幕間 子犬
ほとんど喋れないほどの衰弱のため、復食はスープから始めることにした。しかし、匙を口元に寄せればちゃんと食べる。さっきまで完全に生きることを諦めきったような顔をしていたのに。
食欲があるのならば、と私がパンを小さくちぎってスープに浸してあげれば、咳き込みはするものの、口に持って行っただけ食べた。
咳はひどいが、この分なら介助があれば大丈夫だろうとお風呂に入れさせる。最初は首を振って嫌がり私にすがったが、強く言いつけると大人しく従った。
「……思ったよりも順調だけど、命を拾うっていうのは大変ね」
やっぱり異世界転生の主人公のスムーズさは主人公補正なのかしら。
しばらくすると浴室から侍女の悲鳴が聞こえてきた。
「お嬢様。あの子、男の子ですよ!」
ああ、さっきの悲鳴はそういうことか。
一度洗ってもまだ汚れているから、お湯を変えて二度洗いしているらしい。男性の使用人と交代して部屋に戻ってきた侍女がそう言った。自慢の毛並みがぐっしょりと濡れている。
「あら。私付の侍女にしようと思ってたのに。まあいいわ、ならズボンを用意するだけね。もし着る物が無いなら、私の夜着を着させておいてちょうだい」
「まさか。勿体無い。誰かのシャツを着させますよ……」
侍女は毛から水が床に滴っても気にも止められなくなっている。ネコ型の侍女の尻尾は大きく揺れ、イライラしているのが見てとれた。侍女をその状態にさせた張本人である私は、微笑むしかできない。
「お嬢様、旦那様と奥様は何ておっしゃったんですか?」
「ものすごく怒られたわ。でもだからと言って家から放り出すなんてこと、今のうちは無さそうね」
とにかく、捨て犬だとしても獣人だ。お父様もお母様も『元いた場所へ返してきなさい』なんてことは言えないだろう。それに、拾った子犬を見た両親としては何か思うところがあったらしく、最後は側に置くことを認めるようなことを言っていた。
「無事出てきたみたいね」
男性の使用人に抱えられながら出てきた子犬は、大人サイズのシャツをぶかぶかと着ていた。私をみた瞬間、腕から降りようとする素振りをしたが、腕の中から抜け出されるほどの元気はなかったらしい。馬車の中のように私をじっと見てくる。抱き抱えている使用人が哀れに思ったか、私のすぐ横に立つ。すると、子犬はか細い腕を伸ばして私の袖を握った。
これが男の子、ねえ。
捨て犬の泥を落としてみれば、見込んだ通り端正な顔をしている。まだ幼いゆえ、男の子にも女の子にも見える。大きくて丸い金色の瞳と長い銀色の髪の毛。頬はこけているが、小さい鼻と口に、細い輪郭、丸いおでこ。私が女の子と間違えたくらいには可愛らしい。
まあこのくらいの歳の子なら、性差なんてないに等しいものね。
そこまで考えて、私は自分の思考に白けた。今世の自分の歳を考えれば同い年くらいか、少し年下だ。
お父様とお母様がこの子を放り出さなかったのは、私と同じくらいだからだわ。
両親は、自分たちの子どもと同じ年頃ですぐにでも死にそうな子どもをどうこうするほど冷酷になれるひとたちではない。私が連れてきたから余計可哀想に思っただろうと気づき、私は申し訳なくなった。しかし、こういう突飛なおねだりや行動はあと先考えない子どもらしくあるように思う。転生を自覚してからどう振る舞うべきかを迷っていた私としては、ひとつ両親へ子どもらしくしてあげられたことかもしれない。
子犬はなんだか眠そうな顔をしている。
「……もう子どもは寝る時間ね。ベッドはどこにするべきかしら」
どこに住まわせるかなんて、考えていなかった。別に私の部屋の隅でもいい。
私がそう考えたのが分かったのらしい。侍女がわざとらしい素振りで床へ指先を向ける。
「もちろん階下へ連れて行きますよ。空いているベッドもありますから」
「それもそうね。そうしてちょうだい」
