第15話 異様な静寂。 中
「遅くなってしまい、申し訳ありません。支度に時間がかかってしまって……」
「……ラティ」
ほっと息を吐きながらそちらを振り返り、息を呑む。血のように赤く輝くドレスに、その裾から細かく刻まれた黒い刺繍。ふわりと流れた銀の髪が縁取る彼女の白い頬は、慌ててこの場を訪れたせいか、僅かに紅潮していた。
見覚えのあるそのドレスは、自分が予想していたよりもずっとラテルティアに似合っていて。知らず見惚れていたザイルの耳に、「何で……」という囁き声が聞こえた。
「何で、ここに……」
ちらりとそちらに視線を向ければ、今の今まで芝居がかった調子で自分と相対していたメラルニアが、呆然とラテルティアの方を見ている。有り得ないと、その顔に描いてあるようだ。
メラルニアのそんな様子を軽く鼻で嗤い、ザイルはこちらに小さく駆け寄ってくるラテルティアへと数歩近付く。自分のすぐ目の前で立ち止まった彼女は、その両手でザイルの手を掴むと、ほっと息を吐き出していた。ふにゃりと、気の抜けた笑みを浮かべる。
途端、今度はザイルの方が、くしゃりと顔を歪める。自らの手に触れる、彼女の体温を縋るように掴む。良かったと、そう思った。彼女が無事に自分の目の前に現れてくれて、良かったと。大丈夫なのだと理解していても、その姿を目にするまでは、その手に触れるまでは、頭のどこかに不安が漂っていたから。
それも、やっと解消された。彼女は今、自分の目の前にいる。
愛しい愛しい、唯一人の婚約者。
「ティルシス公爵の別邸はどうだった? 今時期は、フェルネシアの花が見頃だろう。気に入ったか?」
するりとその頬に手を伸ばしながら訊ねる。何でもないことのように、それでいて、彼女の存在を確かめるように。
「ティルシス公爵の、別邸……?」と、背後からメラルニアの驚愕の声が聞こえて来たけれど、気付かぬふりを通すことにした。やはり知らなかったのだなと、そう思いながら。
ラテルティアはザイルの手に自ら頬を摺り寄せながら、「とても綺麗でした」と呟いた。
「白い花に夕日が差して、朱く染まって。ネルティア妃殿下と共に眺めたんです。ザイル様も一緒だと、もっと嬉しかったのですけれど」
ラテルティアの言葉に、今度は周囲の貴族たちがさわさわと口を開く。「ネルティア妃殿下が一緒に……?」、「でも、キルナリス公爵令嬢は……」と、ぼそぼそと聞こえてくる言葉たち。
「そういえば、義母上はどうしたんだ?」と、少し大きめの声で問い掛ければ、ラテルティアは僅かに後ろを振り返って見せる。「ここですよ」と聞こえてきた声は柔らかく、それでいて静かな威圧に満ちたものだった。
「デンティネス伯爵夫人にご挨拶をしていたのよ。大勢でお邪魔してしまったから」
声の聞こえてきた方にあった人垣が、一瞬の内に綺麗に左右へ分かれていく。会場内の参加者たちが頭を下げて迎えたのは、フィフラル帝国の側妃であり、唯一の妃、ネルティア・フィフラルと、彼女をエスコートする美麗な従者、ゼイラルの姿だった。
ゼイラルの姿が現れた途端、辺りがまた少しざわつきを見せる。彼らにとって、有り得ない組み合わせだったのだろう。第二皇子の義理の母と、第二皇子の婚約者の浮気相手と目される従者が、並んで姿を見せる、なんて。
公の場であるため、ザイルも周囲と同じように頭を下げてネルティアを迎える。彼女は鷹揚に手をひらめかせ、穏やかな口調で礼を解くように示した。
「驚かせてしまって申し訳ないわ。わたくしたちに構わず、パーティを楽しんで頂戴ね」
微笑みを混ぜてネルティアが言えば、周囲もまた笑みを返す。といっても、誰もその場を動こうとはしなかったが。
ゼイラルのエスコートで、ネルティアはゆったりとこちらへ歩み寄ってくる。「あの屋敷は、素晴らしいわ」と、ネルティアは楽しそうに呟いた。
「フェルネシアの花以外にも、ルミネアが好きな花々がたくさん咲いていたわ。ダリス様のご意向なのね。せめて、エリルが結婚するまでは待ってもらわなくてはならないけれど、貴方たちが住むには、ちょうど良い広さのお屋敷と思うわ」
「……兄上が結婚するまで、ですか……」
まだエリルには、婚約者さえもいないというのに。
分かってはいたが、先は長いと、状況も気にせずに溜息を吐く。早くラテルティアと二人で、誰にも邪魔されずに過ごしたいというのに。
あからさまに落ち込んだ様子のザイルに気付いたのだろう、ネルティアはくすりと笑って、「そう遠くはないかもしれませんよ」と呟いた。
