01.ヘレン・F・カミンググラフという少女
思い出されることが少ない存在がいる。
アレクサンダー暦二〇五二年、筆者はとある聖女の墓を訪ねた。
思い出す為の儀式、あるいは現代にこの女の物語を紡ぐ為である。
墓の管理人は喋ることが出来なかった。理由はわからない。
聖女の墓碑銘にはこうある。
――銀の槍を手に入れた。友情すら手に入れた。
銀の槍の聖女というのは、西モスキーナ山のヘレン・F・カミンググラフのことを指している。
一九〇四年という近世に生まれた彼女は当初、自分が転生者であることを隠していた。
しかし、察していた者は多く存在していたようである。
彼女が三歳であった頃、彼女は幼稚園に入れられた。
と言っても、現代のようなものではない。日中に子供を見れない親の為に、有志が無償で、一か所に集めておくだけのような施設であった。ぼろぼろで、広いだけの建物。ピアノも無ければ、スリッパも無い。木造建築で、油断するとシロアリがたかる――。
初めて登園した時、教諭のミューシャは教室でクイズを出していた。
「は~い。問題です! 『あ』から始まる言葉ってなーんだ?」
子供の一人が言う。
「アイス!」
「正解! 次は......『さ』で始まる言葉ってなーんだ?」
今度は別の子供が言う。
「ささみ!」
「よく出来ました~。今度は......『な』で始まる言葉は?」
「なす!」
「うんうん! そうだね! それじゃあ、『や』で始まる言葉は?」
その時、教室の後ろでじっとしていたヘレンが手を挙げた。
上品に背筋を伸ばし、すっと手を伸ばしたのである。
その様子を見たミューシャは僅かにときめいた。
――とても可愛い子が入ってきたわね。
彼女はそう思った。
そして、
「後ろのヘレンちゃん! どうぞ!」
と言った。
ヘレンは堂々と、こう返した。
「ヤリマン」
これについては後ほど説明したい。
彼女が四歳の時、砂絵で下手ながらも難しい漢字を表現したのを見て、ミューシャは、
――やっぱりそうなのかしらね。
と、思った。
この時代、識字率は四〇パーセント台であった。
多くの人間が漢字の多くを知らなかった。
というより、教育という概念が薄かった。
識字率が九〇パーセントを越えるのはずっと後になってからだった。
それとなく、ミューシャはヘレンに聞いてみた。
「どこでそんな文字を覚えたの~?」
「覚えてるから覚えてる」
そんな調子で返された。
ミューシャは慈母のように見守ることにした。
数回だけ、ミューシャはヘレンの父親と会ったことがある。
リス狩りと按摩で日銭を稼いでいる人間だった。
この時代では、特別な人間では無い。
ミューシャは尋ねた。
「彼女、将来はどうなさるのでしょうね」
「さあ、おいにはよくわからんが」
ヘレンの父親は笑ってこう言った。
「あの子には軍が似合っている気がしますなあ」
――転生した人間は多くが軍に入った。手っ取り早く、地位や資金を得ることが出来るからだと考えられている。
ヘレンの父親は自分の娘が転生者だと、この時には既に察していたに違いない。
ヘレンには兄もいた。
一つ年上で、好奇心旺盛な子である。
ヘレンが四歳のある時、ヘレンの兄は妹にこう言った。
「虹の根本を見に行こう」
ヘレンはこう返した。
「良いけど、一時間経ったら帰ろう」
バスケットに林檎と皮革の水筒を入れ、兄妹は出発する。
結局、虹の根本は見れなかった。
兄は悔しさで泣いたが、妹は無表情だった。
ヘレンの兄も、妹の異質さにようやく気付いた。
時代は一九〇八年。
トーワ戦争が終結したての頃であった。
麻薬の一種であるトーワの大量輸出によるこの戦争は多くの生活困難者を出した。
だが、国に救済の意思は無かった。
時代は新たな聖女の誕生を欲していた。
ヘレンは無機質な目で国を見つめていたようである。
ミューシャや父が「この国や時代はどうか」とさり気なく聞くが、よくわからないと返した。
珍しい回答であった。多くの転生者は決まって「良くない」と言う。
余談になるが、この国における銃火器の本格運用はトーワ戦争が初めてと言われている。
パイクと呼ばれる長い槍を使った密集陣形、重騎兵による突撃戦法。
まだまだあちこちで健在であった。
しかし、魔法を使う強力な武力の持ち主である『勇者』と言われる者たちに対抗する新たな方法が模索されていた。
その長い模索の果てに、銃が誕生した。
難産であった。
火薬も発達した。
ピクリン酸を使った下瀬火薬が表舞台に現れようとしていた。
ヘレンの父親は目が弱かったので、トーワ戦争には従軍しなかった。
おかげで、世間体は悪かったようである。
長年手入れされていない木の家。世間体の悪さ。財産も余裕が無い。
察している人間は全員が「ヘレンは軍に入る」と思った。
食卓を囲んでいる時、ヘレンはぼそりと言った。
「金稼ぎたいねん」
父親は答えた。
「お前はそういう心配しなくてよか」
「じゃけど、家がぼろい」
