第14話 人知れぬ助力。
薄闇というには、もう随分と色を濃くした空。欠けた月が輝き、細かな星々が夜を彩り始めている。
執務室を出たザイルは、ジェイルに手配を頼んだ馬車を待つために、四人の護衛の騎士たちと共に、皇宮の正面口で待機していた。ザイルと同じ時にジェイルも部屋を出たため、今頃慌てて厩舎で用意を行っている所だろう。この場に馬車が来るまで、まだ時間がかかるはずだ。
くしゃりと、癖のようにその黒髪を掻き上げながら、ザイルは深く息を吐いた。心底、ほっとしていた。ゼイラルが、自分を裏切っていないことが、分かったから。
……本当ならば、もっと早い段階で疑って、問い詰めるべきだったんだろうが、な。
どうしても、疑い切ることが出来なかった。信じたいと思う気持ちを捨てきれなかった。最愛ともいうべきラテルティアは別にして、彼はザイルにとって、家族である皇族や、ジェイルのような側近と同じくらい、大事な人物だったから。
しかしそれは、フィフラル帝国の皇子としては、致命的な判断だったと言えよう。だからこそ、ラテルティアはゼイラルに攫われたのだから。
ゼイラルがメラルニアに接触し、薬品なんかを融通した上で今回のことが起きたんだ。計画そのものは、間違いなくあの女のもんだからな。……ゼイラルが味方じゃなかったら、なんて、考えたくもねぇ……。
もしそうだったならば、間違いなく事はメラルニアの望む通りに進んでいただろう。もちろん、ゼイラルに直接話を聞いたわけではないため、憶測でしかないが。ザイルに相応しくないように辱められるか、それとも、その命を奪われるか。その行く末は想像に難くなく、考えるだけで、ぞっとするというものである。
だからこそ、ザイルはラテルティアの元へ行けないのだ。彼女を貶めようとした相手を、野放しにしておくわけにはいかなかったから。ゼイラルが作ってくれた機会を、逃すわけにはいかない。
本当は、彼女の無事を今すぐにでもこの目で確かめたいと、そう思っていても。
ゼイラル一人で大丈夫か、ってのは気になるが……。あいつの事だから、何か手は打ってあるだろう。今ここで俺が動いて、あの女に伝わる方がマズい。……自分の手の内にラテルティアがいて、俺を思い通りに動かせると思わせておいた方が、都合が良いからな。
人間というのは、自分が相手よりも優位に立っていると思っている時が、一番油断しているものだ。そしてその油断が一転し、不利を悟った時こそが、最も動揺する瞬間なのである。
それに、ラテルティアと同じく、護られる側の立場である自分が彼女の元に行っても、足手まといにしかならないというもの。ザイルもまた、そこそこ剣を使える方ではあったが、立場がそれを使うことを許しはしないのである。それならば別行動をして、フィフラル帝国内でも有数の剣の使い手であるジェイルに、ラテルティアを集中して護ってもらった方が良いに決まっていた。だからこそ、ザイルはメラルニアの所在を知るために、キルナリス公爵邸へ、ジェイルはラテルティアを救出するために、ティルシス公爵家の別邸に行ってもらうことにしたのだ。今すぐにでも馬に乗り、この場を駆け出したいのを必死に留めながら。
自分が動くことによって、おそらくどこかにいるであろう監視の目を、ジェイルの姿から逸らすことも出来るだろうから。
「ザイル殿下」
考え事をしていたザイルは、背後に控えていた騎士に声をかけられて、はっと顔を上げる。
視線の先には、こちらへと近づいてくる二頭立ての馬車。周囲に並走する馬たちは、護衛たちが騎乗するためのものだろう。軽快な馬の足取りに、かぽかぽと軽い足音が聞こえてくる。
しかし、その音が近づくにつれて、ザイルは僅かに眉根を寄せた。辺りはすでに暗く、視界は良好とはいえないけれど、完全なる暗闇と言うにはまだ明るい。だからこそ、少し離れた位置にあっても見ることが出来た。
「……何で馬車がもう一台あるんだ? それに」
馬も流石に多くないだろうか。
二頭立ての馬車が二台に、並走している馬たちの背後に複数、速脚でこちらに向かう馬の姿が、また別にあるわけで。あまりの大所帯に、何かの手違いだろうと、そう思った時だった。
「ザイル殿下!」と、自分を呼ぶ声が、駆け足でこちらへと向かってくる馬たちの間から聞こえてきたのは。
「……まだこんな所にいやがったのか、ジェイル」