「それはそうと、あなたに伝えておかなければならないことがあるの。わたくしよりも、この子の方が適任ね。……ゼイラル。あの者をここに」
自らをエスコートするゼイラルの方へと顔を向け、ネルティアは「説明してあげて頂戴」と告げる。ゼイラルは短い返事でそれに応じると、一礼し、身を翻した。そのまま、一度夜会の会場から姿を消す。
何事だろうと、ザイルも含め、周囲の者たちも彼の後姿を見送り、彼が消えて行った扉を見つめる。次に現れた時、ゼイラルはその腕に拘束された一人の男を、加えて、背後に引き連れた三人の騎士もまた、それぞれ同じように拘束された三人の女を連れていた。
そこで、ふと気付く。ゼイラルが連れている男は、今日の昼頃に彼が自分を訪れた時に背後に控えていた、あの見覚えのない男ではなかったか。
「僕は友人だと思い、接していたのですが……。まんまと騙されていました。申し訳ございません、ザイル殿下」
そう、ゼイラルは口火を切った。
「こちらの男は、とある人物から僕を見張るように指示された者です。そしてそちらの女たちは、ティルシス公爵の別邸に紛れ込んでおりました。こちらの男と同じように、指示された者です。女たちが持っていた物を、ザイル殿下へ」
芝居がかった悲痛な表情を浮かべ、ゼイラルは女たちを抑えている人物とはまた別の、背後に控えていた騎士に声をかける。騎士は短く応えると、手にしていた物を僅かに掲げるようにしてこちらに駆け寄ってきた。すっと、ザイルの目の前で膝をつく。
彼の手の平の中に収まっていたのは、鮮やかな紫色の、小さな三つのガラスの小瓶だった。
「まさか、このような物を使うつもりだったとは……」と、悔しげに言ってみせるゼイラルを横目に、ザイルは騎士からそれを一つ受け取ると、天井で一際煌々と輝くシャンデリアへと透かしてみる。半透明の紫色の向こうで、たぷんと中の液体が揺れた。
「蓋を開けてみれば、自ずとその液体の正体が明らかになるでしょう。ああ、決して口に入らぬようお気を付けを。……命に関わります」
静かに続いた言葉に、ザイルは僅かに顔をそちらに向けた。周囲の者たちが息を呑む気配を感じ、自然に動いた視線が、少し離れた位置に立つメラルニアの表情を捉える。
儚げな美貌を湛えるその顔は、今やその場に倒れてしまうのではないかというほど、真っ青に染まっていた。
と、腕を弱く引かれる感覚に、ザイルはそちらに目を向ける。ザイルの腕を握り、こちらを見上げるラテルティアは、その青い瞳いっぱいに不安を湛えていた。
「大丈夫だ、ラティ」
彼女を安心させるように微笑んで言い、ザイルは手元の小瓶に向き直ると、ゆっくりと手に力を入れ、その蓋を開けていく。零れないように気をつけながら、仰ぐようにしてその香りを鼻孔へと促せば、すぐにザイルの脳裏にその液体の正体が浮かび上がった。決して強くはない、仄かに香る、甘ったるい、独特な香り。
やはりと、思った。考えていた通りだ、と。
「……カリアステの」
忘れもしない。これは。
ぼそりと呟いた自分の声がやけに大きく響いた。
ひゅ、と誰かが息を呑むのが耳につく。誰もが知っている、その植物の名前。幼い頃に読み聞かせられる、おとぎ話にも度々登場する、有名な。
毒。
「そうです。即効性が高いとされ、服用すればその場で内臓を破壊し、血を吐き、死に至らしめる……。カリアステの根から採れる、有名な猛毒です」
忘れもしない。忘れることなどできない。これは。
母を、死に追いやった毒物の香り。
ゼイラルが説明するのを横目に、ザイルは彼の背後の、騎士たちに捕らえられた女たちへと目を向ける。瓶の蓋を戻し、見せつけるように軽くそれを持ち上げる。「これを、どうするつもりだった」と、ザイルは低く、問うた。
「これを使って、何をするつもりだった。……いや、聞くまでもねぇな。ラティとゼイラル、二人揃って命を落とせば、噂話は本当だったと、二人は心中したのだと、そう吹聴しやすくなるからな」
周囲に言い聞かせるように、ゆっくりとそう続ける。女たちは必死に頭を横に振り、「違います! 私たちは……!」と、声を上げていて。
「誰だ」と、また低く、ザイルは呟いた。
「誰が、お前たちにそれを持たせた」
低く低く、細めていつも以上に鋭利になった赤い瞳で再び問う。女たちはザイルの視線にひっと息を詰めると、ちらちらと視線をザイルの背後の方へと向けていた。それがすでに、答えではあったけれど。
