隔離 契約 不可能殺し
突然現れた不気味な生命体を前に、青年は恐怖に震えた声で尋ねる。
「あの……喰べるって、つまりどういう……」
静寂に包まれた空間に間の抜けた声が響く。
『そのままの意味です。アナタを喰べます。存在ごと全て』
黒い塊が出す少女のような声が青年の脳に直接響くように届く。
あまりに簡単に恐ろしいをことを言うので逆に拍子抜けしてしまいそうになるが、コミュニケーションは取れるようだし、今すぐにでも危害を加えてきそうな気配はない。青年は質問を続けることにした。
「あの、キミの正体は何者?」
『◇√∇‰⇔』
「はい? ──いっつぅ?!」
突如、青年の脳に障害が起きたかと錯覚するほどのノイズが響き、耐え難い痛みが頭を襲う。頭を振り、ノイズを振り払うと再度、影を見つめる。
『ですから、◇√∇‰⇔ です』
影が聞き取れない単語を口に出す度に、青年の脳内が蝕まれていく。意識が飛びそうになるのを必死に堪え、強く拳を握り込む。
「やめてくれ、頭痛が酷い。名称を言っているだろう部分が完全にノイズにしか聞こえないし、姿形も黒いモザイクの塊が蠢いてるようにしか見えない。このままじゃ頭がどうにかなりそうだ」
青年が言うと影は何事かを慎重に考えているような小さな喘ぎを何度か漏らし、そのしばらく後に嘆息した。
『それは多分、アナタがワタシをフィルター越しに見ているからでしょう。アナタはワタシを認識しながらも、心のどこかでワタシを否定している。つまり、見えないのではなく、見たくない、聞こえないのではなく、知りたくないということだと思います。ですが化け物扱いされるのも嫌なので、見た目に関してはなんとかいたしましょう!』
影がしばらくモゾモゾと動くと、闇の中から生足が飛び出してくる。ハリツヤのある実に健康的な脚である。
『んーしょっ!』
出てきた足を軸に勢いをつけ、闇の中から少女が飛び出してきた。
美しい金髪に紅色の瞳。均整のとれた体に、端正な顔立ち。幼い外見をしているように見えて、出るところはしっかりと出ている。
しかし見た目より何より問題なのは飛び出してきた少女が全裸であることだろう。
「ちょちょ、ちょっと待ってくれ、何もかもモロ見えだから。何か着るもの探すから待ってくれ」
青年は慌てて自室まで移動し箪笥の中をひっくり返し、シャツとズボンを手渡すと、少女は素直に衣服を見に纏う。
「それで? 目的や名前は?」
一息つくと青年は質問を続ける。冷静を装ってはいるが、少女の裸体が頭にちらつき、心臓が早鐘のようになっている。
『名前……そうですね。……とりあえずは″アレ″と呼んでください。初めてアナタがワタシを認識したときに発した単語でしたので』
男性用のシャツを着たアレは、だぼついた袖口を弄びながら話す。絶妙なあざとさが青年の男心をくすぐる。
「アレ……ねえ。じゃあオレのことはオレとでも呼んでくれ。名前なんてどうでもいいしな。それより本題に移ろう。どうしてオレを喰べるのか、目的を教えてくれ」
青年は自身のことを『オレ』と呼ぶように推奨すると、金髪の少女は小さく頷く。
『解釈の違いがあるようなので明言しますが、ワタシはオレを喰べたいのではなく、喰べなくてはいけない。が正しいでしょう。ですが、どちらにしてもアナタは喰べられたくない。違いますか?』
アレの発言にオレはコクコクと頷くしかない。
人として当然の反応だった。誰も好き好んで命を絶たれたいなどと考えるわけがない。
『ワタシに喰べられないためにアナタがすることは次の二つです。一つはワタシを殺すこと。ちなみにワタシ達は不死身ですので、生半可なことでは死にません。というより不可能です。試してみますか?』
アレは手近に落ちていた工作用の刃物を拾うと、オレに手渡し、自身の左胸をトントンと指差して満面の笑みで微笑んだ。
オレは手元で光るナイフと少女を何度も見比べて、一瞬は少女を刺すことも考えたが、良心がそれを許さない。
「……無理だ。さっきの影の状態ならわからないけど、今のアレは人間にしか見えない。殺すなんてできないよ」
