16.ガッサー視点
ガクッと、ブルーノの上半身が前に倒れる。糸が切れた操り人形みたいだ。無様な姿に、ガッサーはにんまりと笑う。
やっと目障りな男が大人しくなった。
生意気にも、ガッサーがいる立場を狙ってきたのだ。許せるはずがない。
だが、ガッサーや周りの下僕達の息抜きとしては優秀だ。反抗心が消えたこの状態で、死ぬまで飼い殺して嬲ろう。
そう考えた瞬間、ブルーノの体に変化が訪れた。
一瞬だった。丸まった背中から、黒い何かが飛び出した。同時に強く押され、ガッサーの巨体が軽く飛んだ。
ドスンと尻餅をつき、自分の体重もあってかなり痛い。
自分を突き飛ばすなど、なんと反抗的だ。
目を釣りあげて睨みつけようとして、固まってしまった。
ブルーノの背から、羽が出ている。
黒い羽。悪魔が持つ羽そのものだった。
「…………ひぇ?」
悪魔の羽が生えた。なら、ブルーノは悪魔だったのか。
そう考えていると、ブルーノの頭上に人が現れた。
視線を上に向け、ひっと喉が鳴る。
ブルーノが召喚した悪魔もどきのはずだ。見た目が変わっていて、はっきりそうだと言えない。
目の白黒が反対で、額から角が生えていて、尾からジャラジャラと鎖が垂れている。
悪魔よりも恐ろしい見た目。ガッサーを鼻で笑った後、寒気がするような笑顔を真下のブルーノへ向けた。
「約束の時だ」
そう言い、両手を広げる。すると、室内だというのに風が起きた。
悪魔もどきが起こしているのか、周りから集まった風がブルーノを通って天井に向かっていくようだ。
風の流れに合わせて、黒い羽が上っていく。蛹から蝶へ変わる時みたいに、ブルーノの背中から黒い羽を持つ人影が出てきている。
怖くて綺麗な光景だ。言葉が出ず、悲鳴も出ない。他の人も同じなのか、小さな母音が少し聞こえるだけだ。
代わりに、場違いな歌が聞こえる。
不穏な音は外から、悪魔が歌っているようだ。
こちらからすれば不快な音を、賛美歌みたいに歌っている。
怖い。何が起きているか分からない。
恐怖で頭もまともに動かない。誰か、説明してほしい。
そう思う間に、羽を持つ悪魔がブルーノから出てくる。
やがて、風が竜巻になって何も見えなくなったと思ったら、一瞬で消えた。
かき消したように、黒い羽が一段と広がっている。その下で、一人の悪魔が立っていた。
はっきりと見える口は大きく笑みを浮かべていて、ガッサー達とは反対にとても楽しそうだ。
腹が立つ程に美形が多い悪魔の中でも、一段と顔立ちがいい。いつの間にか、その悪魔は横抱きにブルーノを抱えていた。
家にある油絵の一つのような、現実離れした光景だ。
「あの姿は……まさか……!」
「ま、おう……」
「そんなっ、だって、ガッサー様が」
周りがざわめき始める。更に遠くからは歓声がしてきた。
魔王。言われれば、昔に会った国王みたいな雰囲気がある。いや、それ以上の存在感だ。
ありえない。
魔王なんてとっくに先祖が討ち取って、封印は悪魔や人間が従順になる為の建前に決まっている。
だから、ブルーノの話だって嘘だ。自分と同じ嘘だ。
そのはずなのに、震えが止まらない。
「キヒッ、キヒヒッ。で、出られた! ブルーノを傷つけないでちゃんと出れた! ティガル!」
「承知した」
短いやり取りの後、叩きつける音と悲鳴が後ろからした。振り返れると、悪魔が教皇を取り押さえていた。
演説していた机に頭を押し付けられ、五本の指が握りつぶす勢いで力が入っている。ミシミシという嫌な音に教皇のしゃがれた悲鳴がする。
担任が使役していた悪魔は、猫目をギラつかせて真っ直ぐ前を向いた。勝ち誇った笑顔で高らかに声を出す。
「各地にいる同胞達よ! 見ろ! 魔王はこの世に舞い戻った! 今こそ、積年の屈辱を晴らす時!」
外からの歓声がより大きくなった。代わりに人々が顔色を変える。封印が解かれた今、どうなるかをしっかりと予想出来ているからだ。
ガッサーは分かっていない。ただ、ここで踏ん張らなければ、今の甘い蜜の生活がなくなるとだけはわかる。
だからこそ、全身を震わせながらも、祭壇の悪魔に声を張り上げた。
「何を勝手な事を言うんでひゅか!? 不敬な悪魔め! ひぉんな事を、許ひゅわけないでひゅ!」
「流石、蜜だけ啜ってきただけのブタ! 現実が見えていないようだ!」
「ぶっ!?」
「だが、欠片程度の感謝はしているぞ? 堕落の日々を送りたいが為、後先考えずに嘘を通してきた。周りの馬鹿者も血筋だけでろくに考えず動いていた。おかげで封印は弱まり、こうして解放されたのだからな!」
高笑う悪魔。その挙動がガッサーを更に苛立たせる。まだ文句をつけようとして、寒気が走った。今まで感じた事の無い視線を感じる。
慌てて辺りを見渡し、ぎょっとした。
ガッサーを持ち上げていた生徒、教師、司祭、全員がガッサーを睨みつけていた。
「ガッサー……てめぇが、嘘なんかつかなきゃあ……!」
「魔王の封印解いてどうすんのよ!?」
「偉大なる先祖の行いを、信じていなかったのですか!?」
「生まれ変わりだから下手に出てやったのに、調子乗りやがって!」
「最悪! 何も無い豚相手に身体許したなんて!」
「うるひゃいうるひゃい! お前達だってボクちんをひゅんなりと受け入れてたでひょ!?」
他人から怒りを向けられた事がないガッサーは、今の状況を受け入れられない。罵倒を罵倒で返し、それがまた返される。
ガッサー対他の人間という言い争いに、祭壇の悪魔がまた笑う。
「三文芝居は終わりだ。貴様らが始めた戦いを再開しよう! 異世界者の召喚方法を知るこの男の死が、祝宴の始まりだ! 欲望のままに動け! だが忘れるな! これは前菜に過ぎない! 昂ったあまりに主食へ先走るな! さぁ、開宴だ!」
高らかな宣言と同時に、教皇の頭が弾け飛んだ。
パァンと甲高い音を立てて、握り潰された肉片や体液が飛ぶ。
それに恐怖する間もなく、外から悪魔が雪崩こんできた。
楽しそうに人を殺していく悪魔に、逃げる人間達。
その中で、生徒達を中心に捕らえられていく。ガッサーも気がつけば悪魔によって拘束されていた。
「ふんっ。ボクちんは偉いでひゅからね。悪魔も殺ひぃはひぃないようでひゅ」
血肉が広がっていく教会で、ガッサーは一人呟く。
生かされている者達は『主食』であり、ここで死ぬ以上に恐ろしい目に合う。
ガッサー以外はそれを予想して青ざめていたが、最たる元凶に教える余裕は誰も持っていなかった。
地獄の始まり