3
この章はこの部分が書きたかったと断言できる
上下左右、どこにでも広がる海水は行き先の特定を困難とさせた。焦る気持ちも、捜索を邪魔してくる。
イオが気配を探知できる範囲はあまり広くない。それでも、邪神独特の気配は、範囲が少し外れている程度ならわかる筈だ。
だか、見つからない。
どこの世界においても、人魚の特徴として遊泳速度が群を抜いて速い点が上げられる。
マリアンヌがジャピタを連れて全速力を出したとしたら、とっくに範囲外にいて探知は不可能だ。
だとすれば、打つ手がない。イオは冷静を装いながら、最善手を必死に絞り出す。
刹那、全身に悪寒が走った。
得体の知れない恐怖に睨みつけられた感覚。
脳が理解を拒絶しているが、身体は正直に震え始めた。おぞましい恐怖に、呼吸が荒くなっていく。
イオの目の前や真下で、隠れていた生物が無我夢中で同じ方向へ逃げている。
餌が堂々と姿が見えているのに、捕食側さえも逃走に必死だ。
他と違い、恐怖に慣れて落ち着いたイオは、原因の方向へ顔を向ける。
マリアンヌが最悪のパターンを引き出した。そうとしか考えられない。
どこまで愚行を重ねれば、気が済むだろうか。イオには見当が付かない。
「餌云々関わらず、絶対に殴ってやる……!」
殺意さえも抱き、イオは逃げる群れと逆方向へ泳いだ。
近づくにつれ、畏怖の力が強まっていると肌で感じる。
探知しなくても伝わってくるその源は、水面を越えて存在していた。
「空か!」
大まかな居場所を掴み、下へ潜って勢いをつけてから思いっきり海面に飛び出した。
水魔法で空中に浮かべば、災害としか思えない光景が映る。
雲一つない晴天が、雷を伴う暗雲によって覆い隠されている。
太陽の光が遮られ、一気に夜になったかと思う空模様だ。雷鳴が轟き、海面は波を立てて荒れ狂っていた。
近くに見える大型船が激しく揺さぶられ、転覆間近な状況の中で船乗りが必死に作業している。
その近くで、黒の災害が存在していた。
漆黒の身体はあまりにも巨大。細長い胴体が水平線を遮ると錯覚する程だ。
分厚い皮膚から逆立つ鱗が何千もあり、雷の光を反射して煌めく。その内の数十個は触手の様に伸び、不気味な見た目に拍車をかける。
本来あるはずのない胸ヒレは先が分かれ、五本指を成していた。忙しなく動く様は、獲物を待ちわびているようだ。
頭部は三角錐を少し平たくした形状。金色の目に赤の光が入り、ギョロギョロと辺りを見渡している。
奥まで避けた口は時おり開いて白い吐息を漏らした。見える口内には、鋭い歯がずらりと並んでいる。
髭は鱗同様の触手で、先があちらこちらと蠢いていた。
イオ自身も、本人から伝えられた記憶でしかお目にかかっていない姿。
ジャピタ本来の姿だ。
自分の力が近づいた事に、ジャピタも気がついたようだ。大きく口を開き、咆哮を轟かせる。
それは空気を強く震わせ、衝撃波となって周囲を襲った。反射的に邪神の姿に戻り、水のバリアを張る。
それさえも押し退けそうな衝撃は、全力で耐えなくては簡単に飛ばされそうだ。
「よくここまでキレさせたな!?」
マリアンヌへの怒りを隠しもせずに、イオは青筋を立てる。
イオがいなかったとはいえ、ちょっとやそっとではジャピタは怒らない。ここまで激怒させるとは、ある意味で才能だ。
当の本人はとっくに逃げたようで見当たらないが、いた所で状況が悪化する未来しかないから問題ない。
それよりも、完全に巻き込まれただろう船の保護だ。
衝撃波を耐えきり、すぐに船へと向かう。振り落とされそうな揺れでも、甲板で作業する十人程の船乗りがいた。
ジャピタと船の間に入り込み、水槍を引っ張り出した。
イオのメインウェポンである水槍は、魔力消費を抑えながら水魔法の発動を補助してくれる。
先を前に突き出して魔力を込め、船を覆うように水のバリアを張った。先程の咆哮なら二回は防げるはずだ。
