失感はもっと重くなる。それは私の望むところではない。

 じゃあ、ヴァイパーはそれを望んでいるの?

 そこまで考えて、自分の被害妄想に気づき、切り上げる。ヴァイパーが何を目標にして進めている会話かは読めないからと、何かあると疑っても仕方ない。もしヴァイパーの言いたいことが考えていることなら、少し自分でも自覚があることではある。そう言う罪悪感が思考を歪めている。

 全てにおいて、結局は私が招いたこと、ってね。

 私は下唇を噛むのをやめ、ようやく出した単純な答えを口に出す。


「なら、アスピスは頼りになる兄……いや従兄かしら。テーラーは、お抱えの芸術家って感じ。だから私は妹かパトロンね」


 親類や役割で例えるのはつまらない答えだろうが、自分としてはかなり上手く概念として抽出できたような気がする。私を付かず離れず支えてくれた近しい人と、自分が理解者であれると思っていた人。

 これからも支えてくれるだろうし、私の下で働いてくれるだろう。でも、何かが前とは決定的に違う。アスピスについては恋愛感情での好意を返せないのに、ずっと変わらないでくれ、と願うのは酷いことだと分かっている。前世でだって恋愛や友情の一悶着はあったと言うのに、こうも心を乱すのは私がだいぶ前世のことを忘れてきているからか。それともただ、人に何かを強いることを心底望む強欲なだけなのか。

 ルドルフにすら、私のことを恋愛対象として求めないでくれなんて思っていたもの。結局のところ、私はルドルフのことを実際は受け入れていたんだけど。それでも、変わりたくない、なんてね。こんなこと、誰にも言えないけど。このヴァイパーあたりには薄々気づいていたでしょうね。

『幾つになっても子どもの頃のようにルドルフをお側に置いていらっしゃいますから』

 立場や年齢を考えろ。周りからどう思われるか考えろ。そう言っていつまでも同じではいられないと催促してきたのは、ヴァイパーだけだった。


「そういうものですか。では、その系譜なら、ルドルフなんかはどういう立場なんですか? 比較対象として知りたく存じます」

「そうね、ルドルフはペットや子供……の関係性まではいかなくとも、歳の離れた弟くらいに思っていたんだけど。今はもうわからなくなってしまったわ。それを言うと、貴方も生意気な弟か幼馴染ではあるんだけど」


 ルドルフについては、今まで自分にとってどんな存在かを考える暇は、最近山ほどあったので、以前どう考えていたかなんてすぐに答えが出てくる余裕があった。だから最後にヴァイパーについてを付け加えて、意趣返しをする。そして、口を開きかけたヴァイパーよりも先に、私はヴァイパーが言いたいだろうことを付け加えた。


「貴方が私を酷だと言うのも、今は身に染みて分かっていてよ」


 私がそう言うと、ヴァイパーは口の端で笑いながら息を吐いた。感嘆とも、充足、呆れとも取れるため息。ついにやり返すことができた私は、ヴァイパーに向かってほくそ笑んだ。


「本当にご理解いただけているとは思いませんが、以前よりはご自覚いただけたようで嬉しい限りです。ちゃんと区切りをおつけにならないから、こうやって後になって負債を支払わされることになるんです」

「やれやれ、とでも言いたいんでしょう? 何だか、全てお見通しって感じね?」

「それはそうでしょう。ルドルフよりも先に、私はこの屋敷に居ましたから。残念ながら、色々とよく見えてしまうのですよ」

「確かに。そうだったわね。なら、貴方の幼馴染って役割は本物ね」


 ルドルフは私が拾ったし、アスピスは私がお父様の伝手で見つけてきた。テーラーも私が商会へ引っ張ってきた。でもヴァイパーだけは、違う。侯爵家に代々仕えている家の者として、私が記憶を取り戻すよりも前から、父親に連れだって屋敷や領地の色々なところに出入りしていた。

 私が笑うと、ヴァイパーも笑う。いつもの嫌味や皮肉や意味のこもった笑みでなく、柔らぎがあった。目には真摯ながら優しげな色味が浮かんでいる。


「私は、お嬢様が望まないのであれば、()()()()でおりますよ」

「――!」


 瞬いても、ヴァイパーの目は変わらず私を見つめてくる。


「弟はあれでもお嬢様の『運命』ですから、捨て置くとしても。私はもとより使用人としての覚悟をしてございます。その程度の忠義心は持ち合わせておりますので」


 薄々気づいている、なんて以上だわ。ここまで分かった上で、だったのね。

 自分がよく理解されていたことに、驚く。その申し出は、今まで私がどれだけ望んでも誰もくれなかったもので、意味を理解した時には息が止まるかと思った。しかし、予期せぬ理解者の出現に嬉しくも思いつつ、同時に、もし私がその申し出を受け入れた時のヴァイパーのことを心配し始めた自分にも驚愕する。

 私に合わせて変わらないで欲しいと望むことで、ヴァイパーを苦しめるんじゃないのか。それを考え始めると、やはりそんなことは誰にも願うべきことではないとはっきり分かる。頭の中には、あの苦しそうな表情をさせてしまったアスピスのことがあった。あんな顔は、もう誰にもさせたくない。

 ああ、匂いがわかったり、ルドルフのことを認めただけじゃなく。こう思うなんて、私も、どんどん変わっていっているのね。確かに、身勝手な願いを周りに押し付けていたけれど。それでも相手が自分にとって大切だからこそ、そのまま変わらないでと執着していたのかもしれないわ。関係や環境が壊れるのは、嫌だったから。

 私が即答できなかったことこそが、全ての答えだ。それでも、私は言葉で伝えなくてはならない。驚きで回らない舌をもつれさせながら、ヴァイパーに答える。


「大丈夫、よ。もう、変わらないで、なんて言わないわ。だって、使用人だとかの以前に、貴方にも自由があって。貴方が望まないことを強制なんて、できないわ」

「……出来ますよ。お嬢様は、お嬢様なんですから。確かに、弟や幼馴染と思っているような相手から取り残されて、寂しいと打ちひしがれるお嬢様を見てみたい気持ちはありますが。歳の近い主人を差し置いて先に片付く者がどこにいるんですか」


 どちらにせよ、ですよ。そう言って、ヴァイパーは目を伏せた。


「それにしても、アスピスは兄で、私は弟か幼馴染……ですか。私の方がお嬢様より年上ですので。不遜ながら、自分では兄のような存在だと思ったんですがね」

「年上って言っても、たったひとつしか違わないじゃないの」

「それでも年上は年上です。確かに、お嬢様は昔から時々年齢にそぐわないことをおっしゃっることがありましたが。それでもこの私を捕まえて弟のようだと言われたら、敵いませんね」


 ヴァイパーはまたあの柔らかい調子で笑い、私のカップに紅茶を継ぎ足した。

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