「しょうがない。おいにはこの稼ぎが限度じゃ」
「じゃから金稼ぎたいねん」
その時、兄が割り込んで言った。
「あてはあるのか?」
「まあ、少し、思いつく」
兄は楽しそうに言う。
「なあお父さん。ヘレンの思いつき、楽しそうじゃん」
五歳の兄は楽観的であった。
「どう稼ぐ」渋い顔でヘレンの父は問う。
「靴を磨く」
「はあ?」兄が言う。
「路傍で、人々の靴を磨く」
兄は目をぱちくりさせた。
「靴を磨いたらどうなるんだ」父は言った。
「その人の気分が良くなる」
少し説明しなければならない。
この時代、靴を磨くという概念は無かった。
上流階級で靴を大切に扱う人間は居ても、基本的に靴は消耗品であり、メンテナンスする理由は無いと考えられた。
それに、靴を消費することで、靴職人の雇用が発生するのだという考え方もあった。
そういうわけで、靴を磨くという発想は新しいものであった。
「空いた時間でやりなさい」父はそう言った。
「うむ」ヘレンはパンを頬張りながらそう言った。
「俺も側で見てていいか!?」兄が言った。
「うむ」ヘレンは答えた。
「うむ、って何だよ。おじさんじゃん」兄は笑った。
「うむ」
「またそれ! あっはは!」
カミンググラフ家は居心地の良い家庭であったかもしれない。
こうしてヘレンは靴磨きをすることになった。
夕方になったら兄と街頭に出て、人々に声をかける。
幼い兄妹の変わった申し出に人々は喜んで応えた。
父の稼ぎには遠く及ばないものの、少し余裕が出来た。
ヘレンの兄は後年、刺激的な日々だったと言っている。
それから時が経ち。
六歳になって間もないヘレンの兄が卒園することになった。
ヘレンの父は尋ねた。
「お前、寺小屋へ行くか? それともおいの手伝いするか?」
寺小屋とは金を払うことで物書きを教えてもらえる場であった。
とはいえ、現代の小学校にはとても及ばない。
木造の建物。ぼろぼろの子供たち。共用の鉛筆は誰かが噛んだ後がある。紙があったら幸運。勿論、紙は使いまわしされ、持ち帰ることは許されない。机は誰かが彫刻刀で削って悲惨。椅子はぐらついており、教諭に訴えても直してもらえないのが普通――。
余談だが、上流階級の人間は家庭教師で物書きを教わった。数年間勉強すると、魔法学校や高等学校への推薦状を出して貰えた。
「寺小屋行く金は無いんじゃないの、お父さん。俺は手伝いするよ」
「そうか」
その時、ヘレンが横槍を入れてきた。
「朝と夕方に靴磨きすれば寺小屋行けるでしょ」
「え? うーん。それはそうだけど、文字の読み書き出来ても俺には勿体無いよ」
「勿体無くない」ヘレンは強く言った。
こうして兄の運命は決まった。
朝と夕方に靴磨きをして、日中は寺小屋で勉強することになった。
もしこの時、ヘレンが横槍を入れていなければ。
ジャッキストック戦争の英雄、アーガン・F・カミンググラフは誕生していなかっただろう。
紹介が遅れた――。
ヘレンの兄の名は、アーガン・F・カミンググラフ。
ジャッキストック戦争で名高い『七〇二高地占領戦』における、爆砕部隊を率いた曹長である。
この頃、ヘレンとアーガンは常に一緒だった。
アーガンが何か遊びや思いつきを実行する度に、ヘレンがカバーするという流れが出来ていた。
ある時、アーガンは露天の果物屋からオレンジを盗む計画を立てた。
時々、悪い子供であった。
アーガンが後年語るところによると、とにかく大きさが尋常ではなく、何が何でも食べたかったらしい。恐らく、幼い子供だったので大きさを錯覚したのであろう。
計画の内容はこうである。
ハガキ配達の子供を装って、店の前を何度か行き来する。
その途中で、店の台の隅にあるオレンジをこっそり一個貰う。
アーガンはその計画をヘレンに話した。
「私も付いてって良い?」
「駄目だ。後で半分やるから」
計画は実行された。
無事、盗みに成功した。
アーガンは道端でヘレンに半分オレンジを食わせてやった。
「うまいな!」兄が言う。
「おいしいね」ぼそりとヘレンが言う。
こうしてアーガンが盗みを何度か繰り返した時、アーガンは不意打ちを喰らう。
店の前を行き来している時に果物屋の主人から声をかけられたのである。
彼はこう言われた。
「おい。お兄ちゃん。妹に代金払わせて盗人のように持っていくのはそろそろ止しなよ」
――計画を聞いたヘレンが事前に果物屋に代金を払っていたのだった。
アーガンはあまりの恥ずかしさに、妹と三日間喋れなかった。
後でアーガンは聞いた。そのようなことをするくらいなら、最初から止めておけば良かったのではないかと。
ヘレンはあっさり言った。
「経験は大事だと思って」
一九一〇年。ヘレンは六歳になった。卒園の年である。
幼稚園教諭のミューシャは泣くのをこらえた。
ヘレンは可愛らしくて、賢くて、素直にものを聞いてくれる。
時々、自分の国や時代に対する見解をじっと受け止めてくれたりして。
可愛かった。
自分の娘だったら!
