11.ネルソン視点
ホラー要素あり
古びたネジよりもゆっくりと、視線が下へ向かっていく。
見てはいけない。そう理性は判断するが、正体を知らなくてはと本能で動いてしまう。
段々と、視界に入り込んでくる。
自分の質のいいズボンに食い込む細い指。
指同様に細い手首。
そのまま腕沿いに視線を追っていき、止まった。
肘から上が、丸ごとない。
正確には、肘から先だけが地面から生えており、ネルソンの足を掴んでいた。
化け物。悲鳴を上げようとした口からは、ヒュっと変に空気を吸った音が出てきた。
久しく感じる生命の危機は、恐怖も感覚も過敏にさせる。肘にあたる部分の地面が生々しい赤黒い色をしていた。
まるで、血の池から腕が伸びているかのようだ。
視線に気づいたのか、血の池が泡を立ててネルソンには伸びてきた。逃げなければと思ったが、力が入らない上に尋常ではない力で足が掴まれて動けない。
じわじわと自分の足元へ、腎部へ、後ろについた手へ、得体の知れない液体が広がる。
震えるネルソンを中心に、液体が意志を持って円を描いた。
次の瞬間、円内から無数の腕が一斉に飛び出た。
「ヒッ、ギィッ、アアアァアアアアァアアアアアァァアァァァァァァアァァァァァァ!?」
男、女、年寄り、子供。肌色も長さも異なる腕が、ネルソンへ我先にと手を伸ばしてくる。
無数の腕は明確に、ネルソンを下へ下へと引きずり込もうとしていた。
固い地面だった身体の下が、いつの間にか泥沼の様に粘性のある液体に変わっている。
腕が強く引く度、腕が上から押し付ける度、ズブズブと自身の体が沈んだ。
「た、助けっ……!」
恐慌をきたす中、目に入るカルオへ必死に助けを乞う。
それが国王だとか、口調だとか、命の前では些細な事だった。
だが、カルオも恐怖のあまり動けずにいた。
伸ばした腕も、すぐに掴まれて地面に引きずり込まれる。それでも、目で必死に訴える。
ふと、カルオの傍に誰かが現れた。
臙脂色の髪をした十代だろう少女だ。
瞬きの間に出現した少女は、カルオの耳元にそっと顔を寄せた。何を言っているか、耳も埋まって聞こえない。
ただ、震えながらもカルオが首を縦に振る様は見れた。
直後、頭頂部を押し付けられ、ネルソンの体は完全に沈んだ。
腎部に衝撃が走り、ネルソンは我に返った。しっかりとした地盤にいる。そうして上を見上げ、心から後悔した。
視界に映る、赤と黒と二つが混ざった色。三色が斑模様を描く様は不気味としか思えない。
どこを見ても、同じ色しかない。自分が座り込む場所ですら同じ色合いで、その下まで続いている。
まるで、今いる所だけにガラス板を置いて、わざわさ場所を作ったかのようだ。
クスクス。クスクス。
不気味な空間に負けず劣らずな、不気味な笑い声。
大袈裟に肩を震わせて、その肩を抱く。
怯えるネルソンを前に、空間の向こうから黒い光がやってきた。
それは目の前で止まり、弾けると同時に人を出現させた。
十代から二十代の女性が六人。
皆、冷笑を浮かべてネルソンを見下ろしている。
『久しぶりね』
『と言っても、覚えてないでしょうけど』
『本当にねー』
『でも、私達はこの日を待っていたわぁ』
『すぐに終わると思わないでちょうだい』
『あたい達もすぐ終わらせないし、他の人もいるみたいだし』
口々好き放題言ってはケラケラ笑う。不気味すぎる。しかし、不気味な女達は見覚えがある気がする。
そう考えていた時、遅れて一つの黒い光がまたやってきた。それは六人の前で弾け、凛とした少女へと変わる。
臙脂色の髪は、先程カルオに近づいていた少女だ。
それと共に、目の前の少女を思い出した。顔色があっという間に青くなっていく。
「おま、お前……! アラン、の、妹……!?」
『せや。ここにいるのは、結界の人柱にされた七人や』
言われてやっと思い出した。
人柱として、無理やり術に組み込んだ七人。
どうしてと口に出すよりも、ひび割れた水晶が頭をよぎった。あれが無関係とは思えない。
現状を把握しようとするネルソンへ、小馬鹿にした冷たい声がかけられる。
『何を考えてるかは知らないけど。貴方は私達を満足させればいいのよ』
音もなく、人柱達が目前まで来ていた。斧、クワ、ナイフ。不釣り合いな殺傷道具を手に、笑っている。
殺される。本能が警鐘を鳴らすが、震えて立てない。
「や、止め……!」
『待たない』
言葉を吐き捨てながら、武器が振り下ろされた。
「ギャッ、アッ、ガァッ……ァッ…………!」
滅茶苦茶に刃を突き立てられ、鋭い痛みと熱が全身を巡る。
痛い。それしか考えられない。
早く、楽になりたい。あまりの痛みに、思考が死を望む。
痛い、痛い、痛い。意識を手放したい。
この痛みから解放されたい。
『ねぇ、気づいてないん?』
嘲笑う問いかけが降ってきた。 諦めて閉じていた眼を開けば、部下の妹が目線を合わせて微笑んでいる。
それに答えろとばかりに、一方的な暴行も止まった。
途端、違和感に気がついた。
先程までは次々と傷つけられ、分からなかった。今の状態になって初めて、ゆっくりとだが痛みが引いていると知った。
よく見れば、あれだけ刃が刺さっていた身体には傷一つなく血も出ていない。混乱するネルソンに、妹が口を開く。
『ここにいる時点で、あんたは死んでるんよ。だから、もう死なへん。でも、生きたまんま連れてきたから、感覚はそのまんま。わかる? なんべん嬲っても、なんべん斬っても、なんべん潰しても、痛みは感じるけど気狂う事も死ぬ事もないんや』
絶望に突き落とすには十分な言葉。
青を越して真白になるネルソンに、人柱達は笑いながら続ける。
『あたし達が苦しんだ分……いや、それ以上に苦しんでよ』
『長ぁく、長ぁく、痛ぶってあげるわ』
『でもー、私達が満足してもまだいるからねー』
ほらと一人が外を指す。
恐る恐るそちらに目を向け、悲鳴を上げた。
大勢の人間が、鬼の形相でネルソンを見下し笑っている。
誰も彼も見覚えがない。ここまで怨みを買っているはずがない。その考えを読んだのか、人柱達が腹を抱えて笑う。
『やだ。本当に気づいてないわ』
『それだけ、利益だけを追い求めていたのね。最低』
『その方が、やりやすいわぁ』
くすくすと笑い声が、何よりも恐ろしい。痛みはほぼ改善した。
ならば、逃げるしかない。
逃げ場所を求めて辺りを一目し、更に絶望に突き落とされた。
どこを見ても、自分を睨む人間がいるのだ。逃げ道がない。
『逃がすわけないやん。あんたの所為で兄ちゃんも死んだ。あの女に取られた。絶対許さへん』
「あ、あ………………………」
『最後に一つ、教えたる。屑王に取引してん。助ける代わりに、結界の真実を周知しろってな。だから、あんたに偉業なんてないん。あんたの名前は歴史に残ること無く消えるんや』
にっこりと、愉しげに放った事実。ネルソンの人生が無駄に終わったという事実。
その意味を噛み締め、この先の地獄も察し、ネルソンは喉奥から咆哮に近い絶叫を響かせた。
上ばかり見ていた男。
踏みにじって足場にした人の数など覚えていない。