「おい! 死にたくないならここから動くな! 転覆だけ防げ! いいな!?」
「わ、わかった!」
突然の空泳ぐ人魚に、船乗り達の戸惑いがはっきりとわかった。だが、自分達の味方だと判断した船乗りから了承が返って来る。
懸念事項は潰した。あとは、元凶の鎮圧。
邪神の力は少し落ちているが、まだ充分に使える。だが、ジャピタに引っ張られて大幅に低下する可能性がある。すぐに終わらせる必要があった。
ジャピタへ向かって全力で泳ぎ出す。嫌な光を宿した目がイオを捉えた瞬間、触手が一斉に向かってきた。
先にある鋭い鱗で、イオを貫き引き裂こうする。目でやっと追える速さだが、命中率は高くないようだ。
自身に向かってくる触手だけを払い、スピードを落とさずまっすぐ進む。
近づく程に、払い除ける触手が増えていく。攻撃の隙を狙い、槍先から固めた水球を噴射した。豪速球は片目に直撃し、狙い通りジャピタが仰け反る。
その隙に、水槍に多くの魔力を込めて魔法を発動した。
ジャピタの頭部を一際大きい水球が囲む。流石に、この巨体を全て飲み込む水球を作る時間はなかった。
だが、顔だけでも充分だ。槍を仕舞い、代わりに風弓に回転の矢をつがえて構える。
「アタシが味わってたもの、アンタも体験させてやるよ」
にやりと口角を上げ、矢を放った。
魔力の矢は水球に当たり、水の中で回転が生まれる。
その勢いはマリアンヌの渦とは比べものにならない程に強く、ジャピタの頭部も流れに呑まれて回り出した。
それに合わせ、長い胴体もクルクルと回り始める。
「u? o、Ooooooooooooooooooooooooooooooo!?」
高速で回る自身が理解できないようで、悲鳴のような咆哮に戸惑いが伺えた。その様子を見つつ、同調できる気持ちに何とも言えない気分になった。
ジャピタが回るだけの光景から暫くして、漸く辺りにも変化が現れた。
暗雲が少しずつ晴れていき、空本来の色が鮮やかに海を照らす。雷も徐々に消え、波間も落ち着いていった。
ジャピタの頭が冷えたからだろう。最も、憤怒から回転による体調の不快さへ意識移動させただけであり、あまりいい方法ではない。
申し訳ないとは思うが、文句はマリアンヌに言ってほしい。
空模様が落ち着くに連れ、ジャピタの巨体も縮んでいく。やがて、元の風景に戻り、水球が風船のように破裂した。
同時に落下し始めた黒い物体。風弓を仕舞ってからその真下へ行き、両腕でしっかりと抱き留める。
「イ、オ゛エェェェェェエ」
「呼ぶか吐くか、どっちかにしろ」
「ハイテナイ…………ウップ」
「吐きかけ寸前か。やりすぎたかもしれないが、手早く安全な方法を取ったまでだ。悪かったな」
「ダイジョウブ。トメル、アリガトウ」
「とりあえず、無理はするな」
「ア゛~イ」
いつも以上に間延びした声だが、イオのよく知るジャピタだ。その事実に少し安心するが、同時に不安要素まで知ってしまう。
抱える身体は脱力しきっており、目を瞑ればそのまま深く寝入ってしまいそうだ。
あの姿は予想をはるかに超え、燃費が悪いらしい。或いは、何百年ぶりの姿に、ジャピタ自身がエネルギー消費量を間違えたかもしれない。
どちらにせよ、早く食事を得た方がいい。
ジャピタを抱えたまま、大型船の甲板に着地する。周りの人間が遠巻きにこちらを眺めているが、災害の元とそれを収めた相手に良からぬ事はしないだろう。
甲板にジャピタを寝かせ、イオも尾ビレを動かして座る。人間でいう、膝立ちという状態だ。そこでまた、鎖を一本引っ張りあげる。
出てきた橙の手袋をはめ、ジャピタの頭部に手を乗せた。
「これ、疲れるからあまりやりたくないけどな……」
本音と共にため息が漏れる。だが、何が起きたかを説明する語彙力も気力も、ジャピタにはなさそうだ。
だから、記憶から読み取るしかない。
人を怒らせる事に特化したマリアンヌ