第4話「鬼舞の大霞」
新太の眼前で、蒸機兵同士の激しい戦いが始まった。しかし、鬼舞ヶ原を濃霧が覆い、戦闘は一時小康状態になることを余儀なくされた。
その霧の中、鬼舞ヶ原西方の酒爪川河畔では、うごめく謎の影があった……
未の刻(午後二時過ぎ)。
鬼舞ヶ原を濃霧が覆い尽くして四半刻(約30分)あまり過ぎた。しかし、霧は一向に晴れる気配を見せなかった。
鬼舞ヶ原の南西一里(約4キロ)に位置する岩合平――畔柳軍本陣では、総大将、畔柳伴房が床几の上に腰掛けていた。神経質そうに膝を揺らし、立体遠見盤を見下ろしている。脇には鵜飼帯刀、弓削銀之丞、佐々忠秀らの家臣たちが控えていた。
畔柳家当主であり総大将の伴房は、細身ながらがっちりとした体つきである。が、その顔は数え三十八という歳のわりに若く見える。つぶらな眼は、彼の顔を歳よりも若い面立ちに見せている。その両眼にはどこかしら繊細な光が宿っていた。
伴房自身はそれを痛みをともなって自覚していた。そして、彼はそんなおのれの顔貌に複雑な思いを抱いていた。
伴房の父、先代当主の故・伴長は豪放磊落な武将であった。父、伴長はその豪胆さで隣国へと次々に侵攻し、畔柳家の版図を拡げたのであった。
しかし、いっぽうで伴房は母親似である。彼の母親の久は遠い西国の馬場家から、十六の歳に畔柳家に嫁いできた人であった。無論、政略結婚だった。いっぽうで父の伴長は猟色家であった。両手で数え切れぬほどの側室を抱えるような男であった。母親の久は、多くの痛みを背負いながら、伴房が十三のときに痩せ衰えて病で没した。
伴房は、猛将と名高かった父にならって頬髭を伸ばした。が、それでもやはり曲線的な優しさは隠しようもなくにじみ出てしまうのだった。
「孫兵衛、まだ〈婆羅門〉は出せぬのか?」
伴房は一つ咳払いをすると、遠見盤上に投影された松木孫兵衛の立体映像に向かって問うた。
「ははっ、途中嵐に遭いまして、到着がふた月も遅れましたこと、この孫兵衛、心よりお詫び申し上げまする。今宵にはお屋形さまのお手元にお届けできることと存じます」
遠見盤の映像上の松木孫兵衛が、平伏して答えた。広い月代がてらてらと輝いている。松木家は、三代前から畔柳家に仕える実務家の一族であった。丸顔で、一見すると貫禄に欠けた小役人のように見える男だが、その頭脳の回転は人一倍速かった。
「嵐はそこもとのせいではない。しかし、それでも十日は早く着いたのではないか? 陸路を選んでおればよかったのだ」
口を挟んだのは、鵜飼帯刀である。遠見盤の上の松木孫兵衛が渋面を作るのが見えた。
「帯刀、控えおれ」
伴房は言った。かねてより鵜飼帯刀は、伴房が松木孫兵衛を重用することを好ましくは思っていなかった。武人の鵜飼帯刀と実務家の松木孫兵衛は、ある意味で水と油のような存在であった。
「孫兵衛、〈婆羅門〉は我が軍の切り札じゃ。傷一つ付けず、我が手元へ早う輸送いたせ」
伴房の言葉に、松木孫兵衛は「ははあっ」と平伏し、立体遠見盤からその姿が消えた。
「〈婆羅門〉さえあれば、玉造をつぶすなど、赤子の手をひねるよりもたやすきこと……」
伴房はかすれた声で言い、唇をゆがめて見せた。
すると、かたわらの弓削銀之丞が「ふっ」と吐息を漏らすのが、伴房の耳に届いた。
「くっ……」
伴房は唇を軽く噛み、息を漏らした。
弓削銀之丞に、己の強がりを見抜かれている――伴房は羞恥といらだちを奥歯で噛み締めながら、床几から立ち上がった。
「霧が晴れ次第、一気に反転攻勢に出る」
畔柳伴房は、重々しい口調で命じた。
「ははっ」
家臣たちが一斉に平伏した。
が、弓削銀之丞だけは冷徹な面持ちを変えなかった。
「お屋形さま、この計画、玉造に漏れてはおりませぬでしょうな?」
「な、何を申すか、弓削? お屋形さまの御前で、無礼であろう!」
割り込んだのは佐々忠秀である。
それでも弓削銀之丞は冷ややかな声を変えなかった。
「玉造家には代々、胡乱な乱波者が仕えているとのこと。奴らがこのたびの戦でも陰日向に動いていることは間違いないでしょう」
「うぬ……」
畔柳伴房は、唾とともにいらだちを飲み干すと、かたわらに控える鵜飼帯刀に顔を向けた。
「鵜飼、そのほうはどう思う?」
「はっ、銀之丞の申された話に一理ありますかと存じまする。松木どのに加勢を送られてはいかがでしょうかな?」
「ふむ、わしもそう思うぞ。弓削、〈多聞〉で酒爪川へ向かえ。兵を五十連れてゆくがよい。急げ」