そこには、馬車と馬を手配したら、すぐにでもラテルティアの元へと行って欲しいと告げていた補佐官兼護衛の姿があった。
知らず険しい顔になるザイルに、しかし視線の先のジェイルは、何やら馬車の方を指さしている。何かを伝えようとしているようだった。もしかしたら、誰かが乗っているのだろうか。
緩やかにその速度を落とし、ジェイルが示した馬車はゆっくりとザイルの目の前でその動きを止める。それに合わせて、もう一台の馬車と馬たちも、いななきとともに足を止めた。
一体、誰が乗っているのだろうかと思い、背後の護衛の一人に扉を開くように指示を出そうとした時だった。かちゃり、と軽い音を立てて、内側から扉が開く。
同時に顔を出したその人物に、なぜ、と思うしかなかった。なぜ、この人がここにいるのだろう。
「エリル兄上」
いつも通り、真っ黒な長髪を束ねて垂らした、緑の目を持つ怜悧な美貌の皇太子、エリルは、かつかつと軽やかな足取りでザイルの前に降り立つ。「随分と、面白い事になっているようだな。ザイル」と、彼はその形の良い唇の端を持ち上げながら言った。
「ラテルティアが、この時間になっても皇宮に戻ってこないとか。キルナリス公爵令嬢の策略を利用した、ゼイラルの企みであるという話をジェイルから聞いたが」
楽しそうに言い、皇太子の登場に頭を下げる周囲の者たちに、軽く手を振って楽にするように合図をする。「キルナリス公爵邸へ行くのか?」と問われ、ザイルは頷き、「そのつもりです」と答えた。
「ラティのことは気になりますが、ゼイラルがせっかく作った好機ですから……。娘の所業を知らぬ公爵ではないでしょう。証拠はほとんど揃っていますが、揃って油断している今ならば、より見えるものもあるかと」
ザイルがそう続ければ、彼は「だろうな」とその言葉に同意を示し、ちらりと周囲を見やる。いつの間にそこにいたのか、二人の周囲にはたくさんの騎士たちの姿があって。「まさか」と、ザイルは小さく呟いた。
「兄上も、公爵邸に向かうおつもりで?」
それならば、騎士団一つ分は間違いなく揃っているだろう、この大人数の騎士たちにも納得がいくというもの。しかしさすがにそれは、と思いながらザイルが言えば、エリルは普段の怜悧な無表情をどこへやら、にっこりとそれはそれは楽しそうに笑った。
「も、というよりは、私がお前の代わりに、騎士たちと共に公爵邸へと向かおうかと思ってな。……準備は整った。今日で全てを終わらせてしまおう」
静かに続けられた言葉に、ザイルは僅かに目を瞠る。確かに、これ以上長引かせる意味はない。
むしろ、早く片をつけなければ、南東の隣国、テグニス国にキルナリス公爵が武器を売り込んでいることに気付かれてしまう。現在、テグニス国とその狭間の地、ティールの覇権を争っている、北東の隣国、ドリクティアル王国に。そうすれば、いずれドリクティアル王国から牙を剥かれるのはこのフィフラル帝国である。キルナリス公爵が行っているのは、そういうことだ。いずれ国家間の戦争を誘発させる、その発火剤のようなものである。だからこそ、皇太子が自ら動く程に大きな案件なのであり、キルナリス公爵らが行っているのは、間違いなく、大罪の類であるのだ。
ザイルはエリルの言葉に頷き、しかしメラルニアの所在が分からない以上、代わりに行ってもらうわけにもいかずに、「では、共に参りましょう」と告げた。
「公爵邸にメラルニアがいれば良し。いなければ、兄上に公爵邸のことを任せて、俺はあの女の元へと向かいます。ラティに手を出そうとした以上、野放しにしておくわけにはいきませんので」
これを機に、二度とラテルティアに手出し出来ないようにしなければならない。ザイルが運営する研究施設の、植物部門の統括者であり、ゼイラルの上司でもあるノイレスから聞いた、ゼイラルがメラルニアに渡したとされる薬品の内容を考えれば、始末をつけることも可能であろう。そう思ったのだけれど。
エリルはザイルの言葉に、あっさりと首を横に振った。
「公爵邸に行くのは、私だけで良い。キルナリス公爵と公爵令嬢は、今夜開かれているデンティネス伯爵邸の夜会に出席しているはずだ。お前はそこで、私が行くまで、彼らを足止めしておいて欲しい」
