16.ナルヒェント視点
滑らかな動作で、空中へと倒れていく。
人間の番に翼は無い。飛べない。その認識を忘れてしまう程、ごく自然の行動に見えた。
番の身体は真っ直ぐに落ちた。
ぐちゃっと粘着質な音が、耳に残る。
「…………あ?」
長い時間に感じられる一瞬だった。上手く頭が回らない。
言葉を失ったまま、番がいた場所へと飛んでいく。
そうして見下ろした視線に、大きな血溜まりが目立った。その中央に、人らしき物が見える。
細い手足があらぬ方へひしゃげ、細い胴体が捻れ、薄い肉が抉れている部分もある。子供が適当に遊んだ人形の様だ。先程まで生きていたとは思えない。
そして、ナルヒェントが焦がれた番の匂いは、不快な血の臭いでどこからも香らない。
「う、ぐっ」
急激に胸が締め付けられ、強い吐き気が込み上げてきた。口元を抑えたが、中身がせり上がる気配はない。
代わりに、身体の中で不快感が渦巻き、吐き気に留まらず手足が震える。ユヌやアグーニが声をかけてくるが、口を開く事もままならない。
気分が悪い。締め付けられて痛いのに、胸に穴でも開いた様に空虚感が頭を占める。
目を回し苦痛に与えていると、誰かが近づく音がした。複数人の足音が近づき、ユヌやアグーニが抵抗に声を上げている。
何が起きているか、判断する思考が定まらない。ただ蹲るナルヒェントの頭上から、無情な声が降り注ぐ。
「事情は全て、把握しました。兄上」
「オー……フェン…………」
忌々しげに名を呼ぼうとしたが、耐え難い苦痛に最後まで続かない。
「兄上が獣人至上主義とは知っておりましたが、ここまでとは思いませんでした。番は獣人の為だけに存在している訳ではありません。皆、生きているのです。そんな簡単な事を忘れていた結果、兄上は彼女に怨まれたのです。それこそ、邪神を呼ぶ程に」
「じゃ……し、ん………………?」
「僕も初めて見ました。普通なら、知らずに済む神らしいですよ。兄上は言葉にしないと分からないだろうと、伝言を頼まれました」
オーフェントが真面目な顔で冗談をつく。
邪神なんて、古い時代の存在が作り上げた偶像だ。万全の状態なら、高笑いしていた。
痛みに耐えながら愚かなオーフェントを嘲笑してやる。視界に映っているはずだが、オーフェントは戯言を続けた。
「兄上。獣人より先に番が亡くなった場合、どうなるかご存知ですよね? 死ぬよりも辛い苦痛に苛まれ、新たに番となる者が現れる前に自死、或いは自我を崩壊させてしまいます。考えたくはないですが、兄上の現状がそれです」
やっと、オーフェントから正しい話がされた。ナルヒェントはどこか他人事の様に思う。自分の状態が漸く分かり、それ故に解決する術ができて安堵した。
固有魔法で、番をすぐに産まれる運命にすればいい。
この苦しみもあと少しだ。僅かに笑うナルヒェントに、オーフェントは残酷な言葉を投げた。
「兄上。固有魔法を使っても、兄上に番は出来ません」
「…………は……?」
「『彼女の寿命と引き換えに、兄上から番の存在を消した』。邪神はそう仰っていました。獣人の番の本能は残ったまま、番を失った状態で残りの寿命を生きるそうです」
嫌な汗が流れ落ちる。戯言だ。オーフェントは皇太子の座を妬んで、自分を貶めようとしているのだ。
ナルヒェントの自己暗示を否定する様に、オーフェントは静かに首を横に振った。
「彼女の記憶を見たでしょう? 人の二十年は、龍人にとっての千年程らしいですよ。そんな長い間、彼女は苦しみ続けました。だから、残りは兄上が苦しむ番だそうです」
この苦しみが、苦痛が、死ぬまで続く。冗談では無い。ナルヒェントは力を振り絞り、固有魔法を発動させる。
己の人生を、より良いものにする。その為の力だ。
たかが一人の短い年月の所為で、龍人の頂点たるニイロン帝国次期皇帝の自分の人生を台無しにされるものか。
その決意とは裏腹に、魔法の手応えがない。必死で粘ったが、痛みの限界を迎えて魔法が中断される。
痛い、苦しい、壊れる。頭を掻き毟り、中途半端な吐き気が更に余裕を無くさせる。
「兄上の固有魔法より、邪神の力が強いに決まっているでしょう。それと、王命は本当ですので、王城へ連行しますね。父上も母上も憤慨していますから、廃嫡は確実でしょうね。そこの無能二人も覚悟してください」
追い討ちをかけるように、オーフェントは残酷な言葉を降り注ぐ。憎たらしい。自分は天運龍だ。観察に優れただけのオーフェントよりも、皇帝に相応しい龍人だ。
無礼な騎士達がナルヒェントの体を掴み、運んでいく。また、番を得て体調が戻った暁には、国外追放してやる。
苦痛で脱力しながらも、ナルヒェントはプライドを保ったままだった。
それが更に自分を苦しめている。
例え、その考えに至っても、ナルヒェントにはプライドを捨てるという選択は思い浮かばないだろう。
番の命をかけた抵抗は、獣人をにとって最も苦痛を与える行動だった