知らしめねぇとなぁ。誰が、ラティを害しようとしたのか。第二皇子の婚約者の命を狙ったのか。
「……言わねぇなら、生かしておいても意味がねぇな。ゼイラル」
「はい」
嘆息して呟くザイルの言葉に静かに答え、ゼイラルは背後の護衛たちに視線を送る。女たちを捕えている騎士たちは、ゼイラルの合図を受けてそれぞれ剣を抜いた。ぎらりと、光を反射する鋭いそれを、彼らは女たちの首元へと添える。
「助けてください……っ!」と、ザイルから見て一番右側の騎士に捕らえられた女が、耐えきれないとでも言うように涙を流しながら、声を上げた。
「わ、わたしは……、脅されていただけなのです……! 捕らわれた家族の命を助けたいならば、その瓶に入った液体を、レンナイト公爵令嬢と、ゼイラル様のカップへ注ぐように、と……」
「私もです! それに、彼女も……。い、今も妹を捕らえられていて、従わなければ、……殺すと……!」
「その液体がカリアステの毒だなんて、聞かされておりませんでした……! ふ、腹痛を起こす薬だから、嫌がらせに丁度良いと、そう言われて……」
間近に迫った命の危機に、彼女たちは我先にと声を上げる。予想していたその行動に、ザイルは「へぇ」と声を漏らした。「嫌がらせ、ねぇ」、と。
「嫌がらせだろうが何だろうが、ラティに害を為そうとしやがったのは許せねぇが……。そうだな。正直に話せば、命だけは助けてやろう。お前たちも、その家族も。もちろん、言わねぇなら、なぁ?」
うっすらと笑みすら浮かべて見せれば、彼女たちはいよいよ恐怖に耐えきれなくなったらしく、がくりとその場に膝を落とす。ただ騎士が掴んだ腕にぶら下がるようにして、「……嬢様です」と、先程と同じく、最初に声を上げた女が口を開いた。
「め、メラルニアお嬢様です……!」
「……っ! お前っ!」
女が声を張り上げた瞬間、叱責するような声がザイルの背後から上がる。ゆっくりとそちらを振り返れば、やはり青い顔のままのメラルニアが、手元の扇を折れそうなほどに握りしめながら、女を睨んでいるところだった。いつもの儚げな様子など、掠りもしないほどの、必死な形相で。
「お嬢様から、命令されたのです……!」と、女は尚も続けた。
「ザイル殿下を、その優しさに付け込んで縛り付ける、レンナイト公爵令嬢を排除しなければならない、と……。何度も嫌がらせを受ければ、どうせすぐに逃げ帰るはずだからと、そう言って……」
「で、出鱈目ですわ! あの女たちの言うことなど、全部!」
声を上げ、助けを求めるようにこちらを向いたメラルニアは、いつもの様子を取り戻したように、涙を浮かべていた。ザイルに縋ろうとでもいうように、足を踏み出そうとする彼女を「動くな」と鋭く声を発することで留める。
「証拠はあるのか?」と、ザイルは女たちに問いかけた。
「キルナリス公爵令嬢が主犯だという証拠は。それがなければ、仮にも公爵家の令嬢を捕らえることは出来ない」
「そんなっ……!」
ザイルの冷静な言葉に、女たちは愕然とした表情になり、反対にメラルニアが心底ほっとした顔になる。こちらを向いて頬を染める様は、おそらくザイルが彼女を庇ったのだとでも思ったからだろう。
そのような気は毛頭ないが。
「何もないのであれば、公爵令嬢を侮辱した罪も加わることになる。お前たちの命だけではなく、一族郎党皆命を奪われても仕方がないが」
このフィフラル帝国は、明確な階級社会である。メラルニアに仕えていたというのならば、下位の貴族令嬢である場合もあるが、どちらにしろ最高位の貴族である公爵令嬢が相手であればどのみち罰は免れない。
女たちはそれぞれ青い顔のまま視線だけを交わしながら、「しょ、証拠は……」と口々に呟いた。
「メラルニアお嬢様の従者だった、ネリアスが全て手配されていたのですが、ネリアスはお嬢様に解雇されてしまって……。ですがサインなどは確か、お嬢様が……」
「だから、出鱈目を言うのはやめなさいと……!」
「……あれ? ネリアスさん、ですか?」
苛立ったように叱責するメラルニアの声に被せるように、ゼイラルが不思議そうな声をあげる。その声音に、僅かに嬉々としたものが混ざっていることに、気付かないザイルではなかった。驚いたような彼の目には、罠にかかった獲物を目の前にした、狩人のような楽しげな光が宿っている。どうやら彼は、まだ何か仕掛けをしているらしい。