「屋敷を包囲し、逃げ場を押さえたらすぐに向かう」と、エリルは当然のように続けていて。ザイルは思わず、首を傾げた。なぜ、彼がそのようなことを知っているのか。まるで、こうなることを事前に予測していたとでもいうように。
思い、まじまじとエリルを見ていたら、その視線に気づいたらしいエリルが、少しだけ困ったように笑った。「この情報を仕入れたのは、私ではないぞ」と、言いながら。
「先日、母上が皇宮で開いた茶会に、デンティネス伯爵夫人が出席していたらしい。そこで、話していたそうだ。今度の夜会に、キルナリス公爵と令嬢が参加すると。……面白いことが起きそうだと言っていた、と」
「……面白いこと、ですか」
エリルの言葉を繰り返し、僅かに眉を顰める。デンティネス伯爵夫人と言えば、社交界でも有名な噂好きである。彼女に何かを話せば、社交界中に広まるまでそう時間はかからないと言われていた。
そんな彼女が興味を引くように、わざわざ言ったのだろう。面白いことが起きそうだ、と。
そしてその面白いことというのは、考えるまでもない。
「わざわざデンティネス伯爵邸の夜会に合わせて、ラティを攫う計画を立てていたということか」
ぼそりと言えば、エリルもまた同じ意見のようで、静かに頷いていた。
「あの夫人に話せば、ラテルティアがゼイラルと夜を過ごしたのだと社交界に一気に広まる。そうすれば、ザイルの婚約者として相応しくないと言い出す者が出てくるのは必至。……ゼイラルが先に気付き、動いていて良かった」
言い、ふと思い出したようにエリルは「なあ、ザイル」と、ザイルの名を呼ぶ。ザイルはそちらに顔を向け、「何でしょう」と呟いた。
「お前は、ゼイラルが一人で、お前に何も知らせずに、このようなことを計画すると思うか?」
「それは……」
どういうことでしょうか、と問い掛けようとして、やめる。ザイル自身も、ゼイラルらしくないと、そう思っていたから。むしろ他の誰かであれば、もう少し早くに切り捨てることも出来たかもしれない。そうならなかったのは、ゼイラルの、並々ならぬ忠誠心が故のこと。彼の家族の命と、彼自身の身柄を救った自分に対する、絶対の忠誠心を、当たり前に受け取っていたからである。
あいつなら、まず俺に話をしたはず。……他の誰かの入れ知恵と言われた方が、納得できるが……。
それもまた、少し考えにくいことではあった。ゼイラルは、ザイルに害を為す可能性の有る者の意見など、決して聞きはしない。余程、自分やゼイラル自身が信頼している相手であれば、あるいは。
思い、いったい誰が、と考え込むザイルに、エリルは小さく笑った。
「いるだろう。お前を愛し、あいつを信頼し、……時に、あいつ以上の情報を持って、広く周囲を見渡している人間が。お前も見ていたと聞いたが。あいつとあの人が、言葉を交わすところを。その時にはもう、あの人はあの女がラテルティアに害を為す可能性があると、そう考えていたそうだ。ラテルティアを監視していた従者に、見覚えがあったそうだからな」
「……まさか」
一つ一つの言葉を辿り、行き着いた答えに、ザイルはその目を瞠る。確かに、あの人とゼイラルの情報網があれば、メラルニアの計画を突き止めることも容易かっただろう。そしてあの人がザイルとラテルティアのためだと言えば、ゼイラルが頷くことも容易に想像できる。
あの人は、絶対に自分を裏切りはしないから。母の親友であり、自分を本当の息子のように接してくれる義母、ネルティアならば。
「義母上にも、ご助力頂いたのですね」
そう、ぽつりと呟けば、エリルはふっと柔らかく笑みを浮かべて頷き、「だから、安心しろ」と言った。
「ラテルティアの元には、母上が護衛たちと足を運んでいる。そのまま、ラテルティアとゼイラルと共に、デンティネス伯爵家の夜会に向かうそうだ。母上経由で私たちの出席や、少々場を騒がせるということも伝えてある。父上と叔父上にも話は通しておいた。……この機に、全てを終わらせる」
そう続けたエリルは、どこかほっとしたような顔をしていた。ただでさえ皇太子として仕事漬けの日々を送っている兄である。その内の一つに過ぎないとはいえ、片が付くと思えば安心するのだろう。それはザイルとて同じことだった。
「では、そろそろ私は公爵邸へ向かおう」と、エリルは踵を返し、乗って来た馬車の方へと向かい始める。
と、何かを思い出したようにこちらを振り返った。
