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第51話 シフト・2

 しばらくそうしているうち、ふと耳が部屋の外の音を拾う。

 最初はヴァイパーが戻って来たのかと思った。しかし、聞き覚えのある足音は、久しく会っていない人物のものに違いない。

 急ぎ駆け寄り扉を開ければ、よく見知った割れた赤い目と視線がぶつかった。ふわりとアンバーの匂いがする。久しぶりに会うその顔には、突然顔を出した私に対する驚きの表情以上に、疲労の色が浮かんでいた。


「やっぱり。久しぶりね、アスピス」

「お、お嬢様……」

「今日はどうしたの?」


 屋敷にアスピスが来ていて、私のところへ来ないなんて珍しい。と言っても、直近の状態が状態だったから仕方なくはある。

 アスピスと会うのは、私が匂いに酔って以来だ。手紙やヴァイパーを通しては連絡を取っていたが、こうして言葉を交わすのは半月ぶりほどになる。

 アスピスにはいつもの落ち着いた物腰がなく、こわばった動作でお辞儀をした。


「ご無沙汰しております。……その、お部屋に籠られているとお聞きしていましたが」

「上手く言う者がいるものね。ほとんど監禁よ。今は緩和されてるけど」


 あら、ルドルフにヴァイパーを通しての伝言を伝えておいたはずだけど。アスピスの耳には届いていないの? ならこの間のことは私が気にしていないってことも聞いてないのかしら?


「……そうですか」

「この間は――」


 ごめんなさいね。そう言いかけたところを手で制止される。

 明確な拒絶の反応に私は驚いた。

 私が口を開こうとする前に、アスピスは口早に話し出す。


「私、今度、結婚することになりました。本日はそのことを侯爵閣下へご報告にまいりました。なので、お嬢様にもこのようにお目通りが叶い、恐悦至極です」


 普段から恭しい敬語を使うアスピスだが、今日はそれ以上だ。私は先ほどの静止も相まって、私は突然の結婚報告に思ったような祝福も出来ず、拙い返事をした。


「そ、そうなの。突然ね」

「はい、私も良い年齢ですし……」


 今までアスピスが独身というのを不思議に思うことはあっても、誰かいい人が居るなんて話は聞いたことがなかった。だから、面食らったのもある。その首筋に思わず目が行く。が、褐色の肌には傷ひとつ見えない。

 まだ番っていないのかしら。それなのに結婚なんて早急ね。以前、女性相続人のことで冗談を言っていたけど、やっぱりルドルフが気にしすぎなだけだわ。私を揶揄っていただけじゃない。だってこうして、秘密のお相手が居たわけなんだから。


「それで、お相手の方は?」

「……お嬢様もご存知の、テーラーさんです」

「まあ!」


 テーラーとそう言う関係になっていたなんてことも全く聞いていない。十六歳くらいで結婚するようなこの世界では、それより十年以上は歳を重ねているアスピスもテーラーも確かに『良い年齢』と言っていいかもしれない。

 しかし、テーラーについても意外中の意外だ。彼女はワーカホリック気味で、恋愛には興味がない印象だった。だからこそ安心感があり、自分と似ていると勝手に共感していた。

 私が無理を言うと、彼女は困った顔で笑う。そしてその度に、嬉しそうに楽しそうに全力で働いてくれた。あの笑顔が心に浮かぶ。

 商会にとっては嬉しいカップルの結婚だが、本当に突然すぎで、お祝いよりも質問ばかりしてしまいそうになる。現に、さっきから不躾なことばかり考えている。

 まだ番って無いだとか、意外だとかなんだとか。そんなことは私には関係のないことで、二人が幸せならそれで良いのに。私って本当にしょうもないわね。

 私は内心をごまかすように、にっこりと笑って見せた。


「少し意外だったわ。そんな素ぶり、ちっともなかったもの。でも、おめでとう。今度、お祝いをさせてね」


 ようやく、それらしきことが言える。が、お祝いの言葉を伝えたアスピスは、ぎゅっと眉を寄せた。その痛ましい表情に、心臓が跳ねる。


「どうしたの?」

「いえ、何でもございません。大丈夫です」

「そう?」


 今一瞬見えた表情は、どう考えても大丈夫だなんて顔をしていなかった。

 今日のアスピスはやけに緊張しているし、言葉も端切れが悪い。あまり目を合わそうとしない赤い瞳に浮かぶ揺らぎ。その理由について踏み込むか迷ったが、やめておくことにする。疲れた顔をしているし、体調や居合わせた間が悪かったのかもしれない。それなら、あまり構うのもかわいそうだ。


「何だか、タイミングが悪かったみたいね。これから忙しくなるでしょうし。また今度ゆっくりお話ししましょう」


 じゃあ、と私が身を引く。

 と、アスピスが急に私の手を掴んだ。何かがあって引き留めたのかと思ったが、何を言うわけではないしそれ以上のことは何も起こらない。アスピスは掴んでいる私の手をじっと見つめるだけだ。


「ねえ、貴方、今日はなんだか変よ。本当に、大丈夫?」


 変な空気に困った私がへらりと笑いながらそう言うと、アスピスはおもむろに掴んでいる私の手首の内側に口をつけた。

 何、何なの?

