9.ディーナ視点
時間軸は過去から現在に戻ります
ふわふわ、ふわふわ。
空を飛ぶという感覚は、きっとこういうことだろう。ディーナはその感覚に身を任せていた。
暖かくて、優しくて、安心する。
それ以外は分からないが、どうでもいい。
純白の何も無い場所。違和感も嫌悪もなく、何をするでもなくただ横に転がっているだけ。最高の場所だ。
「……眠い」
この場所はとても眠くなる。寝ては起きて、微睡んで、深く眠る。その繰り返し。
それが当たり前で、自然な事だ。
瞼を落とす。より一層、ふわふわの感覚がディーナを包む。揺りかごにいるようだ。
心地いい。ゆったりとした時間は、このまま変わらないと思っていた。
『見つけた』
突然の声に、悪寒が走った。
ばっと起き上がり、周囲を確認する。何もいない。自分しかいない場所なのだから、当たり前だ。
けど、気の所為にするにはあまりにも明確な声だった。焦っていると、また声がする。
『かなり奥底に引き篭っているな。道理でラミア達が何をしても届かない訳だ』
奥底、篭る、ラミア。
やけに胸がざわつく単語だ。聞きたくない。
必死に自分を奮い立たせ、声の主がいるだろう場所を睨みつける。
ディーナの頭上、真上だ。
「あ、あなたは誰ですか? 何故、私に話しかけるのですか?」
『アタシはアンタに呼ばれて来た。アンタの、本当の願いを叶える為にな』
「本当の願い? 私はただ、ここで穏やかに過ごしたいだけです! 放っておいてください!」
『違うな。アンタは今、自分の抱える感情の重さから逃げているだけだ。理性を手放し隔離し、蓋をする。最大の逃避行動だが、幸福ではないだろう』
聞きたくない。聞きたくない。これ以上、会話をしたくなくて目を瞑り耳を塞ぐ。
だが、ビシャっと甲高い音にすぐ目を開けた。そして、恐ろしい光景に悲鳴を上げる。
大切な空間の地面に、幾つものヒビが入っていた。その隙間から、赤黒い光が薄らと出てきている。
アレは良くないものだ。自然とそう思い、地面に座り込んで手でヒビを押さえる。
無意味だと分かっていても、そうせざるを得ない。
『大きな裏切りに理性を手放したアンタ。元の性根が優しいようだな。でも、湧き上がる復讐心はそう簡単に消えるはずがない。負の感情に支配される自分が嫌で、そういう気持ちがあること自体を信じたくないから、安全な殻に閉じこもって過去も未来も放棄した』
「止めてください! 止めてください!」
『どこまでも、アンタは《王女》でいたいようだ。その殻を破ってやるよ。バンダルク=ディーナ』
何を言われるのか、怖くて仕方ない。
震えるディーナに、語りかけてくる。
「産まれた時から決められた運命を、自分の意思関係なく変えられた《王女》。その理不尽を、受け入れる必要などない。アンタは《王女》である前に、一人の《人間》だ。国民に、家族に、愛する男に裏切られた。怒りや憎しみに支配されて当然だ。持っていた情の分だけ、反動は増す」
優しく語りかける声が、蜜のようにディーナの理性へと浸っていく。
ひび割れが広がり、その奥の光が強くなってきた。
この空間で捨てていた、思考が戻ってくる。
どうして、相談してくれなかったのか。
とうして、死んだことにしたのか。
どうして、ディーナの死より兄の婚姻を喜ぶのか。
どうして、ディーナの愛を分かった上でこんな選択をしたのか。
疑問が出てくる度に、空間自体にヒビが入ってくる。
『怒れ、憎め、恨め。アンタにはその権利がある。そして、アタシは対価と引き換えに、復讐へ手を貸せる』
それは、何よりも甘美な言葉だった。
全てを思い出し、受け入れる。
途端、純白の空間は欠片となって散った。
どす黒い空間に、至る所で赤黒い炎が湧き上がる。
これが、本当の自分の精神だ。
そこに、見慣れない人がいる。ラミアの様な姿をした女性だが、下半身が蛇ではなく魚だ。
「あなたが声の主ですね」
「そうだよ。決心はついたか」
「はい」
理不尽に怒っていいのだ。憎んでいいのだ。恨み尽くして、地獄を見せてもいいのだ。
第三者からの指摘に、ディーナはやっと枷を外す事ができた。
「私を裏切った人達に、地獄を見せてあげたいです。それと、私は穢れたこの姿を変えたいです。どうすればいいですか?」
「それはアンタが考える事だ。アタシやアイツらは手助けするだけ。とりあえず、表に出てきな」
女性の指摘に、ディーナは頷いた。ゆっくりと瞼を閉じ、意識を集中させる。
やがて、パズルのピースが当てはまる感覚を受け、目を開いた。
眩い太陽の光を背に、三人が目の前にいる。
オレンジの手袋をつけた先程の女性と、二人のラミア。それと、黒い不思議な存在がいた。
この不思議な存在がディーナを助けてくれると直感する。
「ほんとーに元に戻ったぁぁぁ! よかっ、良かったよ〜!」
「……私の身に起きた事はご存知ですか?」
「ああ。諸事情で近くにいた奴に見せてもらった」
自分の過去を見た上で、自分の覚醒を泣き喜んでくれる若いラミア。魔物でも、中身はあの連中よりも遥かに優しい。
「お願いです。裏切り者に地獄へ叩き込む、その手伝いをしてください」
協力してくれるのは彼女達だろう。そうでなければ、自分の過去など観ないはずだ。
ディーナの願いに、二人のラミアは笑顔で肯定を示してくれた。惚れ惚れするような、残酷な笑顔が羨ましく思えた。
取引の話し合い、つまりは復讐劇の始まり