「ああ、そうだ。実は今回の件、ドリクティアル王国自体には気付かれていないが、さすがに前線には気付いた者もいたようでな。前線を指揮している、キンズリース将軍が内密に連絡を取って来た。どうもテグニス国側で使われている銃が、フィフラル帝国で使われている物の型式によく似ている、とな」
「キンズリース将軍が、ですか……」
エリルの言葉にザイルは思わず眉を顰める。ドリクティアル王国のキンズリース将軍。勇猛果敢な性格で、前回の両国間の紛争の際にも前線を指揮していたと聞く。
それとは別に、とある理由からも、部下たちに絶大に慕われていることもまた有名であった。
「取りあえず白を切っておいたが、突き詰めれば間違いなく、帝国の貴族が行ったことだ。なけなしの良心が痛んでな。……我々は無関係だが、疲れ切っているはずのかの国の前線に、あなた方を守る盾と、あなたと部下への功労の品を贈ろうと伝えておいた。有難いという返事を頂いている」
盾と、功労の品。
エリルの言ったその言葉に、ザイルは僅かに目を細め、そのままうっそりと笑った。「ああ、それが良い」と呟きながら。
「このフィフラル帝国にとっても、かの国の前線にとっても」
丁度良い。そう口の中だけで続ける。
エリルが暗に言いたいのは、とても単純なこと。この件の責任を負うべき人物、キルナリス公爵を、盾として前線に放り出そうということだ。テグニス国には公爵の娘が嫁いでいるため、弾除けくらいにはなるかもしれない。もちろん、ならないかもしれない。そういうことである。
そして功労の品というのは、キンズリース将軍が、国境を越えて有名となった、とある理由にまつわるものだろう。
「気に入ったか?」と問いかけてくるエリルに頷き、ザイルはその顔に浮かべた笑みを深めながら、「とても」と呟いた。
「ですが、公爵を放り出すならば、公爵位はどうされるのです? まさか令息にそのまま公爵位を渡すわけにはいかないでしょう」
今回の件を、仮にも次期公爵である、公爵の息子が全く知らないでは済まされない。率直に言って廃嫡が妥当、もし関わっていたのであれば、彼もまた爵位を取り上げた上で、国外にでも追放した方が良い。
だがそうすると、公爵の位が空いてしまう。キルナリス公爵家の領地は広く、皇家の監視下に置くとしても、少々面倒だろう。ザイルがその領地を治めることも可能だが、臣籍降下した後は、ティルシス公爵位を継ぐことになっているため、それもまた憚られた。権力の偏りは、良い結果を生まない物だから。
エリルはこくりと一つ頷き、「だから、あやつに覚悟を決めてもらわなければ」と呟いた。
「今の生活に馴染んでしまっているようだが……。そろそろ、時間切れだ」
続いた言葉の示す人物は、ザイルの知る限り、一人しかいない。その姿を頭に浮かべ、ザイルはその顔に、少しだけ苦い笑みを浮かべた。
「……ええ。いずれ、あいつにはその位についてもらうつもりでしたから。あいつには、その才能も、資格もある。残念がるでしょうが、諦めてもらわなくては」
「あいつの後任探しの方は、骨が折れそうですが」と、冗談交じりに続ければ、エリルは小さく笑い、「違いない」と呟いていた。
「おっと、このままでは夜会に間に合わなくなるな。……お前は、正装した後で夜会に行くと良い。そのままでは、格好がつくまい」
苦笑混じりに言われて、自分の格好を見下ろしてみる。先程まで執務室で仕事をしていたため、最上級の仕立ての衣服も、どこかくたびれて見えた。髪もまた、整っているとはとても言い難いだろう。
「では、足止めを頼んだぞ。ザイル」と言って、今度こそ馬車に乗り込んで行くエリルに一礼し、「兄上も、お気をつけて」と告げた。応じる声と共に、その扉が閉じられ、ゆっくりと動き出す。
その後ろ姿を見送ることなく、ザイルは護衛の騎士たちと、馬車にその御者、馬たちにこの場で待機するよう指示し、踵を返した。
「兄上に言われたからには、面倒くせぇが正装しねぇとな」と呟けば、背後に付き従ったジェイルが苦笑交じりに、「皇太子殿下に言って頂いて良かったです」と笑っていた。
いつも閲覧・評価・ブクマを頂きありがとうございます!
とても嬉しいです。
活動報告に書いていた通り、少々忙しかったのですが、やっと落ち着きました。
あと三話前後でこのお話も終わる予定ですので、もう少しだけお付き合いくださいませ。




