第47話 対峙
「次に、会ったら。いいえ、もし今夜。今夜ここに来たのなら」
今夜という時間軸が私の願望なのか予感なのかは分からなかった。それでも、私は窓枠に肘を載せ、暗い庭へ目を向け続けた。洗い髪が乾いて軽くなってしまっても、窓辺から離れる気はない。
今日はこれから雨が降るらしく、月も出ていない。そろそろ雨の時期になるのだから仕方がないとは分かっているが、夜空を濁らす黒い雲が余計に私の心を重たくさせる。
一種の捨て鉢な賭けだ。頭のテーブルの上から厄介な思い込みを全て落す前に、私はテーブルごと倒してしまった。そこにはセレナと先生たちのようなときめきや愛慕なんてなく、悪役令嬢になれるような女の情念に疲弊した頭と心しかない。自分でも分かっている。私がやろうとしているアイデアは、自己中心的なものだと。
でも、私がわがままじゃなかった時なんてあるの? 気持ちを踏みにじったことは以前にもあった。それこそセレナに当てがおうとしようとしたり。それに、生意気なあれは私を性悪だと言っていた。重々承知している上で『運命』だと言っているのなら、もうどうしたっていいでしょう?
自暴自棄になっているのも自覚はある。こんなことばかり考えているから、とても疲れてしまった。早くこの思考から抜け出したい。
もしも今夜、私の部屋の窓の下に来たら。そしたら、その時は――
「……来たのね」
庭の暗がりに、丸い金の光が二つ浮かんだ。向こうからはランプの側にいる私の姿がよく見えるのだろう。こちらを見上げたそれは瞬いた。窓の下まで来たルドルフは、何だか呆けたような表情をしている。
「ルドルフ、こちらへ上がってきなさい。話があるわ」
ルドルフが何かを言う前に、私は窓から離れた。
覚悟はしていたのに、やっぱり姿を見ると気持ちは崩れるわね。もう呼んでしまったから、少なくともルドルフと対峙はしなくてはならないけれど。大丈夫。きっと私次第だもの。だってルドルフだから。少なくとも否定はされないわ。そのはずだもの。
ルドルフを待ちながら、自分を鼓舞する。
だって、そうするしかない。もう不安になりたくない。コントロール出来ない状態でいたくはない。だって……だって、私から私の世界がこれ以上離れてしまうのなんて、耐えられない。それも、私が決めたことではないことで。失いたくない。
部屋の扉をノックする音が聞こえ、私は息を呑んだ。ルドルフが来たらしい。鍵は、すでに開けてある。そのノックを放っておくと、ルドルフが怪訝な顔で部屋に入って来た。
バニラの匂いがふわりと流れてくる。
早まる心臓で身体が汗ばんでくるのが分かった。
「お嬢、鍵が……」
私と目が合う位置まで近づくと、ルドルフは緊張した顔になる。生唾を飲んだのが、動く喉仏で分かった。
そういえば、私よりも首が太いんだったかしら。
ルドルフの首元から目を逸らし、ドアの鍵を閉めに行く。
「お前を待って、開けておいたのよ。この時間に私の部屋に来るのは、初めてじゃないでしょう? さあ、そこに座って頂戴――」
すれ違い様、その甘さに混ざる別の匂いに気がつく。
認識した途端、心がざわついた。頭の中が先ほどまで渦巻いていた妄想に埋め尽くされる。内臓が縮み上がり、興奮で火照っていた身体もみるみるうちに冷めた。
あれから何時間も経っているのに。どれだけ――いいえ、やめましょう。とにかく、この思いつきは間違ってないんだわ。だって、こんな些細なことで乱されるんだから。
一瞬で振り回されている自分自身に嫌気がさす。しかし、もし私が実行さえ出来ればそれもあと少しで治る。
「この間も体調崩したって言うし、その、良くないと思うよ。特に今日はセレナ様と会ったから」
ルドルフは居心地悪そうに寝椅子に座り、こちらも見ずに私を嗜めてくる。私はその後ろに立ちながら、ルドルフが親指を擦り合わせているをじっと見ていた。
ルドルフの口から出たセレナの名前に、冷めた胸元がちりと焦げつく。幸せとは程遠い仄暗く燃える感情が、ぎゅうぎゅうと私を締め上げ始める。最近の不安や悩みを塗りつぶすような怒りと恐怖。振り払うことの出来ない悲しみが全身にのしかかってくる。
「……そうね、あの子は特別だものね」
バニラに混じった、甘い幸福の象徴のような匂いがする。私がいくら願っても、戻れなかった場所。手に入らなかったもの。そして、私がどんなに願っても成れない存在。それなのに、なぜ、そんなに合うの? これは、私のものなのに。
座っているルドルフの肩に手を回す。と、身体が跳ねる。その振動で、ルドルフが驚いたのが分かった。自分が相手をコントロールしているという事実と、垣間見えた相手の好意と期待。重苦しい憂鬱が一変、最近感じたことがないほどの満ちた気分になる。
うなじの辺りから強烈に甘い匂いがして、意識が溶ける。髪と肌の間を指でかき分け、そこに――
「お嬢! ちょ、ちょっと待って!」
唇がつくかつかないか。その一瞬。くるりとルドルフが身を捩って逃げた。振り向き、牙を寄せ付けないように私の顎を掴む。
「お嬢、後悔するよ?」
「…………っ」
「そりゃ、一瞬喜んじゃったけど……でもお嬢がこういう手段に出るような状態なら、俺も受け入れられない」
ルドルフが顎を掴んだ私の顔を見上げながら何か言っているが、そんなことは私にはどうだっていい。拒否されたという事実が私にはただただ耐え難い。
なんで、何で。何で? 拒否された。何で? どうして! 私の、私だけのルドルフなのに。裏切られた。せっかく勇気を出したのに。せっかく素直になったのに。私のこと好きっていったのに。それだけは、信じたのに。
「だからね、お嬢」
「――――っ」
急にその金の目が近づき、私は思わず平手打ちした。
今のは?
反射的に平手打ちをした後で、今、自分がキスされたということに気がつく。ルドルフが手を離し、私は床にぺたりと座り込んだ。
「お嬢、頭は良いのに、バカだね。番になるって、俺とこういうことをすることだよ。お嬢には……そうだね。今のお嬢には出来っこないでしょ?」
「そ……」
そんなことないという言葉を繋げられない。
叩かれたのは自分だというのに、ルドルフが可哀想なものでも見るような目で私を見てくる。ルドルフがため息をつく。それだけでも、傷つく。こんなことは今までになかった。
「侯爵家のご令嬢なんだから、床に座ってちゃ駄目だよ」
ルドルフは私を床から担ぎ上げ、自分が座っていた場所の横に座らせてくる。そして、子どもにするように私の頭を撫でた。
「らしくないね。まあ、俺で問題を解決しようとしたのは、らしいと言えばらしいけど」
「私らしくないって……じゃあ私はどうしたらいいのよ!」
頭を撫でる手を振り払い、金切り声を上げる。その拍子に、目頭に溜まっていた熱い涙がぽたりと落ちた。