『イクジナシ。でも、優しいのですね。アナタがワタシの思った通りの人間で本当に良かったです。本当に……』
明るく微笑んでいたアレの表情は転じて暗澹としたものになっていた。寂しそうな、そしてどこか残念そうな雰囲気を出したままアレは話を続ける。
『もう一つは何らかの手段でこの家から現実世界、つまりは地球であなたが過ごすはずの日常に復帰する方法を見つけること。まとめると不可能殺しか日常生活への期間、どちらかを成し遂げてください』
オレは頭の中で少女の言葉を何度も反芻する。
(確かに現実世界での暮らしに飽き飽きとしていたし、退屈な日常から逃げ出したいと考えていた。しかし今まで無難に生きて来た人間にとって、これはあまりに非現実的で非日常が過ぎる)
長時間、頭を働かせ、オレは一つの回答を導き出す。
「この状況にいる時点で拒否権なんてないんだろ? わかった、やってみるよ。ついでに色々聞きたいんだけど外出とかは? オレの家どうなってるの、コレ」
『できません。というか窓の外もドアの先も【無】ですから、外出という概念がありません。この家一件で一つの世界として認識してください』
「オレ自身の食事は? 外に出れないなら食料や燃料がいつか枯渇してしまうし、飢え死になんかしたら脱出する以前の話だよな?」
『必要ありません。今オレはワタシと契約状態にあるので、この家自体が完全に世界の理から隔離されています。この空間にいる限り、食事や睡眠、生命活動を維持するのに必要な行為は一切不要ですし、それでも必要というなら食事もエネルギー資源も別途で用意します。アナタが何不自由なく生活できることを保証します』
アレはピシャリといいきるが、オレは驚きの表情を浮かべる。
少女と契約したという事実も初耳だし、自分がまるで人外の化け物のような存在になってしまっていることにも納得がいかなかった。
「ちょっ、ちょっと待て、オレは契約なんてした覚えはない。余りに一方通行が過ぎるんじゃないか!? 食べなくても、寝ないでもいいなんてまるで化け物じゃないか!」
『これはアナタが望んだことなのですよ? アナタは現実からの逃避を望み、ワタシはこの状況を創り出した。その時点で契約は成立しています。アナタとしては無意識だったのかも知れません、しかしアナタの意思はこの状況を望んでいたはずです』
オレはアレの言葉を咀嚼し、しばらく考え、再度口を開く。
「じゃあ仮にアレを殺すことや、脱出が不可能だった場合、オレは喰われしかないのか? それとも何か別に方法はあるのか?」
『それは……内緒、です』
初めて質問に対する手応えが感じられた。
今まで端的に答えてきたアレが明らかに言い淀んでいるのを見て、アレが提示して来た条件以外にも現実への帰還方法がありそうだと確信する。
暫く沈黙が流れるが、その沈黙を打ち破るようにアレがパン! と柏手を打ち、乾いた音が響いて抜けた。
『あ! そろそろ本日はお開きの時間です。ワタシはこう見えても多忙なんです。ではまた後ほど!』
それだけ言うとアレは突如として現れた空間の裂け目に、まるで引き摺り込まれかのようにして消えていった。
「──マジかぁ」
呟きつつ、そのままベッドに倒れ込み、呆ける。
「何もしなければ喰われる。脱出方法がないわけではない……だとしたら、とりあえずは出来ることからやるしかない。
それと重要なのはこの状況はオレ自身が望んでいたこと……みたいだな」
ぼんやりと天井を見つめ、アバウトに的確に自信の現状を呟いた後、青年は思索に耽る。
今までは意味もなくただ生きていただけだった。
だが今は生きることに制約をかけられている。
だというのに心はどこか昂揚している。
理不尽な状況を楽しんでいる自分を理解できている。
生きる意思がみなぎってくる。この状況をなんとかしたいと考えだしている。
自身の中に始めて芽生えた感情に戸惑い、困惑しながらも、熱くたぎってくる想いをいつしか受け入れていた。
「もしかして……これが生きるってこと、なのか」
今までは人生を無駄に生きてきた、しかしこれからは過去の自分自身と決別し、感情のままに応えることを決意した。