使用人たちが子犬を連れていこうとするが、本人は嫌だとでも言うように首を振った。掴んでいる私の袖を離さない。
そういえば、犬って勝手に飼い主を順位づけして、従う従わないを決めるんだったかしら。この中で私が一番高位なのは分かっているみたい。だから、お風呂にしろ大人の獣人たちの言うことを聞かないのね。
「もう眠る時間よ。次に起きた時に、また会いましょう」
その銀髪の髪を撫でてやる。すると、子犬――まだ名前も分からないその子はうっとりと目を閉じ、やっと手を離した。本格的に眠くなってきてしまったようだ。その顔を見て、使用人たちが微笑む。
おやまあ。この使用人の男がこんな風に笑うのなんて、初めて見たわ。記憶が正しければ、私よりひとつ上ほどの年齢の子どもがいるんだったかしら。たまに屋敷に出入りしているのを見る。その子と重ねているのかしら。
その子は子どもと言えど、すでにこの家に仕えていることになる。私は前世を思い出す前すら子どもらしくなかったんだから。その実、この子犬はこの屋敷に居る本当に子どもらしい子ども、でしょうね。
「ご苦労様。おやすみなさい」
使用人たちが部屋を出ていくのを見送り、私はドレッサーへ向かった。鍵付きの引き出しをあけ、日記帳を取り出す。
今日は色々あった。まだ寝るわけにはいかない。もしも本当に悪役令嬢だとしたなら、本番は十年後くらいだもの。気が遠くなりそうな継続のためには、行動の記録と毎日の目標の確認は大事。
書き出しに迷いながらも、私はついにペンを動かす。
――今日は雪道で倒れていた子犬を拾った。
「うう、やっぱり今日は冷えるわね」
今日あった出来事や気づき、直近のアクションアイテムを日記に書いている間に、体が冷え切ってしまった。こんな窓際に座って書き物をしていたせいだ。
重いベルベットのカーテンをめくると、真っ暗な庭にまだ雪が降っているのが見える。見ているだけで、身震いがする。部屋の明かりを落として布団の中に入ってみるが、手足が冷たすぎて眠れそうにない。
「…………」
失敗した。今日はもうランプをつけたままで、日記を読み返すかして起きていようかしら。
再度布団を出て、日記を抱え、寝台の横のチェストにランプを置く。オイルだって安くないし、火災の危険があるのでつけっぱなしにするのは良くない。しかし明かりがついていると言うだけで、視覚的に温かい。
もう一度冷たいシーツの間へ入り、私はため息をついた。
「あの子、あのままだったらきっと死んでたでしょうね」
自分でもよく気がついたものだ。通りには誰も居らず、今日に限ってすれ違う馬車も無かった。あのまま放置したら、あの銀色の子犬は数時間後には雪の下。そのまま――
考え込んでいた私はそこでハッとした。廊下から聞き慣れない足音がする。誰か、という答えはゆっくりと開いたドアから小さな銀色の頭が見えたことで分かった。
「お前、眠ったんじゃなかったの?」
子犬は小さく頷く。ならどうしてと思い、最後にかけた自分の言葉を思い出す。
次に起きた時に、また会いましょう。そう言えば、そんなこと言ってたわね。それで夜中に目が覚めたから私に会いに来た、と。
子犬はしばらくドアのところから私を見ていたが、しばらくすると冷えたのか咳をした。子犬は眠らされた時のまま、裸足でシャツしか羽織っていない。その手には、拾った時にかけてやったショールがぎゅっと握られている。
命を救ったとは言え、懐かれたものね。
「……仕方ないわね、ほらこっちへいらっしゃい」
掛け布団と毛布を持ち上げる。私が言う通り子犬はよたよたとこちらへ歩き、布団に入ってくる。先ほどよりずっと顔色がいい。あれから数時間は経っている。一度はぐっすりと眠れたようだ。
同じ布団に入った子犬の目は、私の手元の日記帳に注がれる。
「ああ、これ? 日記を読んでいたのよ」
ほら、と特に特筆することがなかった昨日のページを見せる。すると、金色の瞳が文字に沿って左右へ動くのに気がついた。
