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かなり酷い生活状況だ。これが良いと言えるなど、思っていたよりも感覚の麻痺は酷い様だ。
だが、本人は気がついていない。自覚させるべきではないかと、イオは口を噤むことにした。
制服の上着をハンガーにかけるブルーノを見ていると、人の気配を感知した。近づいてきている。
「ブルーノ。誰かこっちに来てるようだ。心当たりあるか?」
「ありますよ。食事を置いていくだけですので、扉は開けないでください」
「エ?」
警戒すらせず受け入れるブルーノに、聞いていたジャピタが不思議そうに声を上げた。
イオも驚きつつ、言われた通りにそのままにしておく。
外の気配は入口前で少し立ち止った後、すぐに離れて行った。
頃合いを見計らっていたブルーノが、扉を開ける。そこには先程はなかったトレーがあり、上に食品があった。
パンに密閉容器に入った水、それと野菜。一人なら数日は持つ食材を、ブルーノはテーブルの上に運び入れた。
「それは?」
「姉の施しです」
「キョウダイ? イル?」
「兄と姉がいます。ですが、これは姉の自己保身なので、私への信頼ではありません」
「どういう意味だ?」
「姉はガッサーのお眼鏡に叶いましたが、盲信と恋慕は違っていました。嘘つき男の私がいるから、ガッサーのお手つきにならずに済んでいる状態です。私が居なくなると困るから、食べ物を与えてくれるのです」
「下手な同情よりもタチが悪いな……」
「私としては有難いですよ。上辺の同情だと疑心しか生まれませんが、自己保身なら納得の理由ですから」
食材を片付けながら、ブルーノは淡々と答える。今まで会った人間を考えるに、自己中心的な人間しか周りにいない。
ガッサーの影響があるとはいえ、元から素質がなければここまで酷くならなかったはずだ。
「うーん……邪神様は復讐の心が食事と言っていましたが、普通の食べ物は口にされますか?」
「いや、流石にその量を分けたらアンタが腹減るだろ。アタシらの分は気にしなくていい」
「そうですか。後は、寝床ですかね……」
「それもこっちで何とかする。無理しなくていい」
「……すみません。何も出来ずに」
ブルーノは初めて、微笑を崩して落胆を見せた。
こちらとしては、この状態でも懸命にもてなそうとする心意気が嬉しい限りだ。しょげたブルーノの頭を撫でてやると、驚きつつも破顔して喜んだ。
嬉しそうな顔は作り笑顔と違って少年らしく、まだ完全に心を失っていないと安堵した。
自分も撫でろと頭を向けてくるジャピタを、逆の手で撫でる。両手で別人物を撫でるという珍しい光景だが、何か言う第三者はいない。
満足するまで撫でてやり、それから更に時間が経っていく。
簡易な夕食時に外から罵声が聞こえてきたが、ジャピタが防音魔法を小屋に張ったことで静かになった。
どうやら、召喚の事が両親の耳に入ったようだ。
防音をかける前にも、ブルーノは罵声を聞き流していた。よくあることらしい。
どこか胸にモヤついた気になりつつ、ブルーノは就寝の準備を始めた。貴族ならベッドが通常だろうが、狭い小屋ではベッドは邪魔になる。
自ら畳んである布団を丁寧に敷く姿を見て、貴族令息だと誰が思うだろう。邪神の感性でも悲惨だと感じる。
「では、邪神様。先に失礼します。宜しければ明日の朝、この辺りの地図をお渡ししますね」
「それは有難いな。お休み、ブルーノ」
声をかければ、また嬉しそうに笑った。
常に居心地悪い空間で人とのやり取りに慣れていない分、心許せる邪神からの一言で感極まるようだ。今までの環境の酷さを表しており、何とも痛々しい。
見つめていると寝にくいだろう。視線を外し、ジャピタを見つめる。両手でジャピタの頬を掴んで遊ぶ。
ここ最近、食事量が多かったからか柔らかい。
「ずっと揉める感触だな……いつまで持つか、これ」
「ワカンナイ」
燃費が悪いとはいえ、急に頬肉は無くならないはず。しかし、ジャピタに一般常識が通用するか不明である。むしろ、理解している点の方が少ない。
せめて今だけは堪能しようと、手を動かし続ける。
それは唐突に起きた。
爆発的に膨れ上がる憎悪や憤怒。
イオ達の餌である、負の感情だ。
驚いて振り返れば、布団で就寝中のブルーノしかいない。だが、寝顔に手をかざしてはっきりと分かった。
ブルーノの中から、負の感情が溢れ出ている。
その意味に気づき、乾いた笑いを漏らした。
どうして気づかなかっただろうか。邪神を呼び寄せる程の力があり、復讐心があり、ブルーノに近い存在。
一人だけ、当てはまる存在がいる。
「ジャピタ。念の為、小屋に偽装魔法でも張っといてくれ」
「ハーイ」
返事を聞きつつ、自身の擬態を解いた。
人で言う膝裏の鎖を引き抜き、先についた橙色の手袋を装着する。ジャピタが腕に巻きついてから掌に魔力を集め、そっとブルーノの頭に乗せる。
瞬間、引き寄せられた。
この世界に来た時と同じように、強い力。
抵抗せずに目を閉じれば、どこかに移動した感覚。目を開けると、そこは四角い部屋だった。
壁伝いに流れる金色の光。だが、その中に黒く濁った光がいくつも見受けられる。
部屋の中央には男が一人。翡翠の髪が無造作に流れ、床に広がっている。
天に伸びる二本の角は黒く、前髪の奥の瞳は爛々と光る。胡座に頬杖をかき、特徴的なギザ歯を見せて笑っていた。
「キヒッ。さ、さすが邪神。強そうだな。たた、戦って、みたい」
「当たり前だろ。でも、アタシらを無理やり呼び寄せる辺り、アンタも相当強い。誇っていいよ、魔王クレゾント」
ブルーノの魂に封じられた悪魔の王。クレゾントはイオが呼ぶ声に、また愉しそうに笑いだした。
やっと半ば位です。
気合い入れて書いたからか、現時点ではこの話が最長になりそうです。