4.ハンナ視点
ハンナ達の獣人嫌い、その理由
二十三年前。ハンナは領主、ベイン男爵家に下働きとして勤め始めた。男爵が身重の妻の為に、使用人を増やしたのだ。
貴族特有のドロドロとした世界は好ましくない。だが、村の方で珍しく長雨が降り、茶畑にダメージが出た。
桃茶は乾燥した土で育てなければ品質に関わる為、数年は出荷が出来ないと判断された。
村の主な収入源がない今、貴族の使用人というのは魅力的な仕事先だ。
十歳の息子を旦那に託し、出稼ぎに来たというわけだ。
男爵夫妻は優しく、使用人達にも親身に接して評判がいい。優しさに付随する気の弱さが玉の傷だが、居心地のいい雰囲気の仕事場だった。
やがて、奥方が愛らしい女児を産んだ。
柔らかそうな栗色の髪は奥方似。
灰色の垂れ目は男爵似。
両親の特徴を受け継いだ女児は、クリスタと名付けられた。
ハンナの子供は息子のみ。女児のクリスタは違った可愛らしさがあり、仕事の合間を見ては世話をしていた。だからか、クリスタは使用人の中で一番ハンナに懐いてくれた。
明るく暖かい家庭。
これが崩れるなど、予想できる人はいないだろう。
最初の悲劇は、クリスタが僅か五歳の時だ。
一家はハンナを含む数名の使用人と王都に来ていた。領地運営に関して、王都に提出する書類があるらしい。
男爵一人でいい要件だが、観光目的で奥方がクリスタも連れて来たのだ。
様々な品に目移りする奥方と、一緒に笑うクリスタ。その様子を、ハンナや他の使用人は暖かい眼差しで眺めていた。
和やかな雰囲気。しかし、急に伸びた腕が奥方を掴んだ瞬間、それは霧散した。
人とは違う、鋭い爪が伸びた腕。その持ち主は、質のいい服に身を包んだ獅子頭の男性だった。
奥方を見て恍惚の表情を浮かべる様には、どこか狂気が醸し出されている。奥方も感じとって怯えたが、クリスタの前だからと平静を装っていた。
「見つけた……! こんなちっぽけな国にいるとは思わなかった……! さぁ、我が家へ行くぞ!」
「い、やっ……!」
成人男性、それも獣人となれば力は強い。奥方の引き攣った抵抗など何も無いかのように、連れ去ろうとする。
奥方の身体が引っ張られて動いた。そこで事態をやっと呑み込めたハンナ達が、獣人から守るべく近寄る。
それよりも早く、クリスタが動いていた。
「おかーしゃま!」
母が危険だとわかったのだろう。拙いながらも叫び、奥方の足元にしがみついた。
叫びで気づいた獣人がクリスタを目で捉える。
途端、表情を一変させた。
鋭い歯を剥き出しにして、強い敵意が一瞬で溢れかえった。
「邪魔だクソガキ!」
怒声と共に、予備動作もなく振り下ろされ腕。肉が裂ける音とクリスタが吹き飛ぶ様子は、ほぼ同時だった。
小さな身体が少し離れた地面に叩きつけられる。途中で滴った血が生々しかった。
「おじょ、お嬢様ぁ!?」
「クリスタ! クリスタ!」
ハンナは方向を変え、クリスタへ近づいた。抱き上げた身体は脱力して重く、頬から血が溢れ出て止まらない。
奥方がクリスタを呼ぶ声や、遠巻きに見ていた通行人達がざわめく声がする。
それをどこか遠くに感じながら、ハンナはただただ止血に集中した。
少しして町医者がハンナに代わり処置を施し、暫くして鎧に身を包んだ騎士達が王城へクリスタを連れていく事になった。
宮廷医師が診察してくれるらしい。男爵も既に王城の診察室にいるようで、ハンナは搬送されるクリスタを呆然と見送るしかなかった。
周りが落ち着き始めた頃、別の騎士達に案内されて他の使用人共に王城へ向かった。
皆、悲痛な表情だ。
それだけで、獣人を止められなかったとわかる。
診察室に入ると、項垂れた男爵を慰める宮廷医師。その横のベッドで、クリスタは意識なく横たわっていた。左頬に大きく貼られたガーゼが痛々しい。
クリスタが目を覚ますまでに、一週間かかった。
その間に、奥方の件は多額の金額で方がついた。男爵の表情は、それが強制されたものだとありありと伝える。
奥方を連れ去った獣人は、獅子の国に住む伯爵だそうだ。
番だから誘拐ではないと、悪びれもなく国王に文書を送ったらしい。
元々、力関係は人間より獣人が上だ。
獣人の中でも種によって地位があり、竜人を頂点に肉食、草食、雑食と続く。つまり、獅子の地位は人間の国、それも男爵が太刀打ちなどできない。
あまりにも理不尽な展開に、国王から謝罪をされた。そこまでされては、これ以上騒ぎ立てられない。
悔しさや怒りを押し込める男爵達に、不運は続けざまに襲いかかってきた。クリスタの傷は跡となって残る。そう、医師に告げられた。
見つけた番に子がいた場合、その対応は種族や性格によって異なるらしい。
獅子を含む肉食数種は、本能からその子供を毛嫌いする。憎悪を滾らせ、命を奪う事に躊躇しない。むしろ、獅子の国では許可されているらしい。
クリスタは運が良かった。医師はそう慰めたが、ただの気休めに過ぎない。
母を失い、貴族子女として重要な顔に傷跡。
貴族社会は醜聞一つに群がり、大いに楽しむと聞く。今回の件も既に尾ひれがついて広まっているだろう。
現に、医務室にいるクリスタを見物しようと、用事をつけては騎士や貴族が来るのだ。
そして、ベッドの上で悲しむクリスタを嘲笑う。流石に文句を言おうとするハンナを、クリスタが小さな手で止めるのだ。
「ハンナ、だめ。ハンナ、いなくなっちゃ、やだ」
ポロポロと涙を流すクリスタ。そこで我に返り、冷静に物事を考える。
平民のハンナが貴族に文句を言えば、即座に拘束される。
それはクリスタの前から消える事と同義で、クリスタが恐れている事だ。
クリスタの小さな体を抱きしめ、改めてハンナは誓った。
「大丈夫。あたしはお嬢様の傍にいますよ」
肩が涙で濡れるが、気にならない。そのまま背中を撫で、落ち着くまで抱きしめていた。
一人目、母を失った