「驚いた。お前、文字が読めるのね?」
子犬は微かにうんと言うが、咳き込んでしまう。喋れないのは、衰弱だけでなく喉風邪もひいているからか。
文字が読めるとするのなら、孤児とは言えど、元はそこそこの家の子どもってことかしら。庶民の識字率は決して高くない。侯爵家レベルでも、下級使用人では文字が読めない者もいる。教育を受けられるレベルの子どもが何故あんなところに。
「喋らなくてもいいわ。お前の名前はどういうスペルなの?」
日記帳の上の一文字ずつを指で叩き、『ルドルフ』という字を伝えてくる。家族について聞くと、悲しい顔をした後、首を振った。名字についても知らないらしい。
やはり孤児なのね。でも名字が分からないなんて、そんなことってあるのかしら。
「そうなの。ルドルフね。私はディライアというの」
掠れた声で、ルドルフが私の名前を繰り返す。
「呼び捨ては、お前怒られてよ。私は侯爵令嬢ですもの。そうね、私のことは『お嬢様』とお呼びなさい」
「おじょう……」
途中まではっきりと発音しながら、最後は咳き込む。
「お嬢様、よ。でもお前、もう一度寝なさい。咳って、一回で何キロカロリー消費するんだったかしら。とにかく、体力を消耗するっていうのだから」
積み上げてある枕を一つ分け、そこに置かれた頭を撫でてやる。と、すぐにルドルフはまどろみはじめた。
やれやれ、子どもの子守りね。
日記帳をベッドの下に隠し、ランプの灯りを消す。
でも、いいものを拾ったってことね。見た目も悪くないし、文字が読める。育ちも劣悪ではなさそう。なら、本当に私の従者にできるわ。身なりを整え、教育を施し、教養やマナーを身につけさせましょう。ヘビでもネコでもなく、お父様の侯爵家の使用人でも、お母様の実家から来たわけでもない。私の命令を第一に従う私の、私だけの従者。
満足感を覚えると、途端なんだか眠くなってきた。
ああ、こいつがいると温かいわね。子ども体温。いえ、犬は雪で駆け回るんだから――
「お前、お嬢様の寝所に入り込むなんて!」
侍女の叫び声で目が覚める。
……あら、もう朝?
顔を上げると、腕を捻りあげられたルドルフが寝ぼけながらもびっくりした顔をしていた。
そう言えば、子犬が夜中にベッドへ来たんだったかしら。でも、そんなことよりも私はまだ眠い。
「もう、うるさいわね。別にいいじゃない。相手は子どもなんだから。間違いも起きようがないでしょう。私はまだ眠いから寝るわ。ルドルフを連れていくなら連れて行っておいて」
「お、お嬢様……! なんてことを!」
侍女が何か言っているけれど、もう面倒だし、私は眠い。なんだか喉も痛い気がするし、風邪をルドルフからうつされたみたい。
私はシーツの奥へ戻り、ぎゅっと体を折りたたんだ。
「――ああ、そんなこともあったわね」
使用人へ駄犬の愚痴を溢すと、昔話を長々とされてしまった。
「子どもの躾は最初が肝心ですから。だから、お嬢様があの子に『お嬢様の部屋には入っていい』って学習させてしまったんですよ。……ほら、お嬢様、これをお召しになってください」
その肉球には上着が載っている。いまだにネコ型の獣人たちは、私に厚着をさせようとしてくる。その差し出してきた上着を膝に置き、私は口を尖らした。
ちょっとルドルフが勝手に部屋へ来るのを愚痴っただけなのに、なんで私の昔の生意気さをつつかれなきゃいけないのかしら。全く、この獣人も最初はルドルフを毛嫌いしていた癖に。今は自分の子どもかなんかのように可愛がっている。
「私のせいだっていうの? だって、だって……あの時は、冬で――そう、温かかったんですもの」
「だから言ったでしょう、お嬢様はもっと着た方が良いのです」
自慢の毛並みに白い毛が混じった、当時の侍女――今は家政婦長にまでなったネコ型の獣人がそう言って笑った。