相変わらず抜け目がねぇなぁと思いながら、ザイルは素知らぬ表情を保ったまま、「何か知っているのか」と、ゼイラルに向かって問いかける。ゼイラルは「知っているというか……」と呟き、背後を振り返った。
「今、彼は僕と共に働いていますよ。ねえ、ネリアスさん」
明るい口調で彼が声をかけた先には、ネルティアを守るために配置された複数の騎士たち。けれど「はい、ゼイラル様」と応えた声は、その更に後ろから聞こえてきた。騎士たちがざっと左右に分かれる。
彼らの間を擦り抜けるようにして現れた男は、ザイルにも見覚えのある人物であった。
一度目は、ラテルティアがネルティアやゼイラルと話しているところを、遠くから見ていた姿。
二度目は、ゼイラルと言葉を交わしていた姿。
ジェイルが言うには、メラルニアの従者であるとされた男、ネリアス。彼の登場に最も驚いた様子だったのは、彼の主人であったとされる、メラルニアその人であった。歩み寄るネリアスの姿に息を呑み、言葉も出ないというようにただ目を瞠っている。「お久しぶりです。お嬢様」と口を開いたネリアスは、どこか冷たい声音で続けた。
「お嬢様に屋敷を追い出されてから、偶然ゼイラル様にお会いしまして。同じ職場で働くことを薦めて頂きました。おかげで、こうして元気な姿で貴方にお会いすることが出来た。……とても嬉しいです」
メラルニアの目の前で足を止めたネリアスは、そう言ってにっこりと笑って見せる。その目だけは、少しも楽しそうではなかったが。
ネリアスは言葉もないメラルニアの様子にくすりと声を漏らすと、そのまま踵を返し、ザイルの元へとやって来た。跪き、手にしていた鞄からいくつもの書類を取り出す。「追い出された時に、これだけは持ち出さなければと思いましたので」と、彼は呟いた。
「お嬢様が薬品類を購入した際に、自らサインを施した書類です。いかなる責任も自ら負うという内容で、薬品の仕入れ先にも同じ物があるはずです。確認して頂ければ、証拠として十分かと」
「そもそもカリアステの毒を所持しているだけでも罪となりますからね」というネリアスは、本当に嬉しそうな顔をしていた。メラルニアに屋敷を追い出されたと言っていたところを見ると、余程不満が溜まっていたのだろう。このような物をわざわざ持ち出し、おそらくはメラルニアを追い落とす機会を探るくらいには。
跪いたまま差し出されたそれを受け取れば、遠くからメラルニアが「そ、そんな物、偽造したに決まってますわ!」と叫ぶのが聞こえたけれど、筆跡を鑑定すれば良いことである。まあ、ゼイラルがわざわざネリアスを助けてまで手元に置いておいた証拠だ。間違いなど万に一つも有り得ないだろうが。
書類を受け取り、ぱらぱらとそれをめくる。ネリアスの証言通りサインは確認出来た。また、購入した薬品の内容も記載されていた。
「押収された毒だけでは、購入した数には足りません。おそらくまだ、屋敷に隠してあるかと」
「お望みならば、共に赴き、探し出しましょう」と言うネリアスに対して、ザイルは僅かに頷いて見せ、ジェイルの方へと視線を送る。「キルナリス公爵令嬢を捕らえろ」と彼が告げれば、ジェイルの背後に控えていた騎士たちが二人、さっと動き出した。メラルニアの両脇に進み、彼女の腕を拘束する。「や、やめなさい! ザイル殿下、このようなことは間違っておりますわ!」と彼女は必死に声を上げるけれど、その言葉に従うはずもなかった。
書類にサイン、それぞれの証言。その上、屋敷から現物が見つかれば、言い逃れなど出来るはずもない。
分かっているだろうに、メラルニアはそれでも「ザイル殿下……!」と、泣きそうな声をかけてくる。「殿下は、ご存じでしょう……!」と。
「わたくしはずっと、……そんな女が現れるよりもずっと前から、ザイル殿下のことをお慕いしておりました……! お嫁さんにしてくださいと、言ったではありませんか……! 殿下も微笑んでくれたではありませんか……!」
こちらに歩み寄ろうとするも、その腕を両脇の騎士に阻まれて動けないメラルニアは、最後にはぽろぽろと、その翡翠の瞳から涙を流し始めた。「だから、わたくしは……」と、彼女はその場に膝をつきながら呟いた。
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後編の方が少しどころじゃなく長くなったので、一端切りました……。
中編(2)とかにならないよう、頑張ってまとめたいです……。