 突然のことでパニックになった私を見下ろす赤い瞳が、私の手首の側で痛々しげに歪む。


「……やっぱり、これは悪手ですね。ここで止めないと、これ以上は止められなくなります」


 アスピスはやっと口を開き、吐き出すように呟いた。その開かれた瞳孔が、ゆっくりと収縮していく。それと同時に手は解かれ、そっと触れるような手つきに変わった。

 流石に、今のは、私にも、分かった。

 今までに揶揄いながら私に何度もかけられていた言葉の意味を今更ながら、ちゃんと理解する。遅くなってしまったが、私はずっときちんとした反応を返していないことにやっと気づいた。


「お嬢様、申し訳ございません。ずっと、ずっと。お慕いしておりました」


 アスピスの頬に触れている親指で、私はそっとその赤い目の縁をなぞる。指先が微かに濡れ、私は罪悪感でいっぱいになった。


「アスピス、ごめんなさい。ずっと、気づかなくて。それに、あなたを巻き込んで」


 アスピスは頭を横に振り、私の手を持ったまま跪く。


「いいえ、気づいて欲しいわけではなかったんです。お会いした時点で、お嬢様にはルドルフさんが居ましたから。私は素直な方でしたし、拒否されるのも怖かったのです。気づかないからこそ……いいえ。それに、私はそれだけのことをしたのです」

「そんなこと――」

「謝罪が遅くなりましたこと、申し訳ございません。この間のことは、心よりお詫び申し上げます。遅かれ早かれ、こうなると分かっていたのに……自重するべきでした」

「…………」

「これからも、妻ともども、どうぞお嬢様にお仕えさせてください」


 普段の穏やかな口調で、アスピスは少しだけ微笑んでみせる。

 直感的に、分かった。言葉ではどう言おうと、もう今までのようには戻れない。役割や立場は変わらない。でも、はっきりと線が引かれた、というのはひしひしと感じた。

 私が頷くと、私の左腕のような存在だったヘビの獣人は、握っている私の手の甲に口付けを落とす。そして、ゆっくりと手が離された。


「……アスピス。テーラーのこと、よろしくね」

「承知いたしました」


 恭しいお辞儀と共にアスピスは歩き去る。アスピスは決して振り向かない。私はその背を見ながら、自分の左腕を失った悲しみにどうにか耐えようとする。

 環境や立場を考えれば、今まで通りになんてもう出来ないもの。アスピスは正しい。私も変わってしまった。アスピスはその場に運悪く居合わせた。私が許そうと、主家の令嬢を同意なく噛もうとしたことは事実として起こってしまった訳で。ルドルフの時のように隠しようがない。それに、ルドルフの時ように私も見て見ぬふりを出来るわけでもない。アスピスの気持ちが分かった今、応えられないものを受け取ることはしない。許すという言葉も、こうやって寂しいと思う気持ちすら、きっと厚かましいだけ。

 私は廊下の奥から目を逸らし、元居た部屋へと戻った。

 結局、ルドルフが噛もうとした時には、抵抗はしても私の気持ちはとっくに決まっていたのね。だって、前にルドルフへ言った通り、私はルドルフを追い出さなかったんだもの。

 遅まきながら、自分の無意識に押し殺していた好意に呆れてしまう。

 とにかく、いくら私が元に戻ろうとしても、取りこぼしたものを拾おうと躍起になっても。戻るものも、戻らないものもある。それに、いずれにせよアスピスの気持ちには応えられないということが分かった。以前の私ならまだしも、今なら余計に。アスピスが言う通り、()()()()()()こんなタイミングがやってきたのかもしれない。

 なぜなら、私は、ルドルフが好きなのだから。


「こんな風になるなんて、思ってもいなかったのに……」


 物事をはっきりさせるのは嫌いじゃなかった。でも、あまりに一度に変化が訪れては消化すら出来なくなってしまう。私はじわじわと深みを増す喪失感に目の奥が熱くなるのを感じ、これ以上何もこぼさないよう目を閉じた。

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