12.ブルーノ視点
自分の中に、別の存在がいる。
その日、ブルーノは詳細に認識できた。
数日前から、胸の内がこそばゆく感じていた。
皮膚の掻痒でも食物の誤飲でもない、不思議な感覚。それが別存在を認識した瞬間に、綺麗に消えた。
イチロー・タナカの生まれ変わり。魔王の封印。歴史本を好んで読み漁っていたブルーノには、直ぐに理解する。
同時に沸き上がる気持ちは、高揚感でも自尊心でもなく、不安である。
過去の生まれ変わり達は、それはもう周りに煽てられて幸せな日々を送ったと、大抵の書籍には書かれている。
しかし、タナカ侯爵家を見ると、違った考え方もできる。
機嫌良くしてもらう為、盲目的に主人に使える従者達。それを当たり前だとふんぞり返るタナカ侯爵一家。
過剰なサービスの上で胡座をかく怠惰しきった人間。過去の生まれ変わり達も、そうなってしまった可能性が高い。
ブルーノは自分の価値を正しく理解している。魔王の存在で過剰に甘やかされたくは無い。何より、甘えに応じた怠惰な人間になりたくない。
不安要素はもう一つ。世界に災厄を撒き散らさないよう、責任が重くのしかかる。自分が圧に潰されないか不安で仕方ない。
「父様や母様、姉様に執事や侍女。それに友達もいる。オレの不安も、吹き飛ばしてくれるはずだ」
そう信じて笑う。そして、絶対的な信頼を寄せる両親が戻ってくる時を心待ちにしていた。
失望の生活が始まるとは、微塵も思わなかった。
最悪の気分だ。ブルーノは布団に入ったまま、天井を見つめて言葉を洩らす。
何年かぶりの、昔の夢。周りにいる人間がまだ優しく、ブルーノ自身も皆を信用していた頃だ。
嘲笑、侮蔑、稀に暴力。反応する姿で楽しませない為の笑顔と、口調と、一人称になる前である。
懐かしいと思う気持ちは全くない。むしろ、現状でも保てている理性が揺さぶられて、不快だ。
いつも通り、一人きりの起床。そこで気づく。
自分が呼び出してしまった、邪神達がいない。
美しい女性の上半身と、煌びやかな鱗を持つ魚の下半身。幻獣書物で目にした事がある人魚と、ウツボという海の生物に似ている黒い存在。
悪魔の象徴である角も尾も羽もなく、周りの人間達は挙って嘲笑した。嘘つき男の召喚だから、悪魔すらも呼べなかった。
けれども、ブルーノは一目で直感する。召喚陣にいる存在は、悪魔よりも恐ろしい存在だ。
陣を挟んだ向かい側。大口を開けてせせら笑う人間達の横で、下僕である悪魔達は戦慄していた。それが自分の勘が正しいという証拠である。
だが、二人はブルーノに危害を与えなかった。嘲笑も、無視も、悪意も、何も無い。
それだけでも、ブルーノには嬉しかった。
だからか、起きてもまだいると思っていた二人がいない沈黙に心痛い。
「……邪神様」
『も、も、問題ない。ああ、悪魔に話があるって出かけたんだ、すぐ戻るはず』
「そうですか。それなら良か……」
良くない。一人しかいない部屋で、返答が来るはずがない。
幻聴にしてはやけにはっきりとしていた。急いで周りを見渡すブルーノに、楽しげな笑い声がまた聞こえた。
『キヒッ。ま、周り見ても僕はいない。だだ、だって、ブルーノの魂の中だもん』
特徴的な笑い方、自分の魂にいるという存在。
瞬時に思いついた名前に、血の気が引いた。震える唇で、その名前を紡ぐ。
「魔王……クレゾント…………」
『せいかーい。こ、声出さんでも、頭で話せば伝わんよ』
至って冷静な言葉に、冷や汗が出てくる。閲読した歴史書物を想起させても、魔王が話しかけたという記載が見つからない。
考えられる可能性としては、自分の取り巻く環境だろう。
『貴方が話しかけられる程、封印が弱体化しているようですね……』
『そ、そうなんよ。理解、早すぎん?』
『伊達に書物を読み耽ってはいません。しかし、それを伝えてきた貴方の意図が分かりません。封印が完全に解ける時まで黙っている方が都合がいいはずです。まさかとは思いますが、魔王様が孤独の寂しさに人恋しくなりましたか?』
『そう!』
威勢のいい肯定に、目が点になる。会話に込めた嫌味を、そのまま受け取るとは思わなかった。
周囲が全て敵という状況で、遠回りで些細な嫌味だけが唯一の反撃方法である。
たったそれだけで、勝ち誇った顔を歪めて気に障る敵を見下ろしていた。
だが、それだけしか出来ない自分が惨めだと、始めた頃は自己嫌悪に陥っていたものだ。
『だだだ、だって! 暇なんだよ! ずーっと一人だったから! も、目的とか、話せんなら話したいって思ってただけで! 都合とか、意図とか、そういうのはティガル任せにしてたから分かんない! 知らん!』
ブルーノの閉口に、クレゾントは矢継ぎ早で言葉を述べる。親に怒られた子供が取り繕うとする様な姿に、自然と口角が上がっていた。
こういう会話は久方ぶりだ。例え相手が魔王だとしても、気持ちが安らかになっていく。
『ふふっ』
『あ! 笑った! ブルーノ笑った! 何年ぶり!?』
『さぁ? 自分では分かりませんね。何年ぶりでしょうか?』
『な、な、な、もっと話せばもっと笑うんじゃない!? ぼ、僕、色んな話知りたい!』
『いいですよ。時間がある時でしたら』
迷いなく即答した自分に驚いた。その間に、クレゾントの歓喜の声が響く。悪魔の王と言えど、こちらに敵意がないなら問題ないはずだ。
狡猾な悪魔なら本心を隠すなど朝飯前だろうが、少なくとも悪意が込もった陰口よりは話してて気分がいい。
幸いと言うべきか、話のタネになりそうな知識は貯め込んである。暫くは話題に欠かない量のはずだ。
ただ、そろそろ登校の準備をしなければならない。つまり、悠長に会話する時間はない。
『申し訳ありませんが、今は貴方と』
『クレゾント』
『……魔王様と』
『クレゾント!』
『…………クレゾント、さんと話す時間はありません。こちらが空いた時に話しかけてください。、そちらからなら、私の状況を見て話しかけられるでしょう?』
周りの嫌がらせ、特にガッサーがいる時、脳内会話へ意識が向いていては危険だ。非難対象の態度が違うと変な勘を発揮し、激高する可能性が高い。
そう見越して伝えると、何故か独特な笑い声が聞こえてきた。
『だだ、大丈夫! その辺ぜーんぶ含めて、邪神が仲間に話してんから!』
理解出来ずに首を傾げるブルーノに、笑い声はまだ続いていた。
中にいた存在から、話せる存在へ