「はっ!」
立ち上がって足早に本陣を去る弓削銀之丞の背中を、佐々忠秀がにらみつけていた。伴房は彼らの姿を視界の片隅にとらえた。奥歯を強く噛み締め、伴房は弓削銀之丞と佐々忠秀の姿をにらみつけた。
「どこなんだ、ここ?」
新太は焦っていた。
濃密な霧に周囲を包まれ、新太は完全に方角を見失っていた。いつしか戦場の真っ只中から離れてしまい、広い草原をさまよい歩いていた。
ふと、新太は顔を上げた。今までに聞こえることのなかった、水の音が耳に届いたのだ。
新太は、その水の音を頼りに足早に進んだ。ほどなくして、彼の前に、滔々と流れる川が現れた。ゆるやかに上下に波打つその水面の上を、青い蜻蛉が数匹、するりするりと滑空するのが見えた。
新太は駆け出した。そして彼は、川の水に顔をつけた。冷たい川の水をかぶりかぶりと飲み込んだ。
熱く火照っていた新太の躰が、徐々に穏やかに静まるのを感じた。
人心地がつき、ようやく新太は気づいた。
眼の前に流れる川は、酒爪川に違いない。鬼舞ヶ原西方を南北に蛇行する川である。
新太は、西方の畔柳軍の陣地に踏み込んでいたのだった。
首筋の産毛が逆立つのを感じた。
と同時に、川面をたゆたう霧の中に、黒く大きな影と蠢く人影が見えた。
立ち働いているのは、十人あまりの人足たちのようだった。どうやら、十間(約十八メートル)ほど下流の川面に、なにか巨大な影が浮かんでいた。
ちょうどそのとき、徐々に霧が薄れ始めた。新太は眼を凝らした。灰色の薄霧の向こうに、ぼんやりと巨大な影が浮かんだ。
「じょ、蒸機兵……?」
新太は漏れかかった声を慌てて飲み下した。
横づけされた筏の上に、蒸機兵が仰臥していた。その巨体の影が、霧の向こうに徐々に浮かび上がったのだ。
と、新太の視界の片隅に、さらにいくつかの人影が飛び込んできた。
新太はまたもや眼を疑った。
霧の向こうでいくつか影たちが、酒爪川上流から、水面の上を滑るように音もなく歩いている。
人とは思われぬ奇妙な動きだった。物の怪かあやかしの類が、この酒爪川に現れたのだろうか?
新太は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しかし、それは物の怪でもあやかしでもなかった。
人であった。暗灰色の装束に身を包み、背に刀を負った十一個の人影である。彼らはみな、両の足に大きな丸い板状の〈水蜘蛛〉を履いていた。水の上を歩くために忍びの者たちが使用する履物である。
そう、彼らこそ玉造家に仕える忍びたちであった。
「本当に……〈猫目組〉が?」
新太は内心でつぶやいた。
新太のような百姓家の息子であっても、〈猫目組〉の名を聞き知っていた。幼子が枕元で豪傑の活躍や悪鬼羅刹の物語を聞かされるのと同様に、玉造領の子どもたちは、母親や祖母からひそひそ声でその名を聞かされて育っていた。彼らにとって、〈猫目組〉とはお伽噺に登場する影の英雄であった。が、もちろんその〈猫目組〉が実在するものだとは、誰も信じていなかったのである。
先頭を行く灰色の影が、酒爪川上流の玉造領から南へ川を下り、東岸へたどり着いた。彼らは音を立てることなく、両足の水蜘蛛をすぐさま草むらに捨て、身をかがめた。
遅れて川岸に着いた者たちも、同様に身を潜めた。重くたち込める霧は、忍びの者たちの姿をほとんど覆い隠していた。
最初に川を下ってきた人影は、振り返りざま、口元で「しゅっ」という音を立てて合図した。手指の先を使い、背後の配下たちに無言のまま指示を送る。九人はそれに呼応するように左右に散開した。合図を送ったのは、長身痩躯の人影だった。頭巾の隙間からは、切れ長の眼が覗いている。
もっとも小柄な一人の影が、長身の人影の脇にするすると滑るように移動した。その頭巾の隙間から除く両眼はつぶらで、まるで少女のようだ。女の忍者――くノ一であった。そのくノ一の影は、最初に着岸した長身の影の隣に身を寄せた。
長身痩躯の影は、頭巾の間から切れ長の眼を油断なく周囲へ向けた。彼こそが〈猫目組〉を統べる頭領、雷蔵であった。
そのそばに身を潜める少女のようなくノ一の名は、志乃といった。
雷蔵は志乃に眼で合図した。
酒爪川東岸に、急ごしらえの木製の艀が作られていた。そこには、大型の筏が着岸している。その筏で忙しく立ち働く七、八人の人足たちの前には、漆黒の蒸機兵が仰向けに微動だにせず横たわっているのであった。
第5話へつづく