ヘレンは卒園式でミューシャにこう言った。
「また会おうね、先生」
ミューシャは後年、この言葉が暗い時代における希望だったと語っている。
ヘレンが寺小屋に行かないと言った時、父は驚いた。
「お前も兄のように寺小屋行け」
「それより金稼ぎたい」
「稼いでどうする」
「家を修理して、魔法書買う」
父は目をぱちくりさせた。
「魔法は魔法学校で学べば良い。寺小屋行け」
「言っても意味が無い。私は文字の読み書き出来る」
ヘレンが転生をはっきり匂わせたのはこの時が初めてらしい。父は黙った。
「魔法を今から学んでどうする」
「逆。今から学ばないと学校で一番になれない」
父は一理あると思った。
上流階級や特別であると認定された人間は幼少から魔法を学ぶ。
学校に入ってから学ぶのでは遅い。
悩んで、父は言った。
「家を修理する金で魔法を学びなさい。おいの稼ぎで家は直す」
銀の槍の聖女は不幸な生い立ちであるように語られるが、そうとは言えないというのが筆者の見解である。少なくとも、ヘレンは人間に恵まれた。
文字の読み書きを覚えると反抗ばかりする、だから寺小屋なんて価値が無い。そう考える人間が多くいた時代であった。
毎日、朝から夕方までヘレンは靴を磨き続けた。
兄のアーガンはしょっちゅう、寺小屋の友達と会うからヘレンも来い、と言った。
ヘレンは基本的に断っていたが、時々、会った。
アーガンの友人は下流寄りの中流階級の人間が多かった。
その中に。
後に赤十字社を設立するダークシア・A・マルコフがいた。
ダークシアはヘレンと算数について会話した後、ヘレンの兄に、
「あの子は立派だな」
とだけ、言った。
ダークシアの自伝によると、凄みではなく、立派さを感じ取ったらしい。
ヘレンは八歳になった。
彼女は父に、
「そろそろ魔法書を買う」
とだけ、言った。
ヘレンの父は昼にリス狩りをして、夜に按摩で日銭を稼いでいた。
その隙間の時間で、ヘレンの父は情報を集めた。
主に、初心者向けの魔法書についてである。
だが、下流階級の人間が上流階級のことを知ろうとしても、まあ、難しかった。
苦労した父である。
それでも、引退した魔導士がコンサルをしているという屋敷を突き止めた。
父はヘレンにその情報を伝えた。
ヘレンはにっこり笑った。
――心から笑ってるところを見るのは久しぶりかもしれない。
父はそう思った。
その魔導士の名はギルガンと言った。
本名はわからない。歴史に残らなかった。
ギルガンはその時、六五歳であった。
ある時、屋敷から馬車で顧客の家へ出発したギルガンは、途中寄った喫茶店で少女に話しかけられた。
「靴を磨かせて貰えませんか」
「結構です。でもありがとう。お礼にこれを差し上げましょう」
銀貨であった。ギルガンは羽振りが良かった。
少女は銀貨に関心を持たなかった。
そして少女はこう言った。
「偉大なる大魔導士であるイーレイは、身だしなみで人は判断されると言っていました。ギルガン様のような偉大なお方が、靴の汚れ程度で不当な扱いを受けることは悲しいことです」
内心、ギルガンは驚いた。
――見るからに下流の少女、それも十歳に届かない子だろう。はて、どこで覚えたのやら。
ギルガンは、明日屋敷に来なさいと言った。その時に靴を磨かせてやるとも言った。
翌日、ヘレンは屋敷に行った。
ギルガンは黙って、ヘレンが靴を磨くのを見届けた。
ヘレンは帰り際、来週に次の予約を取り、それからギルガンに手紙を渡した。
その日の夕食が終わった頃、ギルガンは手紙を取り出した。
――拝啓。風薫るすがすがしい季節となりましたが、ギルガン様にはお元気でご活躍のこととお喜び申し上げます。いつも平民にお力添えをいただきまして、まことにありがとうございます。さて、この度、私事ではありますが、魔法を学ぶこととなりました。つきましては、恐れ入りますがギルガン様に入門書をご紹介頂きたく存じます。予算は銀貨五〇枚です。お手数ですが、ご検討宜しくお願い致します。本来であれば拝眉の上お願いすべきところ、お時間を取らせるのが申し訳無い為、お手紙にて失礼します。ヘレン・F・カミンググラフ。
達筆であった。
ギルガンは椅子から転がり落ちた。
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